5.癒し〜Cure〜
二つ分の足音が不規則に混じり合う。硬く冷たい樹脂の床材を打ち鳴らす音が響く。
青白い蛍光灯。廊下の突き当たりのそれはチカチカと鬱陶しく点滅している。その方向へと若い二人組が歩を進めていた。
一人は湾曲した上向きの角を持ち、もう一人は烏のような黒の翼を生やしている。魔族という呼び名がふさわしいいかにもな風貌だ。
「しかしお前も派手にやられたなぁ。南の妖精族にだっけ?」
「るっせ。少し切っただけだろうが」
角の男が小馬鹿にしたように笑うと、翼の男は額に手を当てて不機嫌に唇を尖らせる。押さえたその場所には白い包帯が巻かれている。
わりぃわりぃ、と隣の彼が言った。
「まぁ制圧はできたんだろ? よくやったよ。せっかくならその傷、紳士様に治してもらったらどうだ?」
「【癒紳士】にか? よせよ」
傷を負った彼が唾を吐くみたいにへっと笑い捨てる。彼は言う。
「唯一の魔力が“治癒”……故に癒紳士か。笑わせてくれる」
「ルシフェル様もさぞかし嘆かわしかろう」
もう一人も同調して笑いをこぼす。くっくっ、と含む声が廊下に響いた。
少し離れた場所、身を潜めていた彼はきつく奥歯を鳴らす。怒りに滾ったその勢いのまま飛び出した。
「若を馬鹿にするな!!」
うわ! と二人分の叫び声が上がった。突然のことに魔族の二人は足を止めて硬直してしまう。何だよお前、と片方が強張った表情をして問う。
点滅する蛍光灯の下でビリジアングリーンの髪が鮮やかとくすみを繰り返している。つい先程まで曲がり角の影に身を潜めていたマラカイトが立ち塞がるように立っていた。
細いというよりは“長い”が相応しい背の高い彼はおのずと二人を見下ろす姿勢になっている。黄色の両の瞳が鈍くギラついている。
その威圧的な姿を前にした為か、二人の男の顔に汗が滲んだ。片方が口を開いた。
「……思い出した。お前、新参者のマラカイトだな」
――妖精族の。
悪意のこもったような最後の一言にもう一人がぴくりと眉を動かす反応を見せた。妖精族? と繰り返された。
彼はフン、と鼻を鳴らす。先程とは一変してえらく自信に満ちた表情へと変化していく。
「なるほど。知っているぞ、妖精族は正義の味方気取りが大好きだってなぁ!」
あからさまな喧嘩口調だった。間違いねぇ、ともう一人が続く。
やがて笑い声が広がり始めた。軽蔑の視線を一点に向けながら。
マラカイトは面白そうに腹を抱える二人を強く睨んだ。せきを切ったみたいに叫んだ。
「妖精族の話などしていない! 若を悪く言うなと言ったんだ!」
声を荒立てるマラカイトとは反して二人の魔族はなおも笑い続けている。すっかり恐れをなくしたようだ。
「若を悪く言うな、だとよ。こりゃあ傑作だ」
「癒紳士に心まで癒されちまったのかい?」
まるで子どもをあやすかのような口ぶりにマラカイトはすでに限界のようだった。カッと目を見開き眉間に深い皺を刻んだ。
「てめぇら……!」
づかづかと二人の元へ歩み寄る。間近に迫った所で大きく頭を振りかぶった。
ひび割れるような鈍い音。頭突きを食らわされた角の男が低い悲鳴を漏らした。笑い声が止まった。
額を押し付けたままのマラカイトが至近距離で彼を睨み付ける。
「もういっぺん言ってみろ!!」
怒声を耳にした男の涙目がみるみる尖っていく。彼は負けじと叫ぶ。
「お前はここでのルールを知らねぇのか! ここはなぁ、強い者こそが正義なんだよ。弱者の庇い合い程見苦しいものはねぇ!」
闘牛のごとく角を突き立てて迫る。隣にいたもう一人が強引にマラカイトの身体を引き剥がした。
「妖精族の分際で生意気なんだよ!」
勢いよく拳が振り上げられる。角の男がすかさず羽交い締めにする。
迫る拳を前にマラカイトは覚悟を決めたように目をつぶった。強く歯を食いしばってせめてもの防御を試みた。そのときだった。
「そこで何をしている?」
静かな声がした。拳が動きを止めた。
マラカイトを殴り損ねた翼の彼が、あぁ?といかにもがらの悪そうな声と共に振り返る。
その方向を見ていたもう一人は一足先に息を飲んでいた。震えがちな声で彼は言った。
「シャウラ様……!」
ようやく事態に気付いた翼の男が続いて息を飲んだ。マラカイトはゆっくり目を開く。その先に立つ姿を呆然とした様子で眺めた。
折れそうに華奢な身体と中性的な顔立ち。紫の双眼が妖しい輝きを放っている。感情の見えない冷たく美しい色。
それは良くも悪くも見つめられた者を引き込むのに十分な力を持っているのだろう。向かい合う三人の表情がそれを示していた。
「シャウラ様、まさか今のを聞いて……」
翼を生やしたほうが情けなく狼狽している。 シャウラと呼ばれるその人はじっと動じず彼を見つめている。
やがて血の気のない薄い唇が小さく言葉を紡いだ。
「顔を貸せ」
「え……?」
力なく聞き返す男に変わらぬ調子の声が繰り返す。
「顔を貸せと言っている」
ひっ……!
