12.焼け野原〜Burnt ruins〜
【命の泉】
その言葉が真っ先に浮かんだ。
聞いた話だからではない、もっと前から知っている、懐かしい響きだ。
妖精族にも他の種族にはない特徴があった。彼らはある森の奥深くに位置する泉から生まれるのだ。
今では必要不可欠とさえされている男女の結び付きがなくても、皆が例外なく同じ場所から生まれて来る。
逆に言うならば命の泉なくして誕生することはない。
魔族はそこに目を付けた。
命の泉を奪ってしまえば良い、目障りな妖精族を根絶やしにできる、と。
これまでリーダーと呼べる者さえ存在しなかった妖精族も、このときばかりは並外れた能力の持ち主を心から望んだ。
精霊だって誰もが召喚できるわけではない。魔族が一気に攻めて来ようものなら例え一丸となって対抗しても勝ち目はないとわかっていたから、そう遠い昔に聞いていた。
だから…
目の前が記憶で埋め尽くされてからどれくらい経った頃か、やっとレグルスの声が聞こえた。視界はまだ周り続けたまま。
「妖精族にはあなたの存在が必要だったのです。ミス・セレスタイト、あなたは生まれながらにして女帝だった」
妖精たちは泉から生まれる。だけど家族はある。
二人の妖精が心を通わせ共に命の誕生を望んだとき、泉が新たな光を放つ。
求め合うお互いの存在があって初めて起こるそれは人間や魔族と同じ、生まれ方が違うというだけだった。
しかし、やがて誕生したたった一つの例外。セレスタイト。
祈りによって生まれた女帝に両親は、ない。そこにいないのではなく存在しないのだ。
どの赤子の誕生のときよりも、明らかに神々しい光に包まれながら現れた命。額の鉱石から【天青石(セレスタイト)】と名付けられた。
当初赤子であったはずの彼女は尋常じゃない早さですらりと大きく美しく成長した。その間に女帝として君臨するべく特殊な教育を受け続けた。
無邪気に戯れる子どもたち。本来なら彼らと同じくらいの齢のはずだった。
いつも図ったように置かれた泉の前のなだらかな岩に腰掛けていた。細く長い白魚のような脚を絡ませ、流れゆく景色に魅入っていた。
談笑を交わす初々しい男女の姿が青の瞳に映った。
同じくらいの歳に見える容姿。妖精の娘の頬がほんのり染まっている。
彼女はもう悟っていた。
自分が特異な存在であること、そして、皆と同じにはなれないということを。
どうしようもないことを時折考えた。
家族の存在すらない、無邪気に駆け回ることも恋なるものに身を投じることも許されない。
私は…何…?
ゆっくりと変わっていく。映し出された“今”は水中から見上げたように揺らいでいる。
彼がいるのがかろうじてわかった。口をつぐんでいるレグルスが。
他に、思い出したことは…?
やがて彼の声が問いかけた。うつむきがちな顔を上げた。
すがるような目をそちらに向けて答えた。
「カイトの…こと…」
カイト…
レグルスの声が繰り返す。すぐに同じ声がああ、と呟いた。合点がいった、そんな調子で。
「マラカイト、ですね」
細長い耳でその名を受け止めるなり身体が勝手に動いた。待っていたとばかりに両腕を伸ばした。勢いよく。
手探りで目の前の彼の胸元と思われる場所を掴んだ。息を飲む音がした。抑えられない勢いのままに叫んだ。
「私はマラカイトを知っていた。前世から…セレスタイトの頃から、ずっと傍にいたの…!」
きっとこれまでにない程、至近距離に迫った赤と青。彼の大きな顔はかすみ、揺れているだけ。
はい、
しばらくそうしていた頃に声が返ってきた。肯定?目を見開いた。
「勇敢なる妖精騎士マラカイト…私も知っています」
え…
意図せずこぼした。
知って…いたの…?
硬い服の生地を握ったまま少し身を引く。それからふつふつと湧き上がったもの。
それは最初に青の双眼の形を変えた。鋭く、突き刺すような形へ。
「何故教えてくれなかったの!?」
びく、という振動が手元に伝わった。自分が小さい為なのかはっきりと感じ取ることができた。
申し訳ありません…
小さな声が言う。それでも容赦などできなかった。次から次へと滾る熱いものは抑えられず、尖った目はますます鋭利に形を歪ませたはずだ。
「あなた程ではないにしろ、彼もまた名の知れた伝説の一人です。彼のような勇敢な男に、と我が子に名付ける者も少なくない。名前だけで断定はできない」
でも…
彼の言葉が消えかかった。ためらったのだろうか、続きが少し遅れて届いた。
「俺にはある程度の確信がありました」
収まり切らなくなった瞳の潤いが流れ出してやっと視界を晴らした。深妙な面持ちのレグルスの顔が鮮明に現れた。
「彼、マラカイトの妖力は尋常じゃなく色濃いものでした。それが示すものは…純血」
現代に純血の妖精族が存在するなどあり得ない、と彼は言う。目を見開いた。
純血…聞き覚えのある言葉。メイサから聞いたものだと思い出した。
彼女も言っていた。人間と交わることで子孫を残した、と。
今でも覚えている。その理由は…
とっさにレグルスの服から手を離した。そのまま両手で口元を覆い込む。細長く小さな指先が震え出した。
信じたくなかったけれど、やっぱりそうなんだ。だって、こうしている今も確実に鮮明になりつつある。
忌まわしいあの悲劇…
抑えようのないあの感情が…!
