14.孤独〜Loneliness〜
翌る日の朝、それは突然だった。
クー・シーに促されるまま扉を開いた。そこにいるはずの彼女の姿がない。
しきりに見渡してやっと気付いた。すでに駆けつけていた皆の視線の向く方へ。
……見つけた。
異空間のものを切り取ったみたいに美しく鮮やかな色に意識の全てを奪われる。人形みたくこじんまりとベッドに腰掛けている。あまりに小さいその姿にレグルスは目を見張った。
予兆を感じなかったのは無理もない、会話すらろくに交わしていない者にわかるはずもないと思った。だけどそれすら見当違いだったとすぐに思い知らされた。覚めつつある目で辺りを見回して。
みんな驚いているとわかった。ひたすら一点に釘付けとなった視線。あの肝の据わったメイサでさえもがだ。
考えてみれば当然のことだった。
フィジカルの者がアストラルへ渡ると前世の姿を取り戻す。知識として知ってはいる。幼いクー・シーがどうかはともかくとして。
しかしそれは一体何年前の話だろうか。どんな研究者がいかにしてその事実を知り、語り継いだのだろう。
実際は出処すら知らない。そして普通ならそんな機会に直面するなど頻繁に起こるはずもない。この状況が異常なのだと改めて思い知らされる。
初めてなのだ。少なくともここに居る全員、そして自分自身も。
だけど全く予想していなかった訳ではない。あの波長は確かにこの身へ伝わっていたのだから。
あなたは…
レグルスは口を開いた。すでに感じていたことを小さな彼女へ放った。
「やっぱり、妖精だったのですね。」
それも並外れたものではない。アストラルへ渡ってから顔を合わせる度に濃さを増していった、波長。
純血。
こくり、と彼女が小さく頷く。水中の揺らぎのような青の瞳はすぐにこちらからそれた。
私の…前世ということね?
彼女は問いかける。こちらではなくメイサの方へ。
そうだよ、と問われたメイサが返答する。聞いて驚いた。もうほとんどのことを話しているというではないか。レグルスの唇はおのずと不満に尖っていく。
アンタなぁ…
口調が沈む。んだよ、と彼女が返す。ふてぶてしいのはいつものことながら今日は更に不満気な反応に見える。
「俺のいない間にどんだけ喋ってんだ。段階ってもんがあるってこの間も言ったろ。」
「アンタがしょげてるから手間を省いてやったんだろうが。」
感謝しろよ、とメイサは言う。しょげてねぇよ、とレグルスはとりあえず返す。何のものかもわからないため息が落ちた。
俺は一体何の為に…
これまでのことを思い出していた。睡眠不足の身体を更に追い込むあの葛藤の日々を。
自信を失いかけたのはもう何度目になるかもわからない。それでもしきりに凝り固まった頭を動かして、湯に浸かる時間さえ惜しんで考えていた。
底知れぬ力を秘めた、恐ろしくも興味深い彼女、桜庭伊津美と向き合う術を。
これがメイサなりの気の遣い方だ。わかってはいるが…
やがて気が付いた。一人思いつめたようにうつむいている色鮮やかで小さな彼女に。
おそらくは初めに思い出すであろうこと、それを問いかけた。
…セレスタイト。
耳を疑った。一気に血の気が引いた。
セレスタイト!?思わず大声で返してしまった。周りもそれにつられるみたいにざわつき始めた。
その顔に不安の色を残しつつも何もわかっていないかのような澄んだ瞳で見上げる彼女。自分の口にしたことの意味だってもちろんわかっていないのだろう。
アンタのことはみんな知ってるよ。
メイサが切り出した。アンタは有名人だ、キョトンとした顔に向かって彼女は言う。
止めようかと思った。話すのか?とためらいつつ聞いた。
だけど事態はすでに動き出している。怯えたような表情、今にも逃げ出しそうに身を引いている彼女の身体はすでに変わっている。
きっと彼女の、そして自分自身内なるものが逃げることを拒んでいる。レグルスの全身は緊張に強張っていく。
覚悟をせざるを得ないとは肌で感じていた。
追憶は始まってしまった。
小さな身体からは想像もできない程の力で胸元にすがりつかれた。怯えていたのが嘘だったようにためらいもなく。
青の瞳が間近に。レグルスは赤の目を見開いた。
見上げる切ない表情。焦がれる女の顔。
フィジカルで初めて会ったときの同じ波長が更に強く、電流のごとくピリピリと肌を撫で上げる。
ええ…
恐れをやっと振り切ったレグルスは自身の知ることを彼女に告げた。
