2.疑惑〜Suspicion〜
足元へ振動が伝わる。ガラッ!と引き戸が叫ぶ。
そのガサツな物音だけで誰が来たのかすぐにわかる。うるさいのが来た、と察した伊津美は目を細める。
伊津美!
思った通りの声が呼ぶ。うんざりとした顔をそちらに向けてやる。
すでにづかづかとこちらへ向かっている彼女が目を輝かせながら言う。
「アンタの新しい部屋の用意が今日中にできるぞ。喜べ!」
「あー、嬉しい」
典型的な棒読みで返してやる。んだよ、と不機嫌な呟きが返ってきた。
「気持ちがこもってねぇぞ。つまんねぇ女だな」
つまらなそうな顔をしたメイサはずんずんとわざとらしい足音を鳴らしながらどこぞへと向かう。伊津美は構わず黙々と靴下を履いた。
午前8時。伊津美は30分程前に起きて今まさに着替え終わったばかりだった。
「メシ行くぞ、メシ!」
早くしろよ、とメイサが急かす。彼女の大きな声がいつもにも増して耳に響いて揺らす。ろくに眠れなかったせいだろうと察しはついていた。
ねぇ、メイサ。
部屋を出て階段を登り始めたところで呼びかけた。前を行く彼女がん、と短く呟いて振り返った。伊津美は言った。
「私はいつまでこうしていればいいのかしら? 新しい部屋よりも手がかりが欲しいんだけど」
ああ、と煮え切らない呟きがした。
「彼氏の? もうちょい待ってなよ、今調査中だからさ。手がかりが見つかったらすぐに伝えに来るってレグルスも言ってたし」
そう言うなりメイサは背を向けて再び階段を登りだす。何処か逃げるような紛らわすような、そんな仕草に見えた。
つまり手がかりなし、か。
伊津美は声には出さず呟いた。あの空恐ろしさが胸を占めた。
どうやら大半の人間が持つ “慣れる” というものに自分はとりわけ長けているのではないかと思ってしまう。ここに来る前からそうだったことに気付いた今、なお自身を不気味な存在と思わずにはいられない。
優輝のいない日々に慣れ、底なしの絶望に慣れ、そして今、かつてなら到底信じられなかったであろう話を聞き入れ、本来居るはずのない環境で当たり前のように息をしている。
こんな状況がこの先も続いた日には、いずれ自分を失くしてしまうのではないか。それを恐怖と認識できるのももしかしたら今だけで……
伊津美はかぶりを降った。メイサが気付いていないのが幸いだと思った。今は放っておいてほしかった。
足を踏み入れた食堂で、伊津美は辺りを見渡してみた。
まばらに人がいるものの “あの子” の姿はない。あれ程目立つ容姿を見逃すとも思えず、やはり居ないのだと確信した。
出来たての熱いクロムムッシュをナイフで小さく切り分けた。それを一つずつ口に運びながら伊津美は目線を上げた。
あのさ、と切り出すとメイサが見つめ返してくる。ハムスターのように頬をいっぱいに膨らませた彼女がキョトンと目を見開いている。整った顔が台無しだ。
しかしそれを目にしたところで特に笑いがこみ上げるようなことも起こらなかった。残念ながらとてもそのような心境ではない。
口内のものを飲み下してから伊津美は口を開いた。
「部屋の準備ができるのは何時くらい、かしら?」
「そうだな、昼までには終わると思うけど……」
そんなに楽しみだったのか、とメイサは咀嚼によってくぐもった声で言う。違う、と心の中で返した。
少し間を置いてから伊津美は言った。
「ミラに会いに行きたいんだけれど。ここにはいないみたいだし……」
ミラに? そう返ってきた。
上ずった声色と同じように驚いた顔がじっと見てくる。その顔がやがてほころび始めた。初めて言葉を得た乳児でも見るかのように。
「あの子、朝ごはんろくに食べないからな。多分温室にいるんだろ。ちょっくら呼んできてやろうか?」
ううん。
伊津美は首を横に振った。
育ち盛りの子が朝食を食べないというのは心配だ。実際に彼女は実年齢より下に見えてしまうくらい痩せていたと思い出す。
