4.痛み〜Pain〜
聞いたばかりの言葉を反芻する。苦く、飲み込むのをためらうような味がする。
思考が追いつかない。ましてやその光景を想像するなど。
自殺未遂。あんな小さい子が?
伊津美は呆然として立ちつくす。返す言葉の一つさえ忘れたその様子をメイサは静かに見ている。
「たった一人の家族を失う気持ち、アンタにわかるか?」
彼女は言った。何も答えられなかった。できるのはただ思い返すことくらいだった。
小さな身体で懸命に仕事をこなし、大人同様の敬語まで使いこなす彼女の姿を。
そしてそんな彼女には伊津美にとっての “当たり前” がことごとく通用しなかったのだ。逆も然りだ。
あのときからすでに十分過ぎる程の違和感を感じていた。
「ここまできたらとことん話してやるよ」
来いよ、とメイサが自分の座るベッドの右横をポンと叩く。すでに向かいの椅子に座っているにも関わらず。
面と向かうより隣で話すというのは、相手との距離感を縮める心理作戦の典型だ。
握り締められたブレスレットは縮まりかけていた二人の距離が再び開いてしまったことを示している。
よく心得ているな、と思いながらも伊津美は言われるまま彼女の右隣に腰を下ろした。少し硬いベッドが二人分の重みでギシ、と鳴いて沈み込んだ。
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「ミラがここに預けられたのは2年前、5歳のときだ。私はその1年後に雇われた。今とそんなに違いはないよ、見た目の中身も。口数はもうちょい少なかったけど礼儀正しくていつもニコニコしててさ、それが何処か痛々しくて心配だったんだ」
前屈みで正面を見据えたままのメイサが語り出した。
当時はまだあの温室はなくて、ミラは庭園の手入れを手伝っていたという。重々しい響きのその事件が起きたのはメイサが王宮にやってきて一週間目の早朝だった。
前日、王室従事者の健康診断で疲れきっていたメイサはうっかり風呂に入りそこねてしまった。
冬とは言えどさすがに気持ち悪かったので朝のシャワーを浴びようと大浴場へ向かった。
そこで出会った光景に彼女は絶句した。ぱさり、とタオルが落ちた。
紅に染まった水風呂。湿ったタイルの床に貼り付き波のような曲線を描く薄桃色の髪。
その傍らには長く身をむき出したカッターが転がっている。
左手首を水に晒しぐったりと横たわるミラの姿があった。
裸のままのメイサが落としたタオルを拾い上げて駆け寄った。力の感じられない身体を無我夢中で抱き起こしタオルをきつく腕に巻いた。
メイサはやっと思い出したようにバスタオル一枚を自身の身体に巻いて、ミラを抱え裸足で浴場を飛び出す。ポタポタと赤い雫が垂れて足跡を作った。
廊下を駆け抜ける途中、反対側から歩いてきたレグルスがその異様な光景に立ちすくんだ。何かを叫んでいたようだったが先を急ぐメイサはその声を受け止める余裕もなく置き去りにした。
今、伊津美と二人でいるこの場所、救護室に入るとすぐさま受話器を取って救急を呼んだ。到着までの間の応急処置を彼女が行った。
事態を聞きつけた王室従事者たちが続々と集まり、その様子を固唾を飲んで見守り始めた。
クー・シーは泣きじゃくっていて、それをスピカ王女がなだめていたと言う。
「ただでさえ栄養失調気味なんだ。あの日私が風呂場に行かなければミラはきっと死んでいたよ」
メイサの言葉は相当緊迫した絶体絶命の状況を思い浮かばせる。伊津美は押し黙り、続く回想に耳を傾ける。
「救急隊が到着してミラが運ばれていった後、レグルスがあの子の部屋から遺書を見つけて持ってきたんだ」
何て書いてあったと思う?