マラカイト。
そう耳にしたとき、すぐにあの伝説が脳裏をかすめた。伝わる色濃い波長を受けて、なおのこと。
だけど語り継がれる太古の妖精騎士の情報と言えばただ一つ。
若い妖精たちを助け、自らも果敢に戦に身を投じた…それだけだ。
彼がどんな生涯を送ったのか、ましてや誰を想っていたのかなど欠片たりとも記録されてはいない。
桜庭伊津美は彼と同じ妖精の波長を残している。もしかすると同じ時代を生きたよほど近しい妖精、それこそ恋人だったのかも知れない、そんなことを考えた。
当時の妖精族にとって魔族は天敵だった。自身の中の言い知れぬ罪悪感もそう考えれば説明がつくのではないか、と。
だけどここまで予想することはできなかった。
女帝セレスタイト。まさかそんな大きな存在、伝説中の伝説なるものだったなんて。
無理だ、と思った。
2000年前の妖精騎士だけでもにわかには信じがたかったと言うのに、こんなのあまりにも想像からかけ離れて過ぎているではないか、と可笑しくさえ思った。
そしてもう一つ、思うことがレグルスにはあった。
凄まじく、ときにやかましく過ぎていった時間の中で口にすることはできないまま、苛立つメイサと共に部屋を後にした。
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王宮の裏庭にぽつんと置かれた白の小ぶりなテーブルと椅子。
腰掛けた彼女はテーブルにナースキャップを置き、片手で乱暴に髪をほどく。はらり、と艶めいた黒髪が風に乗って宙へ散らばる。
彼女が見上げる空は抜ける程に遠く澄みきって、美しい。反して南の奥でもくもくと成長しているグレーの入道雲はやがて訪れる雷雨を示唆している。
はぁ…
広い空のずっと下で一つのため息がした。そこへ突如、湿った南風が吹き込んだ。
あっ…
咄嗟に伸びた彼女の手から南風は容赦もなくナースキャップを奪い去っていく。天へ伸びていた腕がやがてゆっくりと降りた。
森の方面へ形を縮めていくそれを彼女は座ったまま見ていた。
「追いかけなくていいのか?」
一部始終を見たレグルスが後ろから声をかけた。その声に彼女が振り返った。長い漆黒の髪が宙で弧を描いた。
ああ、と薄く笑ったメイサが答えた。
「いいよ、替えならあるし。」
「そうか。」
知ってるか?レグルス。
彼女が続けた。いつも以上に早口で。
「ナースキャップは今やフィジカルではほとんど廃止されてる。理由は不衛生、機材に接触する危険性、邪魔…そんなところらしい。まぁそれならと私は衛生面を考慮して10個のストックを持ってるんだけどな。」
そう言ってメイサは得意気に胸を貼る。うん、とレグルスも頷く。
「コスチューム趣味の変態医師だもんな、アンタは。」
「うっせ。」
自然とそこにどちらからともない笑いが生まれる。レグルスは下向きに持っていた冷たいものの一本をテーブルに置いた。トン、と音を立てて着地したそれにメイサの目が止まった。
「おっ、何だよ、くれるのか?」
気が利くじゃねぇか、と嬉しそうに言いながらビンの蓋をひねる。ピシッと心地良い音が響く。
天を仰いでビンの中のレモネードを一気に飲み干した彼女がうめぇー!と声を上げ、腕で湿った口元を拭いた。相変わらず女盛りとは思えない仕草だ。
メイサ。
同じように蓋をひねりながらレグルスは切り出した。
「怒鳴って悪かった。」
ん、という小さな呟きがした。一瞬、目だけで見上げたメイサがすぐに顔をそむけた。
斜め後ろから少しだけ覗く彼女の頬がほんのり朱に染まっている。やっぱり風邪気味か、とレグルスは思った。
やがて彼女の声だけが届いた。
「別にいいし。こんなんで泣くようなタマじゃないってアンタもわかってんだろ?」
確かに、とレグルスは同意して笑う。一気飲みする気にはなれないレモネードを一口流し込む。
ただ…
唇を離してから、言った。
「らしくねぇなって。」
「え…」
顔をそむけたままのメイサの肩がぴくりと動いた。もちろん見逃さなかった。振り向かない背中にレグルスは問いかけた。
「何かあったのか?」
南の空遠くがゴロゴロと低く鳴いている。いつの間にか辺りも日が陰っていることに気付く。雨が降り出しそうだ。
自然の音ばかりが占める中に、ずっと遅れて彼女の声が細く流れた。
…弟が、死んだらしい。
呼吸を止めた。聞き返すという反射的なものさえ封じられた。ただ赤の目が見開かれ、かすかに揺れているだけ。
