2.仮面〜mask〜
ぼんやりしたまま美咲と並んで歩き、気が付くと目的の場所が目の前にあった。
【2―J】
伊津美と美咲のクラスだ。
伊津美がその胸に乾ききった落胆を閉じ込め、当たり障りのない微笑みを貼り付けて教室に入ろうとしたときだった。
――あのっ……!
背後から小動物の鳴き声みたいな高い声色が響いた。振り返るなり伊津美は目を見張った。
「桜庭先輩……ですよね?」
たどたどしい口調の主は強張った表情で短いスカートの裾を握り締めている。
ロングの髪は目を引くベージュ系の色合い。高めの位置で二本に結った根元に薄ピンクのシュシュがあしらわれている。
慣れた上目遣い。元から顔立ちは良いのだろうが、見事にコツをおさているといったところか。いかにも男心をくすぐりそうないい具合のメイクが施されている。
伊津美はこの少女に見覚えがあった。一年生であることも知っている。
神崎乃愛。
更に名前まで知っているのは彼女もまた学園内の有名人だからだ。そうでなくても忘れはしないだろうが。
実際は会話はおろか、間近で見ることさえこれが初めてだった。
ちょっといいですか、と彼女は言う。呆然と立ちすくんでいる伊津美の前に漆黒の後頭部が割って入った。美咲だった。
「ダメダメ! 今日は先約5人いるから。それ以上は明日にして!」
「すぐ終わりますから」
伊津美のときとはうって変わり、乃愛の声のトーンがあからさまに下がった。気のないような返事と生意気な目つきを正面から受けた美咲が憮然とした表情を浮かべる。
「アンタねぇ……!」
乃愛に迫ろうと前に出た彼女を伊津美はとっさに腕で制止した。
「伊津美……」
心配そうな顔で見つめ返す美咲に笑いかけた。
「すぐ戻るから」
ためらいがちに歩き出した乃愛の後ろを伊津美は付いていった。
「あの……」
誰もいない屋上手前の踊りで乃愛が切り出した。スカートの裾を落ち着きなくいじったまま。
「優輝先輩のこと、何かわかりましたか?」
伊津美は黙って首を横に振る。こう来ることは大体予想できていた。でも答えられないものはどうしようもないのだ。
乃愛はいかにも落胆したようにわかりやすく項垂れてしまう。
「先輩の行きそうな場所とか心当たりないですか?」
項垂れつつも彼女はなおも問いかける。伊津美はまた素早くかぶりを振った。
「……わからないわ」
そう一言だけ返した、しばらく後。
――何で。
伊津美は顔を上げた。低い声色が一瞬どこから来たものかわからなくて思わず、え……と漏らしてしまう。
だけど覚えがある。だってついさっき聞いたばかりだから。美咲が憤った原因である声色によく似ていたから。
わかった瞬間、背筋に悪寒が走った。
うつむいたままの乃愛が、スカートの裾をさらに握り締めしわくちゃにしていた。ハーフパンツがちらりと覗くくらい、きつくきつく。
「なんでわからないんですか? 彼女なのに」
空気が張りつめる。たがが外れたように目を吊り上げた乃愛が身を乗り出してまくし立てる。
「何でそんなに落ち着いていられるんですか。心配じゃないんですか。ちゃんと探したんですか? 心当たりの一つも無いなんていくらなんでもおかしくないですか!?」
睨み上げる彼女の瞳には、祈りのような憤りのような複雑な色が浮かんでいるように見える。
返す言葉が見つからないでいる伊津美から彼女はやがて目を逸らした。
――ごめんなさい。
笑みの混じったため息と共に乃愛が言う。
「桜庭先輩にこんなこと言ってもしょうがないですよね。人気者ですもんね」
特に最後の一言に対して伊津美は一生懸命かぶりを振った。やめて、そんなのは要らない買い被りよ。伊津美自身の中にも切実な祈りが込み上げる。しかし。
「そんなこと……」
「そうじゃないですか!」
やっと口にしかけた否定の言葉もすぐに遮られる。目の前の彼女は可憐な容姿からは想像もつかないような激しい口調で食ってかかった。
「人気者で忙しいから……優輝先輩一人のことを気にしている余裕がないんですよね?」
「ちょっと待って、誰もそんな……っ」
ボロボロと溢れ出す大粒の涙を見て、伊津美は口を噤んだ。続きは言えそうにない。
「桜庭先輩は綺麗で頭も良くて、毎日チヤホヤされているから傷が癒えるのも早いんでしょうけど、私はそうじゃないんです! 私は……っ……優輝先輩が……」
乃愛の語尾が細く消えかかっていく。幅の狭い肩を震わせながら。
入り込む隙がないくらい悲痛に顔を歪めた彼女がついに踵を返した。
「乃愛ちゃん……!」
髪を振り乱して階段を駆け下りていく彼女の後ろ姿に手を伸ばすも胴体は重く、石膏のように動かない。伊津美は為す術もなく彼女を見送るしかなかった。
一人残された薄暗い空間で伊津美は呆然と立ち尽くす。静かな戦慄を覚えた。
たった今立ち去った彼女の目に、自分はどう映っていたのだろう。まさかこんな状況でも、あの当たり障りない微笑みの仮面なんかを貼り付けていたんだろうか。恐ろしいくらい動かない表情筋。十分にあり得ることのように思えて自分にゾッとする。
屋上のドアからわずかに射し込んでいた光が何処かへ去って、一層深く陰を落とす。胸の奥が嫌な音を立てて軋んだような気がした。