16.孔雀石〜Malachite〜
白く開けていく空が朝日の訪れを知らせる。
ひたすら遠くまで続く緑の森の景色。小さな屋根からポタ、ポタ、と雫が落ちてコンクリートを濡らしている。
木々に閉ざされたこの場所で最も陽の当たる、屋上。
階段に繋がるドアの隣に疲れ果てた彼はいた。
セレスタイト……
ぽつりと小さく口にする。ほんの数時間前、まだ暗いあのときに耳にした名を。
彼はもう一つ、呟いた。消え入りそうな声で“カイト”と。
「俺のこと、だよな……?」
呆然と手元を見つめるその顔がやがて激しくかぶりを振った。
「あーーっ!もう、何なんだよ!!」
大音量を上げて緑の短髪を掻きむしる。そうせずにはいられないかのように。
ーーマラカイト?
ふと、一つの声が流れ込んだ。きっと彼にとって馴染みのある甘い声。
ギシギシとした固い動きでマラカイトは振り返った。
「若……」
ドアから半身を覗かせたその人が見ていた。アメジスト色を大きく見開き、驚いたような顔で。
マラカイトは頭を抱えた。どうやら不覚だったようだ。
ドアの開く音はちょうど先程の彼の雄叫びと重なってしまっていた。
「ひどい顔だな」
うなだれている彼の隣へとごく自然な動きでシャウラが腰を降ろす。首を傾いでクマの浮き上がったマラカイトの顔を覗き込もうとしている。
「……見ないで下さい」
ついにマラカイトは泣きそうな何とも情けない声を漏らしながら膝に顔を伏せた。その全体像はか弱い、そう若い女のような。
やがてそこからくぐもった声が呟き出した。
「自分、若に合わせる顔がないっス……」
しばらく黙って見つめていたシャウラが口を開く。マラカイト、と彼は切り出す。
「王宮の全兵士が駆け付けていたんだろう?そうなったらもう撤退するしかない。お前の判断は正しいよ」
淡々としていながらも寄り添うのがわかる言葉が縮こまった彼を起こした。
若……
顔を上げたマラカイトが何度も何かを言いかけては飲み込む。さすがに気付いたのだろう、シャウラが心配そうに見つめ返す。
ごくり、と一回、喉の鳴る音がした。マラカイトがやっと隣へ言った。
「若は……許されない恋とか、経験ありますか?」
長い間、沈黙が居座った。
えっ……
だいぶ遅れて反応が返った。ポカンと顔を合わせる二人。お互いに対して驚いている。その片方がみるみる赤みを帯びていく。
「わ、若?」
「何だ」
「顔……」
やっと気付いたようにシャウラが赤い自身の顔をそむけた。平静を装おうとしているようだがキョロキョロと定まらない焦点がしきりに泳いでいる。
「あるんですか?」
マラカイトが身を乗り出した。さすが大人ですね!尊敬を思わせる眼差しでそんなことを言っている。
「その……マラカイト」
蓋をするみたいに口元を押さえたシャウラが言う。先程までのマラカイトに似たくぐもった声で。
「もしかしてそれは桜庭伊津美のことか?」
……!
声を詰まらせるマラカイト。紫の双眼が静かにその様子を捉える。
それが……
じっと見つめられたマラカイトがいたたまれないように呟いた。
「よく、わからないんです」
僕もわからない、とでも言いたげにシャウラが首を傾げる。自身の動揺を何とか落ち着かせ、意味深な話に集中しようと努めているようだ。
やがて彼が問いかけた。
「何かあったのか?」
問われたマラカイトは険しい顔をうつむかせ押し黙っている。またしばらく沈黙が続いた。そしてまた、突拍子もないものがそれを破った。
「……告られたっス」
「こく?」
わかっていない、そんなシャウラの表情に気付いたマラカイトは改めて言った。
「その、つまり告白……です」
好きだって、あの女……
サワサワと遠くで木々が鳴いている。朝露が肌へ降りてくる。全体を現した朝日が眩しい。
「そんな……マラカイト……」
愕然としたような声。見開かれたシャウラの目元の片側は朝日の為に更に陰影を濃くしている。
はっ、とマラカイトは息を飲んだ。
すみません!