ゆっくり顔を向けたメイサが問いかけた。伊津美は小さく首を横に振った。
彼女が受け取った白い無地の封筒。
レグルスが開封したのだろう、それはすでに口を開いて飲み込んだ三つ折りの紙を覗かせていた。
思い詰めた暗い表情のレグルスを一瞥したメイサはその中身を引き出して広げた。
何て簡潔、そして鋭利な一文だろう。
それが彼女の中に浮かんだ率直な感想だったという。記されていたのはただ一つの願い。
ーーシャウラに逢いたいーー
このときのメイサはまだ【シャウラ】なる人物の存在など知らなかった。
しかしでくのぼうの如く隣に突っ立っている男が何かを知っているであろうことは、陰ったその表情から容易に察することができたのだ。
「……知っている奴なのか?」
メイサが問いかけると静かな動きで頷いた。彼は言った。
「俺の従兄弟だ。そしてルシフェルの……」
そこまで聞けばもう十分だった。レグルスはルシフェルの甥であることを隠さずに王室に従事した。すでに誰もが周知していることだったのだ。そんな彼の従兄弟と言うならば……
「何でこんな際どいことを私に?」
メイサは漆黒の瞳で射るように見つめ上げる。目を伏せていたレグルスが顔を上げ、赤い瞳を彼女の視線と交わらせた。彼は言った。
「メイサは頭がいい。だから話そうと思えたんだ。今回のことで俺では限界があると身に染みてわかった。どうかミラの支えになってくれないか」
頼む、と頭を下げるレグルス。その背中はかすかに震えているようだった。同じように震えがちな声が言った。
「俺では、アイツの代わりにはなれねぇんだ」
その後、レグルスはミラと過ごした1年のことを語ったという。
「自分に対しても敬意を持っていて一生懸命に働いてくれる非の打ち所がない子だった。だけど気が付くとよく寂しそうな目をしていて、そのうち突然いなくなったり良からぬことを考えやしないかと心配していた」
……そう言ってたよ。
レグルスの言葉とやらを代弁したメイサが再びふい、と正面へ向き直る。
そりゃそうよね。
伊津美はやっと口を開いた。
「自殺未遂までしたっていうのには驚いたけれど、そんな幼くして家族と離ればなれになったら当然心細いでしょうね」
ミラの気持ちを察するまでに思考が追い付いたと思った。本当に、やっと。おのずと下を向いてしまう。
おもむろにといった動きでメイサが顔を向けてきた。伊津美もその視線に気付いた。不思議に思って見つめ返した。
じいっと見ている。何か言いたげな顔に見える。
言いたいことがあるなら言え、そう目で訴えると彼女が低く切り出した。
「伊津美はさ、ミラが子どもだから同情してんの?」
どくり、と脈打ちが駆け抜けた。言葉に詰まった。それでも伊津美は何とか立て直して見せる。
「経験の少ない子どもが大人よりデリケートだと考えるのは自然なことだと思うけど?」
経験、か。
独り言のような小さな呟きが伊津美の耳に届いた。訝しげに見つめ返すと彼女の口から一言が放たれた。
それは耳を疑うものだった。
「ミラは子どもじゃないよ」
え、と思わず漏らした。すごく簡潔な言葉であるはずなのに全く理解ができない。
子どもじゃないと言ったんだ。
少し苛ったような声。鋭い目つきのメイサが続けた。
「あの子は普通の7歳児じゃない。前世の記憶を全て有した7歳児なんだ。立派な【女】なんだよ」
物質世界のアンタからしたらあり得ないだろうな。
彼女はそう吐き捨てる。何処か小馬鹿にしたような口調だ。
通常なら胸糞悪く思うところなのだろうが脳天から貫いた衝撃がそれさえも許してはくれない。
伊津美は見開いた目で改めて彼女を見てみる。揺るがない眼差し。ふざけてはいないようだ。それがなおさらあり得ないと感じさせる。
だって……
口ごもった伊津美はあることを思い出した。
「前世の記憶を取り戻すのは15歳前後なんでしょう?」
そう、とメイサが頷く。彼女は言った。
「だからすごく稀少な例なんだ。ミラの前世の生涯は20年だったっていうから、つまり今は27歳の精神状態……いや、あの子のことだから前々世やその前まで記憶しているかも知れねぇな」
何度聞いたって受け入れるのは容易ではない。
ミラが大人の女性。あんなに愛らしい少女の姿をしているのに?