振り返らないメイサ。なびいてなお重さを感じさせる黒い髪。まるで決してぶれない彼女の意志を物語っているみたいに。
「信憑性はあるのか?アンタはずっと弟に会っていないだろう?」
やっとの問いかけに彼女は首を横に振る。知らねぇ、と背中から返ってくる。
「私にとってはとっくに死んだも同然だったんだ。」
不自然な程に冷たい声色だった。このまま内側から彼女を氷漬けにしてしまうのではないかというくらい。
そう思うなりおのずと身体が動き出していた。凍りそうな肩にレグルスはそっと手を乗せた。ぴく、と一瞬の反応がそこへ伝わった。
「そんな寂しいことを言うな。」
気の利いたことなんてできない。せいぜいレモネードを差し出すくらいだ。
それでも伝えたいことがある。思い出させたいことがある。
「アンタは賢い。事実に基づいて判断ができる女のはずだ。確かな事実でないなら鵜呑みにするのはまだ、早い。」
近付いたせいで膝に置かれた彼女の両手が見える。
固く握られかすかに震えている。
メイサ、
壊させてなるものか、そんな思いでレグルスは続けた。
「泣きたいときは泣け。アンタは強いけれど、それはアンタの意識がそうさせているんだと俺は思ってる。強さを過信するな。壊れる前に吐き出して…」
そこまで言った声が薄れた。ふと、自身の中の何かがえぐられる感覚を覚えた。
馬鹿だな、これじゃあまるで…
気付いた途端、自然と意図せず浮かんだ笑み。きっと自嘲的で情けない。
レグルスは細長い指で額を覆った。ちょうど髪が斜めに被ったあの部分を。表面ではない、内側から込み上げる痛みにそうせずにはいられなかった。
サワサワと木々の薙ぐ音がする。空気が冷たく湿ってきたのがわかる。
だけどそれ以上に口をつぐんだ彼女と居る、この一角のほうが湿っぽい。
…ずっ…
何か、音が混ざった。
レグルスははっと我に返った。鈍い水音を発する彼女を見下ろす。とっさに口を開きかけたときだった。
「見るな!!」
甲高く、メイサが叫んだ。その身は隠れるように縮こまっていく。
「見るんじゃねぇよ…馬鹿野郎…」
レグルスは口をつぐんだ。言いかけた言葉などもう忘れてしまった。
普段の男勝りな振る舞いからは想像もつかなかった頼りない声。初めて聞いた、声。
つん、と突き上げるものに耐えながらレグルスは笑みを浮かべた。震える肩を離さず、だけどそれ以上は近付かずに。
「見ねぇよ。だから安心して泣け。」
「泣いてねーよ!!」
「わかった、わかった。」
まるで威嚇する小動物みたいだと思った。そう、今目の前にいるこいつはとてつもなく小さく、弱いと。
メイサのこんな姿を見るのは初めてだ。正直驚いた。
だけどこんな光景に出くわしたのは決して初めてなどではないと思い出した。
仲間と家族を奪われ、一人きりで震えていたクー・シー。
シャウラと引き裂かれて命まで絶とうとしたミラ。
恋人の安否もわからないまま、見知らぬ世界に放り込まれた桜庭伊津美。
弟の訃報を聞いてなお、声を上げて泣くこともできないメイサ。
そして…
レグルスは目を閉じた。忘れるはずもない、“彼女”の受けた苦痛を思い返しながら。
守るべきものが増えていく。比例して責任も重さを増していく。
それはたまらなく、怖い。だけどもう遅いのだ。立ち止まるなど…
ポンポンと2回、彼女の肩を叩いた。揺れる胸の内を抑え付けて、言った。
「後でクー・シーと仲直りしろよ。」
メイサが鼻をすすりながらも頷いたのが見えた。
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雨が降り出した。窓から遠く離れた室内に居ても卓越した両耳が教えてくれる。
無性にスピカの顔が見たい。今もなお己の記憶と戦っているであろう桜庭……いや、セレスタイト、カラッとした笑顔に戻って去っていったメイサも気になる。
だけど自分に一体何ができるというのか。寄り添うこと?いや違う。
レグルスは一人かぶりを振る。
それはミラに任せておいて問題ないだろうと結論付けた。その手の能力なら彼女の方が自分の何十倍、何百倍と長けている。信頼して良いだろう、と。
俺には俺のやるべきことがある。今夜からまたろくに眠れない日々が続くのだろうがそんなものはもう慣れた。
自身を奮い立たせるように両の拳を握ってレグルスは歩いた。ウェズンの待つ執務室に向かって。