しかしこの場に呼び出されては “目的” は果たせないだろう。
「私が行くわ」
伊津美は答えた。はっきりとした口調。でも視線は少しばかりそらしてしまった。
ふーん、と気のなさげな呟きをこぼしたメイサが再びクロムムッシュに手を付ける。しばらく口いっぱいで咀嚼した後、その顔に笑みが浮かび始めた。
冷やかすようなあの笑い方。伊津美はもう知っていた。彼女がこの顔をするときは大概ろくなことを考えていないと。
少しばかり不快で冷やかな視線をそちらに送る。何? と問う。
ごくりと飲み下したメイサがいや、と切り出した。
「アンタも強がってるけど本当は人恋しいのかなって。だとしたらちょっと可愛い……」
「ごちそうさま」
ガタ、と音を鳴らして伊津美は立ち上がった。つれねぇなぁ、という声が聞こえたが構わずに空になった食器をまとめ始める。
洗い場のカウンターにそれを返却して早々に立ち去ろうとしたとき呼び止められた。メイサの声だった。
振り返ったちょうどそのときに彼女が何か振りかぶるのが見えた。
飛んで来る塊。金属と思われる輝き。間近に迫ったそれを伊津美は胸元で受け止める。
すっぽり両の手の中に収まったものに視線を落とした。しげしげと見つめた。
金色で筒状のそれには繊細で厳かな雰囲気の文様が刻まれている。そしてある程度の重厚さがある。
記憶が呼び起こされた。あ、と伊津美は声を漏らした。
思い出した。
ミラが付けていたブレスレットだ。
顔を上げた伊津美に遠くのメイサがニッと笑いかけた。彼女は言った。
「そいつはセキュリティ用のブレスレットだよ。システムエンジニアのダチと共同製作したんだ」
得意気な顔の前にVサインをつくる。伊津美ははぁ、と湿った息をついた。手元を見つめながら思った。
メイサ、看護師でいいのよね?
そんな突っ込みが頭に浮かんだ。しかしそれすら忘れるくらいに魅入ってしまった。
高度な技術よりもむしろ古の風格のようなものを感じさせるそれは実に興味深かった。
「構造なら企業秘密だよ」
にんまりと勝ち誇ったような顔のメイサが言う。前々からではあったがやはり癇に障る表情だ。
「で、これをどうしろと?」
「肌身離さず付けていればいいのさ」
アンタを守る大事なものだからね。
そう言いながらメイサはナース服の袖をまくる。露わになった細い左手首には同じブレスレットが通されている。彼女はツン、と顎を上向きにした。
「ここにはセキュリティシステムの母体【ガーディアン・エンジェル】がある。そいつが庭園も含めた王宮全体をドーム状のバリアで守ってんだ。そのブレスレットには一つ一つに個人名の登録されたチップが入ってる。こいつを付けてる奴しかバリアは通過できないし、いつ誰が出入りしたか管理システムを見れば一目瞭然ってワケさ」
もはや言い返す言葉さえすぐに忘れてしまいそうになる。彼女がまさかここまでやってのけるとは、と。
「便利なものを作ったわね」
やっと一つ口にすることができた。伊津美は続けて言った。
「私たちの世界にもこんな技術があれば犯罪だって未然に防げるでしょうに」
「フィジカルにこっちの技術を持ち込むのは禁止されてるし、そもそも魔力が搭載されてるからそりゃあ無理な相談さ。でも……」
いつかアンタみたいなのが追いつくかもね。
メイサは悪戯っぽく笑う。彼女は更に大声で言う。
「アンタはすぐにフラフラと出歩くから絶対に外すなよ! あと王宮の敷地外には絶対出るな。敵の連中が潜んでいるかも知れないんだからな」
はいはい、と適当な返事を残して伊津美は踵を返す。手元に目を奪われつつ食堂を後にした。
長い廊下を歩きながら艶かしく光るブレスレットをはめてみる。最初から気付いてはいたがだいぶ隙間がある。ブカブカだ。
やっぱりこれ、大きいわよね。
繋ぎ目を探そうと首を傾げたときだった。
カシャン!!
