15.信頼〜Trust〜
暗雲はすっかり遠ざかった。高くそびえ立つ
木々の向こうから星の明かりが照らしてくれる。
状況に似つかわしくない程、幻想的に。
一歩、また一歩と歩んでいく。その先に佇む彼が小さくかぶりを振る。
やめろ、来るな、そんなことを言っている。ついさっきまで来いと言っていたのに何と滑稽なことか。
それすらきっと気付いていない。何かに支配されているが故に。
怯えを隠すように強がりを吐くしかない。それでも受け止める。受け止めてみせる。
何よりも愛しい、あなただから。
やめろぉぉぉ!!
ついに彼が限界を迎えたみたいに叫んだ。凄まじい唸り声と妖力が空気を震わせた。それはすぐに間近に迫った。足元へ視線を落とした。
目にも止まらぬ早さで成長した草に手足を掴まれた。あっ、と小さく漏らしたときにはすでに高い宙へと巻き上げられていた。
巻き付いた草がギリギリと不快な音を立てながら容赦なく締め付けてくる。力が抜けていく。妖力が奪われていくのがわかる。
カイト…
薄れゆく意識の中でやっとその名を口にする。こちらを見上げている彼の表情はもう遠くて、わからない。
俺は…っ!
代わりにがむしゃらな叫び声だけが冷たい空気を走り抜けて届く。
「俺はルナティック・ヘブンのマラカイトだ!新世界を創る為にお前を連れていく!」
「カイ、ト…どう…して…」
意識は更に遠のいていく。自身の限界が見えてしまう。
取り戻したいのに。もう一度、私を見て欲しいのに、
これ以上、何もできないなんて…
こぼれたものが頬を濡らした。そのときだった。
遠い意識の中で鳴り響く破裂音を聞いた。きつい締め付けが解かれたのは同時だった。
落ちていく。あのときのように。
もう飛び上がる力はない。羽を失ったような錯覚を覚えた。だけどあのときとは違った。
打ち付けられる衝撃の代わりに柔らかい感触に包まれた。凄い速さ。頬を撫でる風が一層冷たく、意識を覚ましていく。
うっすらと瞼を開いた。黒く広がるものが夜空の手前に見えた。
レグルス…?
もう知っていた。彼の魔力の気配を、時に嫌と思う程。
地に降り立った気配。まだ力の入らない身体が木を背もたれにそっと置かれた。二つの声がした。
「またてめぇか、レグルス…!」
「また、だと?」
何とも優雅に佇む翼の生えた後ろ姿がフン、と鼻を鳴らす音を立てる。
「ノコノコと王宮に現れておきながら笑わせてくれるな。ここは俺らの庭だぞ。」
嘲笑うような余裕に満ちた声が言う。
闇色を背負った後ろ姿は振り返らない。ただそこから放たれる魔力が弱った身体にピリピリと電流のような痺れを与えてくる。
「レグ…ルス…」
その名を呼ぶと一瞬ぴくりと反応するのがわかった。しかし魔力の滾った彼の身体はなおも前を見据えたまま。
始まる、そう感じた。
「つくづく目障りな野郎だ…!」
皮切りはマラカイトの荒々しい声だった。ジャラ!と重い金属音が鳴り響いた。
レグルスも地を蹴って走り出した。激しい熱風が吹き付けた。
真っ直ぐ突き出されたレグルスの手の平から放たれた炎。その勢いがマラカイトの身体もろとも跳ね返す。
苦しみ悶える彼の声が響く。
無我夢中で地を這った。レグルス!彼の背中へ叫んだ。力の限り。
「やめて…お願い…!」
木のふもとで呻いているマラカイト。その前に佇む彼の足が動きを止めた。
やはり振り返らない、だけどきっと聞こえている。願いを込めて更に吐き出す。
「待って…カイトは悪い人なんかじゃ…」
やっと、振り返った。離れていながらも顔は見えた。
背筋が凍る程、恐ろしい顔が。
そんなことわかっている!!