その途中で呼び止められた。おい、レグルス!という背後からの声を受けて振り返った。薄暗い廊下の奥から小走りでやってくる慣れた姿に、おう、と返した。
野太い声の似合うがたいの良い大柄な男が目の前まで追いついた。歳は確か30代前半。強面にふさわしくない手を口元に当てる仕草と共に寄ってくる。ちょっと気持ち悪い。
レグルスは訝しげに顔をしかめつつも仕方なくそこへ耳を寄せる。そんなことをしなくたって十分に聞こえるであろうが。
耳元の野太い声が吐息のように囁いた。
「例のフィジカルの女の子、あの女帝セレスタイトだったって本当か?」
メイサちゃんから聞いたんだけどよ、と最後に続いた。レグルスはあんぐりと口を半開きにした。
あいつ…
思わずこぼして額を押さえた。
クサイ台詞などを吐きながら優しく励ましていた数時間前の自分に蹴りを入れたくなる。
彼女が話した相手が親衛隊の中でもそれなりの立場であるこの男なのが幸いだと思った。使いどころはわきまえている…と思いたい。
「とんでもねぇ相手に関わっちまったなぁ。」
少々人ごとのような口ぶりが言う。うん…とレグルスは小さく唸る。
煮え切らない表情に気付いたのか、目の前の男が覗き込む。
「どうかしたか、レグルス。」
彼が問う。レグルスは顎を摘まむみたいに手を当てた。一つ、思うことがあった。
「確かにセレスタイトだけど…」
もう十分過ぎる程に感じ取った。きっと間違いはない。
「ーーただの女だ。」
「おまっ…!」
言い切るなり変に上ずった声が上がる。焦ったような強面がキョロキョロ辺りを見回している。
「お前、伝説になんつーこと言ってんだよ!」
消されるぞ、と声をひそめた男が詰め寄る。確かにとんでもないかも知れない、そう思うとレグルスの喉からもかすかな笑いがこぼれた。
挙動不審にうろたえているこの男の反応こそが自然なものだろうとわかっていた。だけど…
「本当なんだよ。」
レグルスは言った。今、確かだと感じられることを。
「普通の女と同じように泣きもするし、怒りもする。」
恋だって…
最後に浮かんだものは何だか気恥ずかしくて飲み込んだ。ほぉ、と興味深げな声が傍で聞こえた。
いつの間にか憂いを帯びた表情へと変わっていることにレグルスは気付かなかった。見えている近くの彼が言った。何か察したように。
「まぁお前なら大丈夫だろ。親衛隊も町人も手懐けられるんだからな。」
はは、とレグルスは笑った。不意に懐かしいものがよぎって可笑しく思った。
「よく言うぜ、集団でボコそうとしたクセに。」
「まだ根に持ってんのか、女々しい奴だな。」
弱ったようないかつい笑顔が返ってくる。今やすっかり打ち解けた彼が言う。
「しょうがねぇだろ、殿下がお前を欲しがったんだからな。」
「露骨な言い方をするな。」
ぶっきらぼうに返して銀の髪をかきあげた。そして慌てて押さえた。
またしても迂闊に…そんな風に悔やんだ。
わかってるよ。
やがて届いた声に顔を上げた。額は押さえつけたまま。
やれやれと言わんばかりの強面が目を細めてこちらを見ていた。彼は言った。
「お前が親衛隊長にまでなれたのは殿下のフィアンセだからじゃねぇ。あの方はそんなひいきで肩書きを与えたりはしねぇよ。俺は見ていたぞ。」
お前の努力をな。
はっきりと届いた言葉に顔全体が熱を帯びる。数時間前のメイサみたく、見るなと抵抗したくなる。
見られたくない顔というものが誰にでもあるのかも知れない、と改めて思い知らされる。
あの孤独な日々かあったからこそ今熱く湧き上がるものの振れ幅が大きいのか。それならいつか変わるのだろうか。
今、孤独感に蝕まれているすぐ近くの者たちも。
「じゃあ行くわ。今夜中にウェズンとあらかたの作戦を固めて、明日親衛隊会議を開く。」
よろしくな、と逃げる口実のようなことを告げて踵を返した。元の方へ一歩だけ踏み出したとき、聞こえた。
パタパタとテンポの早い音。大きなものとは思えない軽さでありながら何処かガサツな…
レグルス!!
聞きなれたよく通る声が名を呼ぶ。まだ後ろにいる男と共にレグルスは振り返った。
駆けてくるメイサの顔が薄い闇の中からはっきりと明確に拡大していく。緊張に強張ったような顔が。
「やべぇよ、レグルス。伊津美が…」
続きを耳にして総毛立った。
ーー今後狙われるとしたら、フィジカルの人間よりもむしろ……ーー
ウェズンの予言が当たってしまったと、気付いた。