男が悲鳴を漏らして大きくのけぞった。もう一人もすぐ後ろであたふたとうろたえている。
「もも、申し訳ありません! シャウラ様、さっきのは冗談と言いますか……断じて本気では……」
「馬鹿! まだ聞いたとは言ってないだろ。」
自分からバラしてどうする!
角の彼の耳打ちに翼の男がはっとなる。彼はまた口ごもりながら言い出す。
「あ、あの、さっきの喧嘩は一時的なもので、もう和解していますので心配ありません! なっ、マラカイト?」
じりじりと二人分の足が後ずさる。
「そういうことなのでどうかその……」
ルシフェル様には内密にお願いします!!
最後はまるで安っぽい茶番のようにぴったりと息が揃っていた。
申し訳ありませんでしたぁ! と声を上げ、騒がしい足音と共に去って行く二人の魔族。そして取り残されたもう二人。
「あの……若……」
マラカイトが恐る恐るといった様子で声をかける。隣に佇むその人の顔色を伺うように。
「アイツ……怪我をしていたな」
返ってきた声にマラカイトは、はい?と聞き返す。その人はまた言った。
「だから顔を貸せと言ったのに……」
しばらく沈黙が居座った。ようやく意味を理解したのだろうか、その人を見るマラカイトの目が丸く象られる。
彼はやっと言った。おそらくは慣れているであろういつもの口調で。
「若ってもしかして天然っすか?」
えっ、と小さな呟きが彼へ向いた。今度は“若”が目を丸くしている。
「天然、とは?」
その顔は明らかに困惑している。初めて聞く、そんな様子だ。
マラカイトは息を飲んだ。すみません! と彼は声を上げた。
「自分、また失礼なことを……その、悪い意味ではないんです! 天然というのは純粋に近い意味で……いや、そうとは限らないけれど、若の場合は……っ」
心底申し訳なさそうにこうべを垂れるマラカイト。そこへくすり、と柔らかい笑みが降った。
驚いたように顔を上げた彼はそのまま固まった。向かい合うその人が口元に握った手を添えて肩を震わせている。男らしさとは程遠い控えめな含み笑い。
紫の瞳が細まった。ルナティック・ヘブンの若頭、シャウラが言った。
「マラカイトは面白い言葉を知っているのだな」
立ちすくむマラカイトはやがてほんのり顔を赤くした。彼はそっと目を伏せ、答えた。
「……自分も、何処で覚えたのかわからないっす」
含み笑いは止まっていた。それでもマラカイトはうつむいたまま。
意味のありげな深い眼差しを向けられていることにはきっと気付かなかったことだろう。
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ワックスがけが施され鏡のように光を跳ね返すフローリング。所狭しと配置されたトレーニング機材。
肉体磨きに余念のない彼にとってはもはや慣れた光景だろう。そこへふんわりと漂うアールグレイの香り。
「何かミスマッチですね、それ」
器具に寝そべりバーベルを持ち上げながらマラカイトが言う。
「紅茶の香りは嫌いか?」
床に腰を下ろし壁に背をもたれたその人、シャウラは紅茶をすすりながらふふ、と笑う。
細い指がティーカップを掴んでいる。彼のいるそこだけが明らかに大部分とは異なる空気を醸し出している。
いや、とマラカイトが返した。彼は言った。
「嫌いじゃないっすけど、トレーニングルームって言ったらやっぱり男の汗の匂いですよ」
「むさ苦しいな」
「言いますね」
ちらっと二人の目が合った。そのままそらすこともなくくすぐったげに笑い合う。
タンクトップにハーフパンツ姿のマラカイト。バーベルを持ち上げる度に二の腕の筋肉が隆起する。
細身でありながらも男らしいそれは薄着になって初めて見て取れるものだ。
対して白いシャツに黒のパンツ姿のシャウラ。少し暑いのかいつも上から纏っているベストは傍らに畳まれ、シャツは第二ボタンまで開いている。
首筋といい、わずかに覗く鎖骨といい、そのラインは非常に繊細だ。ロングヘアーのウィッグを被せて“女性です”と言っても誰も疑わないことだろう。
あまりにも対照的な二人は同じ空間に存在するだけで十分すぎる違和感を放つ。それを感じ取ったみたいにトレーニングに勤しむ他の数人が遠巻きにその光景を見ていた。
「しかしお前も馬鹿だな」
ぼそっとシャウラが呟いた。マラカイトはえ、と小さく漏らし、横目でそちらを見る。
「僕を庇うなんて」
その一言の後、マラカイトの手からバーが滑り落ちた。それは一瞬のうちに彼のみぞおちにめり込んだ。ぐえ、潰れたカエルのような呻き声が響いた。