紛れもない彼の声に息が詰まった。思わず身をすくませた。おのずと口元が戦慄いた。
薙いだ木の葉が図ったように空間を作って星明かりを迎え入れる。佇む彼を照らし出す。
歯をきつく食いしばっているのがわかる表情、乱れた前髪の下にある額まではっきりと。
その後ろに鈍い動きが見えた。身体を起こしたマラカイトが鎖を握り締め、彼の背中を睨んでいる。
もう、駄目…無理よ…
胸の内で悲鳴を上げた。
私を愛してくれた人。
私を助けてくれた人。
どうすればいいのか、もう…!
「レグルス!伊津美ッ!!」
覚えのある声が静寂を破った。そちらを振り返った。
王宮の方面からいくつかの人影が向かってくる。最初に見えたのはメイサだった。
視線の先、手前側で木々が不穏な動きでうねった。草が伸び枝が分かれ中央へ集まって密度を増す。向かい来る人影の前に壁を作ろうとしている。
後ろからの凄まじい妖力を感じた。うろたえたような猫背がちのマラカイトの全身から緑色のオーラが滾っている。
ゴオッ、という地鳴りのような音に驚いた。焦げて散り散りになった草木の破片がオレンジに光りながら闇を舞う。
破られた草木のバリケードの奥からがっしりと大ぶりな火炎放射器のようなものを持ったメイサと爪先に小さな炎を従えたクー・シーが姿を現した。
「伊津美さんっ!」
遅れて現れたネグリジェ姿のミラ。地を踏み鳴らす不揃いな響きが迫ってくる。尋常じゃない人数が他にも向かって来ているのがわかる。
メイサの言葉がそれを示した。
「王宮の親衛隊が全員で向かってるよ!」
諦めな!と彼女は言い放つ。眼力鋭い漆黒の目は間違いなく彼の方へと向いている。
蠢く草木の成長が、止まった。くそっ!小さな呻きを耳にした。そちらを振り返った。
焦燥に顔を歪めたマラカイトがじり、と後ずさりを始める。その足元の草が螺旋状を描いて上へと這い上がる。
それは竜巻のような遠心力を放って周囲の枝を、葉を千切り取って宙に躍らせる。
何が起こっているのかすぐにわかって手を伸ばした。
「カイト…!!」
「危ないよ、伊津美!!」
彼が螺旋に包まれていく。見えなくなってしまう。
何度も何度も呼んだ。喉の奥が裂けそうな程に。
肩を掴むメイサのものと思われる手を何度も振りきった。それでも負けじと抑え込まれてしまう。
嫌よ…
もはや声にもならないものをこぼした。やっとまた逢えたというのにどうして、と。
風が、失速を始めた。目を見開いた。愕然と。
元の姿へと戻った草木。そこに彼の姿はなかった。翼を生やしたままのレグルスの遠い背中、そして虚しさだけがそこにいる。
逃げられたか…
低い声が聞こえた。握られたレグルスの拳が力に耐え切れないようにぶれている。
ふっと力が抜けた。両側から支えられる感覚があった。
「大丈夫か、伊津美…」
メイサの声が呼んでくれる。だけど返す力はない。しばらくそうしていた。やがて気付いた。
一つの足音がすぐ間近で止まったことに。
やっと上げることのできた顔は一瞬のうちに硬直した。燃えるような赤を前にして。
「いい加減にしろよ、アンタッ!!」
思わずビクッと跳ね上がった。レグルスの鋭い目が見下ろしていた。端正であるはずの顔の皺のつき方は紛れもなく怒りを示していた。
初めて会ったとき以来だと思った。こんな口ぶりを耳にするのは。
おそらくは飾らないありのままであろう声が言った。
「王宮の外に出るなってメイサに言われたろ!?俺ならともかく、メイサやミラやクー・シーとは仲良くしていたんじゃないのか?信じていないのか?」
容赦もない鋭利な口調に胸を抉られる。ぐっと唇を噛み締めた。突き上げる勢いのままに叫んだ。
「信じてるわ!信じてるけど…っ」
妖力の回復しきっていない弱った身体を起こした。躊躇すらなく前のめりになった。何処にそんな力が残っていたのだろうと、自分でも不思議なくらいに。
赤と青が真正面からぶつかり合う。それは予兆のようだった。身を取り繕うものを脱ぎ捨てた二人、ありのまま同士が交わる瞬間の。
もう、わからない…!