「そこまでわかっていたのなら…どうして…」
どうしてよ、とくぐもった問いを指の間から投げかけた。レグルスが頷く気配がした。遠慮がちな答えが戻ってきた。
「…彼があなたにとって特別な存在だったからです。女帝としての使命を見失ってしまう程に」
そんな彼に呼び寄せられれば、あなたはきっと奴らの手に堕ちてしまう。
口をつぐんだ。おのずとそうなってしまった。重く響くその答えに反論の余地はなかったからだ。認めざるを得なかった。
妖精族の平和を守る為、それだけの為に私は生まれた。だけど…
あのときの私はもう女帝ではなかった。一人の、女でしかなかった。
「あなたは女帝という立場上、彼への想いをおおっぴらにはできなかった。そんなことはどの書物にも記されていない。だけど彼の名を口にしたときのあなたを見て、わかりました」
そうなのでしょう?とレグルスの声が問う。
再び溢れ出すものの重さのままに顔を伏せた。手のひらで痛む目元を覆う。
その指を伝った雫がポタポタと落ちて白くだだっ広いシーツに染みを作っていく。抑えても抑えても、無意味な程に。
伊津美さん…
ミラのものと思われる小さな呟きが聞こえた。自分のことのように受け止めているのだろう、すっかり鼻声になっているのがわかった。
鮮やかな色を帯びた記憶がまた波打ち始めた。
すでにいくつかの森の妖精を滅ぼした魔族たちは最後に母体とも言える泉が存在する森、命の森へと攻めて来た。形にこだわる魔族らしい戦略だった。
草原を焼き払い、木々を薙ぎ倒してついに彼らは命の泉に辿り着いた。
女帝・セレスタイトは泉の前に立ち塞がった。仲間の多くが討ち取られ頼るものなどいない中でも迷いはなかった。
やるしかない、例え一人でも。
私はその為に生まれた女帝なのだから、と。
押し潰されそうに重い感覚を振り払うように黒の群れへ向かった。
何時間にも渡る一人きりの戦いにさすがのセレスタイトも限界を見始めていた。奪われていく体力と妖力。
そして見せてしまった一瞬の隙。
刹那のうちに半透明の羽が焼き払われた。残された身体が重力のままに地面に叩き付けられた。そこからはあっという間だった。
凄まじい爆風に吹き飛ばされた。擦り傷と火傷で傷付いた身体。呻きながらやっと顔だけを上げた。そのまま、静止した。
そこにはもう、泉はなかった。
焼け焦げた不快な匂い。煙を上げる巨大なクレーターはそこにあるはずの泉と同じ形状を象っていた。
声を失っているそこへ複数の影がかかった。自身とはまるで異なる形ながら一目でわかった。勝ち誇ったような醜悪な笑みが。ありったけの憎悪で睨み上げるけれど、もう遅い。
ひやり、と顎に充てがわれた氷のような感触。見下ろす魔族の一人からこちらへ剣が伸びている。
首を取る気だと察した。なるほど、と納得した。それならこんな顔にもなるだろうと思って見上げた。
妖精女帝の首を持ち帰ればそれは誰もが羨む名誉になるのだろう。その為に顔だけは傷付けずにおいたのか。羽を燃やすよりも頭を吹き飛ばした方が確実だとわかるはずなのに。
そう理解するなり不快な酸味が奥から突き上げた。吐き気以外の何ものでもなかった。
ーーもう泉は果ててしまった。
新たな命が生まれることは二度と、ない。
私の役目は終わったのね。
セレスタイトは失意の中で目を閉じた。もう為す術もなければ必要もない。自身の終わりを受け入れようとしていた。
風をきる音。剣が振りかぶられるのを感じて覚悟を決めたときだった。
ぐあっ…!
鈍い呻き声。振り降ろされるはずだった剣が目の前に落ちて地に刺さった。そこへ続くように魔族の身体が倒れ込んだ。
セレスタイトは顔を上げた。覚えのある姿に目を見張った。
雄叫びを上げながら駆け出した魔族たちを彼は鎖で縛り付け、わずかに残った草を鋭利な刃に成長させて切り付けていく。
くそっ…!