我に返り慌てた様子で彼は言った。
「やっぱりおかしいですよね、こんなの!あの女、多分俺を惑わせる為に……」
告白……という小さな呟きがこぼれる。思いつめたようなシャウラの表情。マラカイトはいよいよ焦燥を露わにする。
「だからそれはあの女の戦略で、もちろん俺にそんな気は……!」
「告白、なんて……」
何故かうつむいたシャウラ。息を詰まらせたマラカイトが彼の細い肩を掴んだ。若、と申し訳なさそうに彼は言った。シャウラも薄い唇を開く。
次のタイミングで二人の声が重なった。
「自分なら大丈夫っス!だから忘れて下さい。若が悩む必要なんて……」
「僕だってまだ……そんなの、ただの一度も……」
シーン。そんな音が聞こえてきそうな空気がその場を占めた。
呆気にとられた両の顔。被りつつもお互いの声を聞き止めたのだろうか。
先に口を開いたのマラカイトだった。言いづらそうな、わずかに憐れみの浮かんだ表情だった。
「若、論点はそこじゃないっス」
血の気と表情の乏しいことで知られる若頭の顔がやけに健康的に色付いた。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
空に馴染み始めた朝日の色を眺めながらマラカイトはつい数時間前に起こったことを語った。
やがてシャウラが待って、と声を上げた。驚きに目を見張った彼が言った。
「桜庭伊津美があのセレスタイトだったというのか?」
緊張した空気が辺りを占める。紫の瞳が動揺を抑えられないみたいに揺れている。今度はマラカイトが驚く番だった。
「若、知ってるんですか?」
ん…まぁ…
濁すような返答とも呼べない返しにマラカイトは更に怪訝に眉を寄せる。目をそらし正面を向いたシャウラが言う。
「聞いたことはあるよ」
「マジっすか!?」
目を合わせない隣を男を不審に思ったに違いない。それでも彼は食い付くようにそこへ身を乗り出す。どんな女なんですか、と問いかける。
今は得体の知れない妖精【セレスタイト】に対する関心の方がはるかに勝っているようだ。
ちら、と紫の目が一瞥した。元へ向き直ったシャウラが返した。
「間近で見たお前ならわかるだろう?尋常じゃなく妖力の強い女性だよ」
ああ、と呟いて納得の表情を見せるマラカイト。顔中の筋肉を強張らせ、その身に感じたものを思い出し恐怖するみたいに片側の腕を押さえた。
「あれはヤバイっスよ!天気まで操るとかあの女マジで何者っスか!?」
「有名人、かな」
興奮気味なマラカイトの言葉にシャウラはあくまでも静かに返す。
相変わらず彼方へ視線を送ったまま、まるで当たり障りのない言葉を選んでいるみたいに。
ーーわからないっス。
やがてマラカイトの沈んだ声がした。シャウラがやっとそちらを向いた。静寂を象ったような表情のまま。
「あの女、俺を“カイト”って呼んだんです。あだ名みたいに……」
「うん」
「おかしいじゃないですか。そもそもあの女はフィジカルの人間ですよ?転生前の姿ならなおさら、俺とはアストラルで生きていた時代が違うはずです」
顔を合わせる機会なんて、絶対になかったはずなのに……
理解の追いつかない状況。困惑を示すような呟きが漏れた。
妖精の彼の思いつめた横顔をシャウラは見ていた。
「……そうだね」
ためらいがちに返した彼の視線はまた何処かへと泳いだ。
「マラカイトは、どうしたいの?」
やがて静かな問いが起こった。不安定だった視線を戻し、じっと見つめるシャウラ。
マラカイトは目を伏せた。気まずそうにな表情のまま、口を開いた。
「……正直に言っていいですか?」
「いいよ」
「誰にも言わないでほしいんですけど……」
「……言わないよ」
そっとマラカイトが顔を上げた。ぐっ、とその喉元が隆起した。
よくわからないんですけど……
困惑しつつも、はっきりと言った。
「誰にも渡したくないんです。あの男と一緒にいるところを見ると、理性が飛びそうになります」
うん、とシャウラが頷く。あの男なるものに覚えがあるようだ。