こちらから先に叫んだ。
「突然優輝がいなくなって、私までここへ連れ込まれて、それまでなかった記憶が蘇って、今では自分が何者なのかもわからない。セレスタイトなのか伊津美なのか…生き方さえ見失ってしまった。カイトに会うことさえ許されない。彼がどんな存在なのか私は知っているのに、助けてあげることもできない…!あなたにわかる訳ないわ、私の気持ちなんて!!」
「ああ、わからないね!他人の気持ちなんてそんなもんだ!セレスタイト、アンタだってわかっていないだろう。俺らがどれだけアンタの心配をしていたか。わかっていたらこんな馬鹿なマネするはずかないんだからな!!」
声を詰まらせた。言い返したいことはいくらでもあったはずなのに奥でくすぶって出てこない。
得意の理屈がためも何処かへいってしまった。ただ熱く蒸気した頬へさめざめと雫が降りるだけ。
レグルスは肩で息を切らしている。血の気の少ない顔は今、わずかな色に染まっている。彼はなおも言う。
「俺だって【セレスタイト】がこんなに厄介だとは思わなかったよ!泣けばうるせーし怒ればこえーし女帝らしさの欠片もねぇ!アンタはただの女だ!それも相当ヒステリックな…」
強く睨んだ。何も言い返せない、見事なまでに本質を突かれているが悔しくて。
だけどやがて、静まった。
ーーそれでいい。
確かにはっきりと聞こえた彼の声に目を見開いた。
「ただの女でいい。女帝になんて戻らなくていいんだ。そんな必要はない。」
アンタはもう、孤独じゃない。
深く息を吐く音が彼の方からした。ゆっくりと細長い身体が縮まった。
視線を合わせるようにしゃがんだレグルス。星明かりを受けた青白い顔がすぐ目の前に。さっきまでの血の気はもう影を潜めている。
自然と流れ込む感覚がまるで嘘みたいだった。吸い込まれるような深い、深い赤に魅入った。
あんなに怖いと思っていた色が今ではすごく優しく、温かく見える。安心感さえ覚えてしまう程に。
ーー俺は、魔族だ。
彼が口を開いた。だけど、とぶれることのない声が続けた。
「妖精や人間を見下すつもりも滅ぼすつもりもない。共に生きたい。時代は変わったんだ。それでもまだ争いはある。何の為に伝説があるのか、何の為にアンタが苦しんだのか…もう無駄にはしたくねぇんだ。だから、俺は…」
アンタと一緒に戦いたい。
思わぬ一言が届いた。レグルスの顔は少し笑っているように見える。それでも残っている。真摯な瞳の色が。
「アンタを助けたのは運命だと思ってる…感謝しているんだ。目をそらしてはいけない痛みを、更なる覚悟を俺に与えてくれた。」
セレスタイト…
彼が呼んだ。
続く最後の言葉が奥深くを揺さぶった。
ーーもう、独りになるな。ーー
雨上がりの湿った風になびかされる銀色。その間から覗くまだ癒えていない、傷。
恐る恐る手を伸ばした。指先でそこへ触れると返ってくる小さな息の音と驚いたような顔。
ごめん…なさい…
抑えきれない感情に声が、全身が、震えた。溢れるもので霞みゆく彼にやっとの思いで言った。
「ごめんなさい、レグルス…」
指先に感じる凹凸の感触が胸をきつく締め付ける。
傷付いてしまったんだ、私の為に…そう思った。
それでも彼は恨み言の一つも口にしなかった。それどころか隠そうとさえしていた。
直接言えだなんて無理だったのだと知った。これ程までに強い覚悟を持った彼にそんなことできるはずがなかったのだと、今更のように。
「気にすんな、これくらい。」
震えの止まらない指に柔らかな締め付けを感じた。彼が手を握っていた。
セレスタイト、
野性味のある低い声が言った。
「俺らの仲間になってくれないか。アンタの為にもきっとそれがいい。」
思わずかぶりを振った。しゃくり上げながら返した。
「私に…そんな資格…」
遠い記憶…いや、逃れられないトラウマが蘇る。
私は危険な力を秘めている。時に感情に飲み込まれて全てを消してしまう程の。
