3.シャウラ〜Shaura〜
しばらく嗚咽を続けていたミラが落ち着きを取り戻したのはそれから15分程後のことだった。
気の利いた言葉も浮かばすただ見守るしかない伊津美の前、泣き腫らした目の彼女がようやく口を開いてくれた。
「私のお兄ちゃん、【シャウラ】っていうんです」
「お兄ちゃんって……昨日の人が?」
こくり、と頷くミラ。赤みを帯びた目が少し嬉しそうに細まる。彼女は言った。
「レグルスさんと似ているのは二人が従兄弟だから。お父さん同士が双子だからそっくりなんですよ」
えっ、と伊津美は思わず声を漏らした。いまいち合点のいかないところがあったからだ。メイサから聞いたことを思い出していた。
ミラは妖精と人間の家系。確かにそう聞いたはずだ、と。
レグルスは魔族だ。当然、従兄弟であるその人も魔族ということになるのではないか。
伊津美が頭を悩ませていることにミラはすぐに気付いたようだ。それならば、とばかりに彼女は薄く笑った。
「血の繋がったお兄ちゃんではないんです」
彼女は言う。何処か儚く寂しげな声で。
「両親が死んでしまってひとりぼっちだった私をシャウラが妹として迎え入れてくれたの……」
桜色に染まる頬。潤んだ瞳は過去の幸せを淡く眺め、噛み締めているように見える。伊津美の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「素敵なお兄さんじゃない」
その言葉にミラがこくっ、と力強く頷く。何といじらしい仕草なのだろうと思った。そして何が彼女を涙に濡らすのだろう、と靄のような疑問が沸いてくる。
でも、とミラが言った。沈んだ声だった。
「本当は会ってはいけないんです。誰にも見られてはいけなかった……」
彼女の表情は曇っている。初めて内なる闇を目の当たりにした感覚に胸が鈍く痛む。
何故?
伊津美が問うと彼女は言葉に詰まった。それから少し後に絞り出すように言った。
「シャウラは、ルナティック・ヘブンに行ってしまった」
それを理解するのには時間がかかった。伊津美はさながらフリーズした機械のように固まった。息さえも。
反してミラはがばっと身体を起こした。ベンチに片膝を乗せてなりふり構わずといった勢いで伊津美の服の裾にしがみつく。濡れたアクアマリンが揺れている。だけど、と彼女は叫ぶように言った。
「シャウラがそうしたのは大切な人を守る為なんです。だってあの人はそういう人よ……いつだって誰かの為に自分が血を流しているの。あの人は敵じゃない、人質なの!」
それまで不自然なくらいに整っていた敬語がついに感情に崩された。伊津美は息を詰まらせたまま見入った。
彼を悪者にしないで、と懇願するみたいな眼差し。初めて目にする彼女の様子に反応の仕方がわからず凍り付いてしまう。彼女はなおも同じ姿勢で続ける。
「幼い私を巻き込まないようにと王宮に預けた。こんな私まで守ろうとしてくれた。シャウラには他にも守りたい人がいるの。きっと誰よりも大切な人……」
――スピカ様。
消え入りそうな声が名を紡いだ。それを伊津美も小さく繰り返した。そして思い出した。
スピカ……ああ、そうだ。確か王女の名前だったはず。
「でも敵の組織に入ったりなんかしたら意味がないんじゃ……」
伊津美の言葉を受けた少女の目が伏せられた。同時に目尻から頬へと透き通った筋が生まれる。
「スピカ様は呪いによって命を握られているから、いつどうなってもおかしくないんです。多分、そのことを突き付けられて……」
詰まりがちな鼻声が言う。必死に絞り出しているのがわかる。ギリギリのところで何とか言葉を紡いでいるのだと痛いくらいに。
「シャウラは昔、一度だけスピカ様を見たことがあると言ってたんです。その話をしているときは嬉しそうで、だけど後から必ず悲しげな表情が浮かぶの」
きっと今でもスピカ様を……
そこまでが限界だったのだろう。
非力な腕が裾を強く握った。胸元に顔をうずめる彼女を伊津美は見下ろした。
そういうこと、と胸の内で呟いた。もう察しがついていた。