物質世界の人間だからとメイサは馬鹿にするけれど、形あるものを基準として何年と生きてきたのだ。何が悪いと今更ながら言いたくなる。
一方で何処かしっくりくるものを伊津美は感じて戸惑った。これを受け入れてしまえばあの違和感にもきっと説明がつくのだろうと。
「それであの子は……」
ぽつりと呟くとメイサが首を傾げた。それでって? と彼女は問う。もちろんあのことだった。
オバサンみたいとからかわれるくらい大人びた口調、上品で柔らかな物腰はおませな女の子の背伸びにしては完成度が高すぎた。
そしてそんな彼女がちらつかせた “想い”。決して口にはできないこと。
ーーメイサ。
伊津美は深く息を吸った。彼女の代わりに言おうと決めた。
「ミラはお兄さんが好きなのよね?」
メイサの目が一瞬丸くなった。白目の中に漆黒の瞳の全体が見えている。
次に彼女は吹き出した。当たり前じゃん、と返した。
何を言っているのだとでも言いたげに呆れたような薄ら笑いを浮かべている。彼女は言った。
「ミラにとっては本当の兄貴も同然なんだよ。そりゃあ……」
違う。
伊津美は彼女の言葉を自身のもので遮った。一回だけ、首を横に振った。
「ミラの “好き” はそういうのじゃない」
はっきりと言い切った。ミラから受けた想いの波がかつて自分が感じたものと重なっていることに伊津美は気付いていたのだ。
数秒の間があった。メイサがすっと真顔になった。
「……まさか、男として好きだとでも言うのか?」
探るような上目遣いで彼女は見てくる。伊津美は微動だにしない。脳裏にあのときの声が蘇った。
ーーきっと今でもスピカ様を……ーー
思い詰めたような複雑な声色だった。嫉妬という自分本位な思いと戦っているみたいに。
きっと王女に恨みなどないのだろう。だけど誰よりも彼女自身が許していない。全身から滲み出るあの自己犠牲精神が人間らしい感情さえ潰してしまうのだと。
罪のうちに入らないくらい自然な感情だと言うのに、だ。
豪快な高笑いが上がった。顔を伏せたメイサが肩を震わせている。伊津美は驚いて目を見開いた。
やはり考え過ぎだったのか、そう思い始めたときだった。
「全くアンタには恐れ入るわ」
え……
立て直したメイサの顔に穏やかな色が宿った。彼女は頷いた。
「正解だよ、お見事だ。ミラは兄貴に惚れてる。どうも前世から知ってるらしくてね、20年の生涯というあたり何か辛い別れ方でもしたんだろうさ。その詳細ばかりはさすがに話してくれないけどな」
私も聞けねぇよ、と言って彼女は苦笑する。伊津美は胸に染みるような痛みを覚えた。
20年の生涯。きっと志半ばだったことだろう。
前世で兄とどんな関係にあったにしろ、20歳の彼女に訪れたのは死。何よりも辛い別れだ。
ミラがその記憶を語るとしたらきっと身を引き裂かれるような痛みを伴うのだろう。聞ける訳がない。メイサはまともだ。
次に一つの疑問が生まれた。伊津美はそれを口にした。
「でもそれならお兄さんは気付くはずじゃないかしら? ミラは前世のその人がお兄さんだとわかった。ということは傍にいれば気付くということよね?」
確かに、とメイサが頷く。
「記憶を取り戻してすぐに、ということは少ないけど、しばらく一緒にいればその人の持つ波長が前世のそれと一致していることに気付く」
彼女が瞼を伏せた。それから言った。
「兄貴に記憶があれば、な」
「え?」
伊津美は思わず聞き返した。怪訝に顔が歪んでしまう。つい最近得たばかりの情報を覆されたのだから無理もない。伊津美は彼女に聞いた。
「記憶がないって……お兄さんは何歳?」
「22だよ。レグルスの一つ下。でもアイツは覚えてないんだ。前世のことなんて欠片もね」
「記憶喪失みたいなもの?」
ゆっくりかぶりを振るメイサ。もったいぶるなと言いたくなる。
伊津美は苛立ちを抑えて何故?と問う。やっと返事が返ってきた。
「15歳を過ぎても兄貴は思い出さなかった。アイツも稀少な例なんだよ。レグルスと共通の血を受け継ぎながらも魔力がほとんど使えないのもおそらくはそのせい。そういう場合はね、大体強いトラウマが絡んでいるケースなんだ」
前世で何かあったか、それとも親父のせいか……
やるせないような表情のメイサの言葉が消えかかる。それじゃあ、と伊津美は自然と身を乗り出した。落胆の色に顔を染めて。
「お兄さんはミラのことを思い出してあげられないの? あの子の本当の気持ちにも……この先もずっと?」
「まだどうなるかわかんないけど、今は……」
メイサが顔をそむけた。固く結んだ唇の皺が横顔からわずかに見えた。
「ミラが言わないからね。言ったところで自分は子どもだし、ただでさえ苦しんでいる兄貴を困らせたくないと思ってんだろ」
残念だけどそれが正解だ、と彼女は言う。あのケースの者に前世の話をするのは危険であり精神崩壊を起こす可能性がある、と。
伊津美は力なく片手を着いた。眩暈のように身体が傾ぐ。ギシ、と虚しい音が響く。
だったらミラ、あなたはいつまで苦しみ続けるの?
いつ戻るかもわからない兄の記憶をただ待っているというの?
それで伊津美、
メイサの声が呼ぶ。ちらりと目線だけを上げる。
「この事実を知ったアンタはどうするんだ? レグルスに言うのか? アイツは何も知らないよ。密会のことなんてこれっぽっちも」
彼女が問いかける。容赦なく。
それは……
伊津美は目も合わせられず言葉に詰まった。何分もの間続いたように思える沈黙を大きく響く音が切り裂いた。
メイサと揃って思わずびくっと跳ね上がった。引き戸が開かれた音だった。
メ……メイサ……!!