背後から醜い呻きが聞こえた。振り返るより早くセレスタイトの長い髪が掴み上げられた。
混乱のさなかで拾ったのであろう剣が振り降ろされた。気付いた彼が向かってくるのが見えた。
凄まじい勢いで迫った彼の腕が真っ直ぐこちらへ伸びてきた。生温かい雫がセレスタイトの頬を打ったのはそのすぐ後だった。
覆い被さる形で彼の重さがのしかかった。宙を舞う赤色でわかった。血飛沫だと。
彼は、最後に力を振り絞ったのだろう。剣を手にしていた魔族の胴体を背後から伸びた草の刃が貫いていた。
ーーカイト…?ーー
膝の上で横たわる彼の名を呼んだ。震える指先で硬い緑の髪を撫でた。
彼がうっすらと瞼を開き顔を上へ傾けた。優しい、笑顔。寡黙な彼が初めて見せた顔に息を詰まらせた。
セレスタイトの中からずっと胸の奥に抑え付けていた“想い”が溢れ出した。どうしようもないくらい、とめどなく。
絶えず流れ出す涙、それを拭うかのように伸びた彼の指先は悲しいくらい弱々しく頬に触れた。
ーーセレスタイト様…ーー
力のない吐息みたいな声が、言った。
ーー俺は…あなた、が……ーー
ぬくもりが頬から離れた。
ぱた、と乾いた音を立てて彼の腕が地を打った。
いや…
思わず細く漏らした。力を失ったまだ温かい身体に顔をうずめた。たがが外れたように、叫んだ。
カイト!
カイト…ッ!!
それは彼を起こしてはくれなかった。ただほとんど焼け野原と化した周囲に響き渡るだけ。
何処からか複数の足音が鳴り響いた。それはすぐ近くで止まった気配をセレスタイトは見上げた。そこから凄まじい疾風が巻き起こった。
何処から吹いたものでもない、セレスタイトを中心に。
青の双眼が夜空のように色を変えた。立ちすくむ魔族の群れを捉えた。
おい、まさか…!
やめろおおおお!!
彼らが気付いた頃にはもう遅かった。真っ白な光が埋め尽くす。
そこに居た全て、すでに息絶えた者以外が目にした最後の光景だった。
「…私はマラカイトを助けられず、仲間も助けられず、しまいには使命さえ忘れて…」
多くの命を奪ってしまったのね。
いつの間にか呟いていた。違う!と近くで声が上がった。
少女の甲高い声、ミラだった。
「それでも命の泉を守ろうとした…セレスタイト様は英雄なのよ!」
彼女は言う。
ーー英雄?
喉から声が漏れた。自分でも怖くなるくらいに低い、淀んだ声が。
「やめて、そんな言い方」
ミラへと顔を向けた。目が合った彼女が凍り付いた。それでも言った。
そう、これは事実。鮮明に思い出した今、もはや逃れようのない。私は…
「ただの殺戮者じゃない」
「そんなこと…っ!」
ーーミラ。
静かな口調が呼んだ。彼女の肩に手を添えたメイサが無言で首を横に振っている。
「ごめん…なさい…」
思いつめたような声が消えかかる。メイサはそっと彼女を自身の脇へと引き寄せた。
しばらくそちらを見ていたレグルスがまた向き直った。二つの赤を真っ直ぐこちらに向けながら、彼は言った。
「確かにあなたの力によって多くの命が失われた、それは事実です。妖精族と魔族の生き方もそれまでとはまるで違うものへと変わっていきました」
命の泉を失った妖精族と多くが滅び弱小化した魔族。
彼らは人間と関わり交わっていくことでフィジカルに転生する能力を身に付けた。しかしそれは決して意図的なものではなかったという。
人間の情緒的な温かさに触れた彼らは自ら受け入れられることを望んだ。彼らが子孫を残していく手段となり、希望となったそれはあくまでも結果に過ぎなかったのだ、と。
妖精族と魔族が激減したその時代、一時は光が薄れ、緑は失われ、大気が淀み、世界の終わりさえ覚悟する状況まで追い込まれた。そしてアストラルの者は皆、思い知らされた。
要らない存在など何もなかったと。
散々荒れ果てた地で悔いた。ただ生きているだけでそれぞれの種族は支え合える関係だったのだと今更のように知った。
長い年月をかけて妖精、魔族の子孫が増えていき、アストラルには光と自然が戻っていった。
人間もまた彼らの能力を受け継いでいた。卓越した知識に欲求と共存意識が加わり、アストラルは更なる進化を遂げた。
「それを成し遂げる機会を作ったのがあなたなのです。失い、どん底まで堕ちることで学ぶものが彼らにはあった」