マラカイトが眉を八の字に歪ませた。情けなく、すがるような顔で問いかけた。
「俺……おかしいんですかね?」
言っておきながら後悔したのか恥ずかしいのか、彼はそのまま力なくうつむく。しかしすぐに顔を上げた。
目の前で起こった動きに気付いて。
ううん。
声はなくともそう言っているのがわかる、かぶりを振る仕草。紫の双眼に満ちていく憂い。
今にも霞んで消えそうな儚げな微笑。
「若……?」
いつの間にかマラカイトの方が心配そうにそこへ見入っていた。
大丈夫。彼の目を釘付けにしている表情とは明らかに相反する一言が返ってきた。同じ声が続けて言った。
おかしいのは僕も同じだ。
「若……」
恐る恐るな口調が呟きのように言った。
「若は、もしかして……」
「マラカイト」
続きは遮られた。微笑むその人の言葉によって。
「寝ていないんだろ?少し休め」
「でも、若」
「僕はちょっとばかり早起きが過ぎただけだ」
心配はいらない、とシャウラは言う。開きかけたマラカイトの唇はしばらく止まったままだった。
立ち入ってはならない、そんな雰囲気を敏感に感じ取ったみたいに。
じゃあ、と彼は立ち上がった。座ったままのシャウラに向かって一回頭を下げた。階段へと繋がるドアに手をかけた。
開く前に彼はもう一度、振り返った。若、と呼びかけた。不思議そうに見つめ上げるその人に言った。
「若はモテると思います!自分、この間聞いたんです」
呆然としたシャウラの表情が固まる。何をだ?と問いかける彼にマラカイトは誇らしげな笑顔を返す。彼は答えた。何処か嬉しそうな張りのある声で。
「名前は知らないけど多分管理部の女が二人、喋ってたんです。あの哀愁帯びた表情がたまらない。泣かせたくなるって!」
告られる日も近いですよ、きっと!
そう言って自らのことのように得意気に胸を張る。
シャウラがゆっくり首を傾げた。困惑した様子の彼が言った。
「それは本当に……好意、なのか?」
はい!とキレの良い返事が返ってくる。しばし渋い顔で唸るシャウラ。彼の疑問は解決しなかったようだ。
マラカイトが立ち去った。気配も完全に去った。
彼のものだけは。
はぁ、とため息が落ちた。鋭く冷やかな目つきへと変わったシャウラが口を開いた。
……居るんだろ、親父。
ザワザワと遠くの木々が騒ぐ。潜むものに恐れているかのように、不穏な動きで。
やがてその姿が現れた。下へ続く階段用に設置された小屋のような形状の陰から、そっと。シャウラも同時に立ち上がった。
「青春してるねぇ、いいねぇ、若い者は」
いつもの軽快な口調の持ち主へシャウラは氷のような視線を送る。そこから明らかな嫌悪感が漂っている。
「人の話を盗み聞きする癖、何とかならないのか。悪趣味だ」
「あれぇ、それ言っちゃう?自分だって得意なクセに?それにね、私の場合はこれが仕事なんだよ。部下を監督するという大事な…ね」
ふふ、とこぼれる笑みに余裕が現れている。同じ色の瞳が距離を置いて向かい合う。
朝日を受けて輝く白に近い銀の長髪が蜘蛛の糸のよう。大きく、広くなびく黒のロングコートがただでさえ長身なその人のシルエットを更に威圧的に見せる。
尋常ならぬ魔力を常にまとった中年の男、ルシフェル。一目で血縁の見て取れるシャウラはさもつまらなそうにそこから目をそむける。
なぁ、シャウラ。
寂しげな声が彼に言う。
「お前の反抗期はいつ終わるんだ?」
「………」
やがてふっと小さく息を吐く音がした。だんまりを決め込む息子を前にしたルシフェルがやれやれと言わんばかりの苦笑を浮かべる。
それさえ気に入らないようにシャウラはきつい上目遣いで睨む。
「……桜庭伊津美が女帝セレスタイトだと、知っていたのか?」
「おお、それは驚いた!まさか彼女が伝説の妖精女帝だとはねぇ。それならなおさらお力を借りたいものだ」
フン、とシャウラは鼻を鳴らした。軽蔑の表情で白々しい、と吐き捨てる。
ルシフェルの顔が困ったように歪んだ。悲しそうな声で彼は言う。
「何故、私を疑うんだい?私はお前の父親だよ」
何故?