「お、おい、マラカイト!」
驚いたシャウラが投げ捨てるように床にカップを置いて、うずくまる彼の元へと駆け寄った。
「大丈夫か? 今すぐに治して……」
心配そうに覗き込む彼をマラカイトは仰向けのまま見つめ返す。
よほどの衝撃だったのだろう、黄色の目に涙が滲んでいる。やっと立て直した様子で言った。
「大丈夫っす。それより若、やっぱり聞いてたんすか?さっきの……」
恐る恐るなその言葉に、ああと返事が返ってきた。シャウラが困ったように笑っていた。
「もう慣れたよ。僕はいつもろくなあだ名をつけられない。幼い頃は【男女】、今じゃ【癒紳士】だもんな。カッコがつかなさ過ぎて笑えてしまう」
眉を八の字にしてクスクス言っている彼をマラカイトがじっと見つめた。食い入るように。
心配そうな彼の様子にシャウラも気付いたようだ。ちら、と上目でそちらを見た。そういえば、と思い出したように彼は言った。
「お前にも結構ひどいことを言われているな。この間は【癒し系】? だっけ? それで今回が……」
ちがっ! と声が上がった。慌てた顔のマラカイトが身体を起こした。
「俺のはそんな悪い意味じゃないっす! むしろ褒め言葉というか、俺には無いものだから単純にすげぇなって……」
ついには立ち上がり早口で弁解するマラカイト。そんな彼を見上げるシャウラの表情は儚く悲しげだ。
本当に……?
弱々しく彼は問いかける。マラカイトはうっと言葉を飲み込むように喉を鳴らす。
しばらく何か迷うみたいに黄色の目を泳がせた彼がやがて観念したように重々しく口を開いた。
「……嫌な思いをさせて申し訳ないっす」
しゅん、としぼむ音が聞こえそうにうなだれる。
シャウラは相変わらず黙って見上げている。
両者はしばらくその状態を続けた。唐突にぷーっ! と吹き出す音が沈黙を破った。
マラカイトが驚いたように顔を上げた。その視線の先に後ろを向いて肩を震わせているシャウラの姿があった。
若……
マラカイトがぽつりとこぼす。すっかり冷めたような表情で彼は言う。
「からかいましたね?」
震える背中からうん、という肯定が返ってくる。マラカイトは深くため息をついた。
それから憮然とした表情で目の前の背中を眺めた。びっくりさせるなとでも言いたげな顔で。
離れた場所で己を鍛えていた者たちが、汗を拭いながら一人また一人と部屋を後にする。
組織の若頭とまるで友人のように親しげに接する彼の存在に何処か恐れをなしてのことだったのかも知れない。
やがて二人だけが取り残された。機材に座るマラカイトは自身の手を眺めている。ぼんやりと。シトリンのような黄の瞳がかすかに揺れている。
「マラカイト?」
いつの間にか笑うのを止めたシャウラが彼に呼びかける。しかし当の彼は気付いていない様子だ。何かに引き込まれるように一点のみを見つめている。
心配そうに覗き込んだシャウラがもう一度口を開きかけた。しかし声を発する前に他のものが割って入った。
――ここに居たのかい。
まるで不穏な地鳴りのような低い声が沸いた。マラカイトもようやく顔を跳ね上げた。その顔がみるみる緊張に強張っていく。
振り返ったシャウラもゆっくりと表情を移り変わらせた。しかしそれはマラカイトのものとはまた別の形のようだった。
親父……
シャウラの声が呟く。
血の繋がりを感じさせる紫色の目。少し下がり気味の瞼が動いて同じものを持つ彼を一瞥した。しかしその視線はすぐに別の方へと向けられた。
「用があるのは君だよ、マラカイト」
「はっ、はい!!」
呼ばれた彼の背筋が一瞬のうちにシャンと伸びる。ぼんやりと意識を泳がせていた先程までが幻であったかのように。
不敵な笑みが彼へと降りた。すらりとそびえ立つその人が言った。
「任務の打ち合わせをしたいんだ。今度こそ成功させよう。大丈夫、君ならできるさ」
期待しているよ。
最後の一言の後マラカイトの顔色が変わった。彼は素早くその場にひざまずく。地にめり込みそうな勢いだった。
「はっ! 必ずやお力になってみせます!!」
「マラカイト……」
深々と垂れたこうべにシャウラが呟く。困惑した表情で見つめている。
まるで遠ざかる背中を為す術もなく見送るみたいに、何処か寂しげに。
シャウラはふと顔を上げた。その目が小さく見開かれた。
彼の視線の先の人がいつの間にか見ている。用のあるはずのマラカイトではなく彼の方を真っ直ぐと。
シャウラは無言だった。しかし身体は立ち向かうように正面をきっている。
鋭く細められた目は自身の持つありったけの敵意を込めているようだった。