1.伊津美〜Izumi〜
今日もいつもの道を行く。変わらない日常にはもううんざりだ。
いや、正確に言うならば今こそが非日常であり、これを日常として認識し始めていることの方がよほど怖い。
下駄箱の前で立ち止まると、パタパタとテンポの良い足音が迫ってくる。誰かは容易に想像がつくし、もうそろそろかとは思っていたが、伊津美は足音の主に対して一応律儀に振り返る。ちょうど息を切らした彼女が駆け込んだタイミングだった。
「ごめん!」
大音量の声と共に両の手のひらが目前でパァンと打ち鳴らされる。黒髪のショートカット、猫のように大きなつり目の彼女が勢いよく頭を下げた。
「本っっ当、ごめん、伊津美ぃ! 寝坊しちゃった」
こんなのはよくあることだけど、彼女はその度に潔いと言えるくらい実に素直に謝罪する。怒る気など最初からない。
ううん、と言って伊津美は首を横に振った。さも当然のように通学カバンから取り出したものを彼女へ差し出す。
「大丈夫? 汗だくよ」
その一言を口にしたとき、周囲のざわめきが聞こえた。若い女子特有の黄色い声に混じるいくつかの囁き。
いいなぁ。
さすが伊津美先輩。
美人で気が利いて……
あんな人見たことない。
当の本人に会話がだだ漏れていることに気付かないくらい話に夢中になっているブレザー姿の少女たち。伊津美にとってもそれは慣れた現象だった。
共学ではあるものの、伊津美の周りを囲むのは大多数が女子であり、朝は特に彼女たちのせいで男子の影が薄い。
「アンタと居ると、性別の枠を超えた深い世界にでも入った気分だわ」
受け取ったばかりのハンカチで汗を拭う彼女が苦笑する。伊津美は眉を険しく寄せて、やめてと返した。
桜庭伊津美、17歳。
国立帝北大学付属高校2年生。文理コース。
主張し過ぎない程度に染めた茶色のロングヘアに、整った卵型のフェイスライン。ぱっちり大きな目でありながら何処かクールな印象を漂わす。
腰の位置が高く、当然脚もスラリと長いため、スカート丈は気持ち長めにしなければだいぶ短く見えてしまう。
才色兼備と呼ばれて何年になるだろうか。そしてその称号を与えられた本人が密かに気持ち悪く思っていることを一体何人が知っているのだろうか。
上履きに履き替え、実に自然な流れで隣を歩く黒髪の彼女は駒沢美咲という。
見るからに気が強そうで活発な印象の彼女だが、実は学園トップクラスの才女だ。同じだけの力量と近い価値観を持つ伊津美にとって、今心を開ける唯一の存在だった。
「今日は予約何人?」
「5人」
「男?」
「男3、女2」
淡々と問いかけに答えると美咲が額に手を打ち付けて、かーっ! と意味不明な声を上げる。
「笑えるくらいモテるねぇ。文字通り、老若男女に」
ニヤニヤとちょっぴり意地の悪い笑みを浮かべながら彼女が言う。
(他人事だと思って……)
伊津美は呆れ気味のじとっとした目で美咲を睨んだ。
異常な会話なのはもちろんわかっている。だけどこれが事実だ。毎日のように『予約』が入る。
律儀に守る伊津美を待っているのは告白、もしくは約束の取り付けだ。こればかりは前々からのものではなく未だに慣れない。きっかけになったのであろう出来事がある。
伊津美は通りかかった教室の扉の上を見上げた。
【2―B】
見つめ返す教室の中の彼らの視線でわかる。
今日も“彼”は登校していない。無意識に力ないため息が漏れた。やがていくつかの声が聞こえた。
桜庭さん、今2―B見てたな。
昭島、まだ見つからないんだね。
可哀想……
(可哀想、か)
伊津美は内心で呟いた。そこには自身の感情が何一つ存在しないような気さえする。
横を歩く美咲は至って普通だ。客観的思考を軸とする彼女らしい姿勢に伊津美は束の間の安らぎを感じていた。
『予約』なるものを取り付けられるようになったのも、同情の目を向けられるようになったのもごく最近のことだ。
一週間前まで美咲以外の生徒から直接声をかけられることなどほとんど無かった。特に男子からは。そもそも積極的に周りと関わろうとしていなかったのだから無理もない話だった。
決して愛想がいい訳でもない。それでも大衆にうける容姿と話題性さえあればある程度は許されてしまうという事実が、まさに今の状況に現れている。
注目と羨望の的であることは前から変わらない。気安く声をかけてはいけない相手として、桜庭伊津美は皆に認識されていた。
そしてもう一つ、大きな理由があった。
全校生徒公認の交際相手。それこそが2ーBに在籍する昭島優輝。
入学前に思いがけずやらかしてしまった行為から皆の知るところとなった。
当初の伊津美はバレたことが恥ずかしくて顔を上げることすらままならなかった。だけどこれで良かったと実感するようになった。公認の仲であった方が、あれこれ詮索されたり根も葉もない噂を立てられずに済むからだ。
ただでさえ人見知りだ。大多数が得体の知れない空恐ろしい存在である中、全てを受け入れようとしてくれる彼の存在は大きく、絶対的とも思える安心感を与えてくれた。
結婚まで想像はつかなくても、少なくとも遊び半分なんてつもりはない。例えば年長者に青いなどと言って見下されようともきっと答えは変わらない。
まだ若く、無知であることも知っている。それでも本気なのだと迷わず返すことができるだろう。代わりなど効かない唯一の存在であると。
そのたった一人、何もかも許せる存在であった昭島優輝が一週間前に失踪した。
捜索願いはすぐに出された。貼り紙もネット拡散も、全国放送のニュース番組にも取り上げられている。それでも未だに手がかりと言えるものが何ひとつ、見つかっていない。
学園の空気が変わったのはその頃からだった。
“彼氏を失った悲劇のヒロイン”
伊津美に新たな称号が付いた。
今まで遠巻きに見ていたはずの周囲の態度が徐々に変化し始めた。
同級生の男子を初めとする生徒達が一人、また一人と恐れつつも伊津美に接近し始めたのだ。どういう訳か女子までいる。
彼らは大抵、論文の発表会、テーマパークのチケットなど何かしらの口実をぶら下げてやって来る。伊津美にはその理由がわかっていた。
悲しみに暮れるヒロインを自分が支えてあげよう。守ってあげよう。
そんなあまりにも安易な考えに彼らは酔っている。自分さえ騙し、ヒーローの振りをして。内面から突き動かすものが煩悩であると見え透いているのにだ。
伊津美は今までにも増して口数が減った。
正直なところ彼らの心理を分析しようとすら、もう思えない。考えれば考える程、吐き気しかしないからだ。それでも周りの容赦ない接近は加速していく。
日に日に積極的になって、放課後話があると毎日のように『予約』を取り付けられるのだ。一方的に。
熱を増す彼らと反比例して、伊津美の内心は日を追うごとに冷たく凍っていく。麻痺してしまったみたいに、今では何を言われても何も感じないのだ。