24.異色〜Ruby/Amethyst〜
空気はなおも冷たく身体を布団に閉じ込めるが頬に伝わる日差しは暖かい。伊津美はゆっくりと瞼を開いた。
ふさふさとしたものが鼻先に当たってくすぐったい。少し硬めの感触。若草色の髪だと気付いた。
身体を丸めたクー・シーが寝息を立てている。気持ち良く満たされたような横顔がそこにある。
ごく自然に触れていた。愛おしくてたまらず草の生い茂るような頭を撫でた。
ずっと続けばいいなんて思うくらい安らかなひとときだったが、それはすぐに崩された。荒々しく鳴り響いた引き戸の音と共に。
「伊津美ぃ、クー・シー見なかった? アイツ今日の掃除当番……」
メイサの視線がはた、と止まる。布団の中の彼の元で。
こういうのを何と呼ぶか伊津美はもう知っていた。そう、【デジャヴ】であると。
あーーーっ!!という大音量の声が響いた。あらかじめ耳を塞いではおいたが大きすぎるそれは指の隙間を抜けて鼓膜を揺さぶる。
驚いたのだろうか、クー・シーががばっと身体を起こす。その後ろで伊津美は顔をしかめた。
「本当に騒々しいわね、あなたは」
苦々しい顔で言い放ってやったが当の彼女はお構いなしにクー・シーの傍へ歩み寄る。引きつった彼の顔に自身のものを近付けた彼女の両の口角がにっと上がった。嫌な予感がした。彼女の声が叫んだ。
「スクープ!! 美人女子高生&8歳男児が一夜を共に! 無邪気な少年が見せたプレイボーイの片鱗!!」
ちがっ……とクー・シーが慌てふためく。メイサは容赦なくなおも続ける。
「何だかね〜、怪しいと思ってたんですよぉ〜」
今度は目撃者と思われる人物を演じて見せる。白々しく上ずった声で。そこへ伊津美が落ち着き払った口調で言う。
「もしそんなことがあったとしたら責められるのは彼じゃない。犯罪者である私よ」
未成年と言えど何らかの処罰は……などと続ける。メイサが顔を引きつらせる。
「いや、突っ込むの、そこ?」
「そこでしょう、間違いなく」
淡々と交わされる会話。その間で身を小さくしたクー・シーが震える。
真っ赤な顔をした彼がもう限界とばかりに叫んだ。
「違うってばぁ!!」
ドタドタという振動。遠のく怒声と高笑い。不快な埃を立たせながらメイサとクー・シーが部屋の外に消えていった。
やっと静寂が戻ってきた。騒ぎの後のこれは何て心安らぐのだろう。伊津美は緊張を解き放つように長く息を吐いた。
「あ、伊津美!」
わっ、と思わず声を上げた。すっかりどこぞへ立ち去ったかと思ったメイサが開いた引き戸からひょっこり顔を出している。彼女は言った。
「アンタの新しい部屋、明日には用意できっから。後で下見してもらうから着替えといて。それと健康診断もするからね!」
朝ごはんは食べないでよー、と言い残して彼女はまた消えた。どうやらこの心地良い静寂は保てそうにない。
慌ただしい一日が始まりそうな予感に覚悟を決めるしかなかった。
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また夜が巡ってきた。
伊津美は倒れるようにベッドに横たわる。予想通りの慌ただしい一日に体力はすっかり奪われていた。
あの後、着替えた伊津美はメイサに連れられて二階のある一室に辿り着いた。
ベッドの配置はここでいいか、本棚に用意する本は他に何が欲しいかなど、数々の質問を投げかけられた。正直、どうでもよかった。
その後は息つく間もなく健康診断へ。
始めに採血と尿検査。昼食を挟んでからX線らしきものと心電図、内診。
工程を重ねる毎にやはり信憑性が薄れてしまう。出るものはちゃんと出るし心拍も骨もあるではないか、と。
憮然とむくれる中であることに気が付いた。メイサのことだった。
ずっと見ていたが他の看護師はおろか医師の姿さえない。一通りの作業をメイサ一人が執り行っているのだ。
彼女は医師免許でも持っているのだろうか。そうでもなければこれ程の内容を一人でこなすことなんてできまい。もしかしたら、と思った。
お調子者を装っている彼女は実は大変な秀才なのではあるまいか。そんなことを考えてしまう。
そうこうしている間に夕食時間になったらしく、誘われるがままに食堂へ、次に大浴場と昨日と全く同じルートを辿った。そして今に至る。
眠くなるまで本を読んでやり過ごそうと考えていた。だけどそう簡単にもいかなかった。伊津美は開いた本の上へ力なく腕を垂れた。