そのフレーズが繰り返された。暗く冷たい声のシャウラが薄く笑った。
「笑わせるな。自分の胸に聞いてみろよ」
「お前という子は……」
寂しいなぁ、そうこぼしながらルシフェルはいじけたように唇を尖らせる。シャウラはうんざりした様子でため息をつく。もう疲れきった、そんな表情で。
あのね、シャウラ。
懲りないルシフェルが諭すように切り出した。
「これは必要なことなんだよ。お前は恨んでいるだろうけど、あのときだって……」
「マラカイトを解放してやってくれ」
「え、無視?」
呆然とした顔でひどいよ、とこぼすルシフェルへとシャウラは一歩近付く。薄い朱を帯びた顔、小さくも火のついた様子で彼は言う。
「部下を大切に思っているなら、アイツの苦悩をわかってやれよ!何故フィジカルの人間を巻き込む必要がある?僕らが勝手に始めたことじゃないか!」
やがて静まり始めた、風。
向かい合う変化にシャウラの表情が凍った。
ついさっきまでヘラヘラと締まりのなかったルシフェルの顔つきが形を変えていた。冷たい、感情の読めない、ひたすら無を感じさせるものに。
ーーわかっていないな、お前は。
淡々と抑揚のない言葉が紡がれていく。
「フィジカルを抹消して新しい世界を創るということは、あの腐った場所に閉じ込められた人間たちを救うということだ」
少年じみた軽快な口調は徐々に確実に変わっていく。おそらくは本来のものへと。
少し溜めるような間を置いて、続いた。
「志半ばで死んでいったマラカイトのかつての願いも叶えられるということなのだぞ」
「……物は言いようだな」
シャウラの表情は変わらない。譲る様子のない二人の紫がぶつかり合う。
はたから見る者がいるとするならきっと火花の散る錯覚を覚えるだろう。
何とでも言え。
やがて片方が言った。ルシフェルだった。
「お前にもいずれ、わかる」
そう響いた直後、別の音がした。シャウラは背後を振り返った。
開いたドアから一人の姿が現れた。
浅黒の肌に羊のような下向きの角を生やした体格の良い男。歳の頃はそう、ちょうどルシフェルと同じくらいの。
彼はあっ、と小さく声を上げた。向かい合う二人の姿に驚いたのか、それ以上に主張するただならぬ空気を察したのか、少々気まずそうに顔を強張らせる。
「ルシフェル様、それに若、お話し中に申し訳ございません」
よく似た二人が同じ真顔で彼を見る。それを受けた男の背筋がみるみる伸びていく。
走ってきたのだろうか、額を汗で湿らせた彼がそっと歩み寄った。ルシフェルの方へ。
「恐れ入ります、ルシフェル様」
少しだけ、お耳を。
口元を手で覆い隠したその人がルシフェルの鋭利な耳へ顔を寄せた。ぴく、と一瞬動いた瞼。シャウラのそれも同じように跳ね上がる。
「……わかった、すぐに行くよ」
答えたルシフェルは怪訝そうに眉をひそめるシャウラに一瞥もくれず、男と共に早足でドアの向こうへ吸い込まれていった。バタン、と簡素な創りのドアが乾いた音を立てて蓋をした。
一人残ったシャウラはしばらく彼方を眺めていた。
風になびかされ執拗に顔に貼り付こうとする銀髪を片手で鬱陶しげに払いのけた。チッ、と湿った舌打ちがこぼれた。
「……わかりたくもないよ、クソ親父」
そう一言だけ、落とした。