ミス・セレスタイト。
レグルスが呼ぶ。まだ何処か遠慮がちな笑顔がその顔に浮かぶ。
「今や誰もあなたを恨んでなどいませんよ」
優しい声だった。そちらをぼんやりと眺めた。
自分がどんな顔をしていたのかはわからない。しかし確かめる気さえ起きなかった。柔らかだった彼の顔が強張っていく。その過程だけで大体想像はつく。
…いるじゃない。
気が付くと小さく呟いていた。え、という声が返ってくる。
何故気付かないの?いや、誤魔化しているの?と思った。
フィジカルの存在を憎む者。彼が魔族をフィジカルへの転生に導いた者を許すはずがないであろうに。
「ーールシフェル」
その名を口にすると向かい合うレグルスがついに困惑の表情を浮かべた。
ほら、やっぱり…そう思ったとき、彼が口を開いた。
「それはちょっと違うかも知れません」
「違うって?」
問いかけに彼が一回頷いた。
「ルシフェルはおそらくあなたの正体に気付いています。そしてあなたを狙っている。でもそれは恨みを晴らす為ではありません」
あなたの能力に敬意すら示し、世界を創り変える協力者として迎え入れようとしている、と彼は言う。
「それでマラカイトを私の元へ…」
シーツを強く握った。悔しくてたまらなかった。
マラカイトを、愛しい人を、道具のように使うなんて…
やるせなさが止まらない。塩気で荒れた瞼がまた染みて痛んでくる。そのまま見上げた。
「奴は手段を選ばない男です。それこそかつての魔族のように貪欲で、だけど並外れたしたたかさも持っている…」
続いていたレグルスの言葉が止まった。異変を感じ取ったように。
…セレスタイト?
探るように呼ぶ声。そこへ返した。ありのまま今の気持ちを。
「…あなたもでしょう、レグルス」
「えっ…」
大きな目が見開かれて赤の瞳全体を露わにする。呆気に取られた様子の彼が言う。
「俺が…あなたを恨んでいる、と?」
その問いに答えることなくふい、と目を背けた。ずっと奥深くで感じていたことがあった。
蝙蝠の翼を持つ彼に出会ったときから付きまとい続けた不穏な感覚。その正体が、これ。
「…あなたは、魔族でしょう?」
冷たい声色で言い放った。すぐ目の前で息を飲む音、そこから先は流れるようだった。
おい!という怒号が聞こえた。メイサの声だ。それから…
…ヒック……
静寂の中に響く、すすり上げる音。やっと我に返った。伊津美は素早く音のする方へ向いた。
白目まで赤くして肩を震わせているクー・シーの姿が目に飛び込んだ。
そうだ、この子も…
胸が苦しい。でももう遅い。言ってしまったのだから。
伊津美は耐え切れずそこから目をそらす。伊津美さん、と震える声が叫ぶ。
「僕は…そんなこと思ってないよぉ…っ!」
悲しみに満ちたクー・シーの声。
「おい、伊津美!!」
咎めるようなメイサの声。
ーーやめて!!ーー
伊津美はたまらず両耳を塞いだ。もう限界だった。荒々しく勢いのままに叫んだ。
「セレスタイトと言ったり伊津美と言ったり、どちらかにしてちょうだい!頭がおかしくなるわ!」
もつれる口調で言い切った。し…んと静まり返る室内。その中で身をかがめ続けた。
やがて一つのため息が聞こえた。メイサの声が続いた。
「行こ、今のこいつに何を言っても無駄だよ」
ちらりと横目だけでそちらを見た。クー・シーの肩に手を添えた彼女はすでにこちらに背を向けている。
相変わらずヒック、ヒックとしゃくり上げているクー・シーはそこを動こうとしない。苛ったようなメイサのが振り返った。鋭い漆黒の瞳が彼を睨んだ。
「泣くんじゃないよっ!男だろ!」
ビクッとクー・シーが飛び上がった。まん丸に見開かれた目が更に赤みを増していく。顎にいくつもの皺を寄せた彼はついに大声を上げて泣き出した。
「よせ、メイサ!アンタも少し頭を冷やせ!」
レグルスが荒々しく叫ぶ。一瞬、言葉に詰まった様子のメイサがはぁっ!とわざとらしい程に大きなため息を落とした。
ミラ、と近くに立つ彼女を呼んだ。
「クー・シーを頼んだよ」
「うん!」
まだ赤みの引かない目をしたミラが力強く頷く。
先に部屋を出ていくミラとクー・シー。そちらには背を向けたまま。
しばらく居座っていたレグルスとメイサの気配もやがて遠のいた。
バタン、と閉じるドアの音がいつもにも増して、重かった。