当初のような居心地の悪さこそ薄れたものの、今日も結局この建物から出ることはなかった。本しか楽しみのない部屋と限られた箇所とを行ったり来たりするだけ。これではまるで入院生活だ。
胸の内が再び失望の暗い色に染まり始めている。不穏な動きで蝕むように。
沸いてくる思いに伊津美はたまらず肩を抱いた。言葉にならないこれを無理矢理言葉にするとしたらそう、やはり “寂しさ” になるのだろうかと思った。そのときだった。
――いつでも遊びに来て下さいね――
ふと蘇ったあの声が脳裏に光を与えた。温室の少女、ミラ。彼女の声だった。
伊津美はもそもそと立ち上がった。掛け時計を見上げて時間を確認した。一瞬ためらったがそれでも部屋を後にした。
確かに “いつでも” とは言っていたけどさすがにこれはないか。
伊津美は今更のように自身に語りかける。
時計の針は10時を指し示す寸前だった。まさかこんな時間に温室になど、むしろ起きているとも考えがたい。彼女はまだ7歳なのだからと。
だけど両の足は止まることなく薄暗い廊下を進んでいく。まるで導かれるような不思議な感覚。
これはもう理屈では説明がつかなかった。論理的にものを考える者として不覚ではあるが認めざるを得ない。何故だか無性に気になった、ただそれしかなかったと。
やがて現れたビニールのかかった一枚の扉。伊津美はドアノブに手をかける。ひんやりとした感触が伝わる。そして気付いた。鍵がかかっていることに。
やはり彼女はここにいないのだ。
普通ならそう判断してすぐに帰っていいところだろう。しかしそうはいかなかった。
伊津美は気付いてしまった。すぐに立ち去らなかったばかりに。
水の流れる音の中に別の音が混じっていることに。
おもむろに外の景色を映し出すガラス戸へと近付いた。内鍵をひねるとそれはあっさりと開いた。セキュリティとしては非常に心配だ、などと思いつつも外へ一歩を踏み出した。
凍りそうに冷たい風が容赦無く吹き付ける。浮かび上がるパジャマを肌に密着させるように両腕で肩を抱く。
伊津美は寒さに震えながらある方向へと歩いた。しばらくして立ち止まった。
予想した通り、そう思った。
温室にはもう一つ、外へと繋がる扉があった。
温室全体の外観は農学部でよく見るようなビニール素材。ドアだけプラスチック素材でその上部に小さな窓が付いている。ドアの向かい側には闇に沈む美しくも不気味な森が広がっている。
伊津美は恐る恐る近付いた。もちろんドアへと向かって。
少し背伸びをした。小さな窓から中を覗き込んだが最後、そのままの姿勢で静止した。
生い茂る植物の群れの中に彼女と、もう一人がいた。伊津美は目を細めてくっつきそうなくらいに顔を寄せた。
スマートな体型に銀色の髪。黒いロングコートに同色のパンツ。
レグルス……?
しばらく顔を合わせていない彼の名がこぼれる。だけど何か違和感を感じる。そうだ、と思った。伊津美は改めてその人物に見入った。
あの人にしてはやけに顔立ちが薄く見える。身体だってまるで筋肉がほとんど付いていないような細さだ。
彼だと言われればそうかも知れないがどうも記憶と違うような気がしてならない。
ミラは、と視線を移した。思わず眉をひそめた。
泣いてる?
高鳴る不穏な鼓動から意識をそらすよう努めて、全体を見るように少し遠のいた。それでやっと気が付いた。
ミラは今にも泣き出しそうな顔をうつむかせている。すごく悲しそうに。
対する彼は困っているように見える。迷惑、といった感じではない。後ろめたいかのようなそんな顔だ。
伊津美はそっとドアから離れた。とても自分が入っていける雰囲気ではない。いや、むしろここへ入れる人間などいるのだろうかとさえ思った。
おそらくは見なかったことにした方が良いのだろう。半ば無理矢理に自身を納得させて背を向けた。音を立てないように立ち去ろうとしていたときだった。
脳天から電流のような衝撃が走った気がした。
はっと息を飲んで振り返った。
紫……
一瞬見えた色がそれだった。やはり違うかも知れないと感じるなり、伊津美の鼓動は再び暴れ出した。
レグルスは……赤。
伊津美はしばらくの間その場に立ちすくんでいた。プラスチックのドアを離れた場所から見つめた。
訳もわからないのに何故だかたまらなく怖くて再び近付くことができない。
――ミラを見つめる瞳の色。
それは確かにアメジストのような紫だった。
そしてそれに気付いてしまったことが何かとてつもない誤ちのようにさえ感じられて、寒さとは関係なしに震えた。