「ひゃっ!?」
強く手首を握られる感覚に伊津美は自分でも驚くくらいの声を上げてしまう。
ブカブカだったはずのブレスレットが突如その身を縮めたのだ。しばらくは立ち止まったまま見つめていた。
すっかりジャストサイズになった金のブレスレット。許されるのなら今すぐにでも解体したい。
厳かな外観とはあまりにも不釣り合いな機能性を持つそれを凝視しながら、伊津美は自身の中の抑え難い探究心と戦っていた。
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ビニールに包まれた木製のドアをノックする。空洞を感じさせる鈍く脆い音。今にも朽ちて崩れてしまいそうだ、と案ずる伊津美は
この向こうにいる彼女もきっと……
想いを馳せる。
はぁい、という朗らかな返事が返ってきた。開いた隙間から湿った温かい空気が漏れた。
視線を落としたあたりに彼女がいた。驚きに目を見開くのがわかった。
「伊津美さん、来てくれたんですか?」
花開くような笑顔を咲かせるミラ。嬉しそうに頬を染めて中に招き入れようとする。伊津美はゆっくりとそれに続いた。
「このドア、何だか脆いわ。取り替えてもらった方がいいかも……」
遠慮がちに言うとミラがああ、と小さな声を漏らして苦笑する。彼女は言った。
「この温室は元々物置だったところを作り変えたんです。ドアだけはまだ直せてなくって……」
ふふ、とお茶目な笑みをこぼす。伏せた瞼。柔らかそうな瑞々しい肌に両の睫毛が長い影を落としている。
伊津美も笑った。彼女に合わせてそうしてみた。でも長くは持たなかった。
何も知らなければ無邪気に見えたであろう笑顔が今ではたまらなく痛々しく見えて、耐える胸は押し潰される寸前だ。
この間服を乾かした場所と同じ、小さなベンチに並んで腰を下ろした。
――ミラ。
しばらくの間を置いてから声をかけた。
はい、と返事をしたミラが真っ直ぐ見つめ上げてくる。大きな水色の瞳はやはり眩しいくらいに澄んでいる。闇なんておくびも見せないような色。
伊津美は一度、唾を飲み込んだ。それは乾ききった喉を中途半端に濡らして貼りつく痛みを感じさせる。やっとのところで意を決した。
「昨日ね、私この外の庭に出てみたの」
そうなんですか!
ミラがワントーン高めの声を上げる。伴って円らな目までが更に大きく見開かれる。
「裏庭だけどすごく陽当たりがいいですよね。庭園はもっと綺麗なんですよ」
今度ご案内しますね!と彼女は言う。
イキイキとした口調から植物に対する愛情が感じ取れた。宇宙の話をしているときの自分もこんな顔をしているのだろうかと思った。
ありがとう。
彼女の好意に対してまず礼を言った。それから一度うつむいた。
「ただ、ね……」
伊津美はついに口を開いた。
無垢な顔のミラが首を傾げて見上げる。もう、戻れなかった。
「陽当たりはよくわからなかったの。だって……」
夜、だったから。
少しそらしていた視線を再び彼女へと向けた。胸がどくん、と脈打った。
ゆっくりと笑顔が消えていく過程を目の当たりにしてしまった。思わずまた目をそらしてしまう。直視なんてとてもできない。
伊津美はそのまま両手を前で組み、屈む姿勢になった。
「ねぇ、ミラ」
やや下向きの前方を向いたまま口にした。何度もためらったあの問いかけを。
「……レグルスって、もしかして双子?」
何故だかはわからなかった。
ただ地雷を踏んだような感覚が瞬時に身体を駆け抜けた。ミラの方から息遣いの一つも聞こえないことがその証だと思えた。
続く沈黙の中、流れる水の音だけが変わらず規則的なリズムを刻んでいる。
やがて伊津美は息を飲んで顔を上げた。規則的なそれの中にもう一つの水音が混じり始めていた。
……ぐすっ……
その方向に顔を向けて固まった。
うつむいた彼女の顔の陰になった部分から大粒の雫が落ちていた。
「ミラ!?」
伊津美は思わず声を上げた。慌てて彼女の顔を覗き込む。
ごめんなさい、というか細い声をかろうじて捉えた。小さな両手がしきりに涙を拭っていた。
ミラ……
伊津美は恐る恐る彼女の背中に触れる。拒絶されないことがわかると、その壊れそうに頼りない背中をゆっくりとさすった。
何度も何度も、ぬくもりを与えるように。
「ミラはあのときもそんな顔をしていたわ。話して?一緒に考えるから」
「これは……知られてはいけないことです」
「……言わないから」
自身の口からごく自然に出てきた言葉に伊津美はもう戸惑うことすらなかった。まるで安堵したかのように両手で顔を覆ったミラがわぁっ、と声を上げた。