そこにいたのは緊迫した表情で息を切らすクー・シー。それから……
「ミラちゃんが……!」
青白い顔をしたミラが腕を垂れ、彼の腕の中に収まっている。彼女の名を叫び、メイサが身体を立ち上がらせた。伊津美も反射的にそれに続く。
「まさか、また?」
そう言いながら彼女は早足で小さな二人の元へ歩み寄っていく。
伊津美は動くことができなかった。ただ両の脚がカタカタと小刻みに震えるばかりで。
「お昼が近いから温室に迎えに行ったんだ。そしたらミラちゃんが倒れてて……」
どうしよう、とうろたえるクー・シーはすでに涙目になっている。きっとメイサにとっては覚えのあるものなのだろう。表情を強張らせながらもあくまで落ち着いた姿勢だ。
彼の手からミラを受け取ったメイサはすぐさまその細い身体をベッドに横たえた。脈をとり、額に手を当て、外傷の有無の確認と黙々と進めた。そこへクー・シーがすがるように身を乗り出す。
「ねぇ、ミラちゃんどうしちゃったの!?」
「メイサ……」
問いかける彼に同調して伊津美も彼女の後ろ姿に向かって呼んだ。自分の仕事に集中しているのだろう、しばらく返事は返ってこなかった。
やがて彼女の身体が振り返った。渇いてかすれた声が言った。
「大丈夫、貧血だ。怪我もしてない」
はぁーっ、と長い息がこぼれる。クー・シーと伊津美、安堵のため息をつくタイミングは見事に一緒だった。
落ち着いた足取りで何処かへと向かったメイサが点滴の薬剤を手にして戻ってきた。
大振りなあのブレスレットのせいでなおさら細く見えるミラの腕に手際よく針を打ち込む。点滴の管を薬剤が伝い始めた。
「ミラちゃん……」
じっと目を閉じた彼女にクー・シーが身体を寄せて泣きそうな声を漏らす。メイサが上から彼を一瞥した。
「クー・シー、アンタ昼メシまだなんだろ?行ってこいよ」
「でも……っ!」
「ここからは私の役目だ」
低く突き放すような口調。冷たくすら感じる声が彼へ言い放つ。
悲しそうにうなだれるクー・シーの姿を見た伊津美はどれ程メイサを咎めてやろうかと思った。
しかし彼女の口から続いた次の言葉によってそれは成し遂げられずに終わった。
「私が傍に付いていてやるから安心しな。メシ食い終わる頃には目を覚ますだろう。そのときまた会いに来ればいいさ」
今やトレードマークとも言える意地の悪そうなものとは異なる、優しい笑み。そしてかすかに震えた声色。伊津美は理解した。
メイサも耐えているのだ。また、クー・シーには申し訳ないが彼には席を外してもらう必要があると。話はまだ終わっていない。そうだったはずだと思った。
「わかった!また来るね」
意を決したようにクー・シーは答えた。真剣な表情、澄んだ朱の瞳の残像を残して彼は去って行く。
ピシャッ、と音を立てて引き戸が閉じられた。再び沈黙が訪れた。
薬品の苦い匂い漂う静かな空間に取り残された歳の異なる女が三人。
20歳の女性、17歳の娘、7歳の女児。年齢の違い、そんなものも今となっては覆されてしまったが。
……メイサ。
点滴に繋がれた眠り姫のような女児を見下ろしながら伊津美は問いかける。
「ミラは本当に大丈夫なの?」
ああ、と返ってきた短い返事を耳にするなり抑えようのないものが熱を帯びてこみ上げる。たかが外れたみたいに身体全体が震え出す。
伊津美はたまらず額を手で覆った。途切れ途切れな声で言った。
「私があんな話をさせたからミラが思い詰めたのかと……そうだったらどうしようって……」
メイサがどんな顔をしているのかはわからなかった。しかし次に彼女が放った言葉で大体察することはできた。
「伊津美、まだ答えを聞いてないよ?」
落ち着いたトーンの声。あくまでも冷静に交渉を進めようとしているのがわかる。
伊津美はそのままの姿勢で静止した。まさか今になって自分のしてきたことを後悔するなどとは思わなかった。
答えを出すのは苦手だ。答えのない無限なものを探求し続けてきたのだから。
だけど今こそ決めねばならないのだ。逃げず、投げ出さず、自分の力で。
「曲がったことが嫌いなアンタは何を選ぶんだ? 自分の【正義】を貫く?それとも……」
新しい【正義】を見つける?
彼女の声がなおも問いかける。待って、と思った。伊津美は考えた。
考えに考えて頭の中でこれでもかという程にこねくり回して、ようやく迷いを断ち切った。
ゆっくりと顔を上げた。彼女に送る眼差しは揺れの一つもない直線的なものになっていた。
メイサの手が差し出された。伊津美は頷いた。
まだ決して上手くはない笑顔を浮かべてその手を強く握った。