だから本当の自分を隠すことを選んだ。限界まで酷使した魂の回復も気持ちの整理をつけることも容易ではなくて、転生には長い長い時間がかかった。
人と深く関わることを避けてきた。そんな私が仲間を持つだなんて…
ーー怖い。
もう誰も傷付けたくない、だけど知っている。誰一人傷付けずに生きることなんてできないと。
そんな自信も覚悟も当然…
ーー馬鹿だな。ーー
不意に訪れた声が追憶から引き戻した。目を開いて顔を上げた。
困ったような顔をしたレグルスが見ていた。彼は言った。
仲間になる為に資格がいると思ってるのか?と。
思わず息を飲んだ。目の前の彼が首を振った。横に。
そんなものは要らない。
彼は言う。
「ただ信じる、それだけでいいんだ。」
すごく簡潔なのに納得できてしまった。片手で収まってしまう程少ない、かつて心を開くことができた人…その姿が脳裏に映し出された。
説明がついてしまう、そう思った。
「俺らを、信じてくれるか?セレスタイト。」
レグルスが問う。まだ少し不安を宿したような顔で見ている。
だけど彼は変わろうとしている。受け入れようと、前へ進もうとしているのがわかる。
辺りを見渡してみた。
いくつも温かい視線をこの一身に受けていることに気付いた。それは目が眩みそうな程に眩しく、2000年もの間崩れることのなかった氷の鎧を溶かしていく。
「…うん。」
涙目のまま、頷いた。大きなレグルスの手が頭に被さった。髪がぐちゃぐちゃに乱れるくらい荒々しい手つきで掻き回された。よほど嬉しかったのか、そう思って笑った。
「伊津美…いや、セレスタイト?どっちでもいいよ。名前はあくまでも相手を識別する為の手段だ。」
この理屈っぽい口調はメイサか。
声の方を向いた。予想通りの姿があった。
好きな方で呼んでやるよ、と彼女は言う。
「伊津美さんもいいけど、僕はセレスタイトの方が好きだなぁ。カッコイイし!でもちょっと長いよね…」
この無邪気な声はクー・シー。そちらを向く前にそうだ!と同じ声が一際大きく上がった。
「セレスって呼ぶのはどぉ?」
クー・シーが覗き込むように寄ってくる。自らの案がよほど気に入ったのか目をキラキラと輝かせながら。
「うん!セレスって可愛いと思う!」
愛らしいミラの声が同意を示す。胸の前で手を合わせて微笑む彼女につられて発案者のクー・シーがへへ、と漏らしてはにかむ。
近くのメイサがそれを横目で見ながら例のニヤニヤ笑いを始めた。きっとまたろくでもないことを言い出すのだろう。
「いいんじゃん!お子ちゃまのクー・シーでも呼びやすいんじゃね?」
「お子ちゃまじゃないもん!男だもん!」
「あー、はいはい。」
ムキになったクー・シーと茶化すメイサが何処ぞへ走り去って、やんややんやと騒いでいる。この二人は本当に、相変わらずだ。
セレス、か。
与えられたばかりのその名を胸の内で繰り返してみた。
決して珍しいものではない、あのフィジカルの島国の外なら同じ名を持つ人間がごまんといることだろう。
だけど特別なのだ。他でもない彼らに付けられたその名は決して代わりが効かず、そして何だか無性にくすぐったい。
「改めて宜しくな、セレス。」
涼しげな笑顔のレグルスがそっと手を差し伸べる。もう迷いはなかった。
改めて自分が限りなく臆病であったことを知る。だけどもう変わらなくてはいけない、そのときが来ていると思った。
彼らのように生きていきたいのなら、と。
「ええ、レグルス。」
彼の手を握り返した。ひんやりと冷たい、少し汗ばんだ手。温かい眼差し。
目の前にいる彼はもう“魔族”ではない。
怒ればやたらと怖いくせに笑えば嘘みたいに温かい。
敬語も上手く使えていない。王女のフィアンセとは何かの冗談ではないかと思う程、不器用で本性見え見えのただの男。
【レグルス】以外の何者でもない、そう思えた。