ミラが言葉にできない、いや、言葉にしてはいけないと感じているものを。
「だとしても、それなら普通はレグルスの方を脅迫しそうなものだけれど」
晴れない疑問の一つを口にする。ミラがゆっくり顔を上げる。弱々しくかぶりを振った。彼女は言った。
「レグルスさんよりシャウラの方が支配しやすかったの。レグルスさんみたいな強い魔力があの人には無い。ルシフェルにはそれが好都合だった」
ああ、と伊津美は思った。魔力に優劣があるというのなら確かにありうるだろう、と。
強い魔力を持つレグルスは支配しきれない。だから力のないシャウラを人質とした。
当然囚われた彼は太刀打ちできないし、それは同時にレグルスの力を抑制する意味を持つのだろう。従兄弟を人質に取られてはレグルスもむやみには動けまい。
きっと状況なんて半分も掴めていないはずなのにやるせなさに奥歯が軋んだ。その直後に凄まじい悪寒が背中を駆け上がってきた。伊津美の顔は石化したように強張っていく。
それはすごく今更なことだと気付いた。
双子の父親を持つ、瓜二つの従兄弟。何故すぐにぴんと来なかったのだろうと、自身の感覚を疑ってしまう程だった。
――本名はリゲル・グラディウス・ガルシア――
そう、メイサはあれ程はっきりと言い切っていたのに。
「ねぇ、もしかしてルシフェルは……」
恐る恐る干からびそうな喉を震わせた。顔をうずめたままのミラが頷いたのがわかった。
シャウラの実の父親……
そのくぐもった声が紡いだ言葉は針のように形を変えて伊津美の奥底へと突き刺さる。しばらくは脳内での再生が止まらなかった。何度も何度も繰り返し、続いた。
やっとわかった。彼女が自らを罰し、本来あるべき姿を封印している意味が。
伊津美は唇を震わせた。こんなものを知ってしまって一体どうやって、と思うとおのずとそうなってしまう。
だけど飲まれる訳にはいかなかった。もう一つ、確かめなければならないことが残っていると気付いていた。それはある種の使命感の如く内側から突き動かす。
「ミラ、ごめん」
伊津美は言った。細く小さな背中に腕を回してぎゅっと引き寄せる。
伊津美……さん?
戸惑ったような声が震える。その持ち主である彼女の耳元へ顔を寄せる。そこで囁いた。
「辛いだろうけどもう一つだけ、聞かせて?」
壊れないくらいの加減で力を込めた。寄り添う声で伊津美は続けた。
「後で好きなだけ泣いていいわ。泣き止むまで私が傍にいる。堅苦しい敬語も要らない。呼び捨てでいい。もう、気を遣わなくていいのよ」
小刻みな振動が胸元に伝わった。堤防を失ったかのように溢れ出す感情の波が伊津美の胸元を濡らす。
大丈夫、と語りかけるみたいに柔らかな頭を撫でた。
私は流されない。きっと一般的にはそれを “冷淡” と言うのだろう。
だけどそんな人間だからこそ受け止められるものがある。何とか保つことができる。あなたがどんなに壊れても。
だから安心して。せめて今だけでも、子どもに戻って。
絡み付く薄桃色の髪を眺めながら思った。新たな決意が芽生える気配を伊津美は感じていた。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
「伊津美、おせーぞ! もう部屋の準備終わってるし!」
白いばかりの部屋に戻るなり口を尖らせたメイサの姿が伊津美の目に飛び込んだ。
よほど退屈していたのだろう。ベッドに腰掛けて大人気なく脚をぶらぶらと遊ばせている。
「頑張って本棚ぎっちぎちにしたんだぜ。純文学だろ、エッセイだろ、あと宇宙の図鑑も」
好きなんだろ、と彼女は言う。クー・シーから聞いたのだろうとすぐにわかる。
最初こそ不機嫌だった彼女はもうすっかり笑顔だ。興奮に鼻息まで荒くして。
伊津美は口をつぐんだまま立ちつくす。表情一つ動かないその様子に目の前の彼女がやっと気付いた。
「何だよ、難しい顔して」
怪訝そうに傾げる彼女の顔はまたしてもコロッと一変した。わかった! と声を上げた。
「便秘だな。しょうがねぇ、私がとびきり強力な……」
ピシャン!!
割れるような鋭い音がメイサの言葉を遮った。黙ったままの伊津美が後ろ手に戸を閉めたのだ。
怯えでもなんでもない、ただ驚きに目を丸くしているメイサ。
伊津美はそんな彼女に向かって振りかぶった。
ぱしっ、と弾ける音を立てて受け止められたそれは彼女の手の中で鈍い光を放つ。
きっとまだ温かい繊細な文様を纏った金色の筒。
メイサはそれをしげしげと見つめた。それから薄い笑みと共にへっ、と声を漏らした。
「アンタ、よくこれを外せたな」
「適当にいじっていたら外せたわ」
伊津美は無の表情で言う。ゆっくりと彼女の元へ歩み寄る。まだちょっぴりふざけた様子だったメイサの顔でが訝しげに歪んでいく。
「……とんだ腹黒女ね」
手を伸ばせば触れられるくらい近付いたところで伊津美は言った。
は? と苛立ちの混じったような声が返ってくる。それでもぶれはしなかった。鋭い視線で容赦なく彼女を見据えた。
あなた……
伊津美は言った。
「これ、渡したんですってね。ミラのお兄さんに」
顎を小さく突き出してメイサの手に納まったものを示した。
「それを持っている人しかこの王宮には入れない」
そうだったわよね?と彼女に問う。視線を落とした。メイサが作ったというチップ入りのブレスレットに。
向かい合う彼女も同じところを見下ろしている。やがてそこから声が沸いた。
伊津美……
恐ろしく低い声色が。
「アンタさ、“ここだけの話” だったんじゃねぇの、それ。何あっさりと話してんのさ」
「すでに知っているあなたになら問題ないでしょう?」
大アリだろ!!
大音量が耳をつんざく。さすがの伊津美も目を見開いた。
顔を上げたメイサが鬼の形相で睨んでいた。荒々しい勢いで彼女は叫んだ。
「ミラはアンタを信頼して話したんだろ。あの子の気持ちはどうなるのさ!?」
目の前で切り揃えられた黒の前髪が揺れる。こんなにも荒ぶったメイサの姿を見るのはもちろん初めてだ。動揺していないと言えば嘘になる。
だけど引くわけにはいかなかった。こちらにはこちらのれっきのした主張があるのだから。
伊津美は言った。自分だけは乱れまいとあくまでも静かに、落ち着いて。
「あの子を本当に大切に思うのなら正しい判断じゃないわ。密会に手を貸すだなんて……」
あの子を危険に晒す気?
そう言って強く睨んだ。
――あのとき、必死に冷静さを取り戻そうとしていた伊津美は、すぐにでも確かめなければならないことに気が付いた。
王宮に立ち入る資格のない “彼” が一体どのようにしてあの場に居ることができたのか。
むせび泣くミラを前にもちろん躊躇はした。それでも聞いた。彼女の身に迫っているかも知れないことを思うとそれ以外の選択肢はないようにさえ思えた。
そして、更に聞きたくなかった答えが返ってきたのだ。
一年前、メイサが協力者になってくれた。
管理システムに入退館の履歴が残らないようにブレスレットの一つを改造し、それをシャウラに譲り渡したのだとミラは言った。
メイサを責めないで!
呆然としている伊津美に彼女はすがるように言った。メイサは悪くない、ただ私が弱かったからだ、と。
その場は了解したかのように穏便に振る舞って見せた。そうしなければすでに限界であろう小さな彼女の心は砕けてしまうと思ったからだ。
だけど確実に広がっていた。失望と怒りが内側を蝕むように。
目の前のメイサは変わらず鋭い目つきでこらちを見ている。ブレスレットを握る彼女の両手に力がこもって、きゅう、と嫌な音を立てる。
メイサ、と再び切り出した。決して動じまいと決意を込めて。
「あなたはもっと冷静に物事の判断ができる人だと思っていた。でも違ったようね。大事なセキュリティに改造まで加えてミラを危険な方向に誘導したのよ」
伊津美は少しうつむいた。声が重々しく色を変えた。
「あの人は、ルシフェルの息子だというのに」
「だから何だよ! 悪人の子だから、血が繋がってないからって言いたいのか!」
メイサが甲高く叫んだ。肩を上下させ、荒い息遣いで彼女は言う。
「あの兄貴はミラを実の妹のように育ててきたんだ。いい奴に決まってんだろ!」
伊津美はたまらず目を伏せた。力なく言った。
「でも、大事な判断材料よ」
深いため息を落とした。失望はますます粘り気を帯びて胸のうちに絡み付いた。
何故大人として止めてあげないのだろう。ミラに何かあってからでは遅いというのに。
はぁ、と再び漏れた息が呆れ返った内心を隠せずに示す。
メイサが視線を外した。つられるみたいに彼女も気だるい息を吐いた。
改めて会話が交わされたのはそれからしばらく後のことだった。
「……ミラには兄貴が必要なんだよ。他の誰でもない、アイツじゃなきゃ駄目なんだ」
大人しくベッドに腰を下ろしたメイサがこぼした。伊津美も向かい側の椅子に座る。
「どうしてそこまで……」
問いかけてみると彼女が視線を合わせてきた。ためらうような複雑な色を瞳から放って。
「一年前、ミラは自殺未遂したんだ。兄貴のいない現状に絶望して……」
いつになく弱々しく見えるメイサが悔しそうに瞼をつぶった。