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ASTRAL LEGEND  作者: 七瀬渚
第1章/幽体の世界『アストラル』
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23.名前〜Name〜



 夜、8時が過ぎた。もはや自室と化したような部屋に戻りパジャマに着替えた伊津美はブラシで髪をといていた。馬の毛だろうか、とても上質なブラシだ。


 心地よい感触に身を委ねつつ、今日あったことを思い返した。



 この部屋に放り込まれてから何の進展も変化もない日々がずっと続くのかも知れないと一度は絶望さえした。しかし時は再び回り始めた。



 きっかけはあのとき、ミラという少女に出会った瞬間だったのかも知れない。



 メイサ、そしてクー・シーと昼まで話した。時折笑い合った。あんな話だったというのに今考えると不思議なくらいだと思った。



 思いがけずお腹が鳴ったのをメイサにばっちり聞かれてしまった。可笑しそうに肩を震わせた彼女に食堂へ行こうと誘われた。アンタにも食えるもんだから安心しな、と彼女は言った。



 一体どんなものが出てくるのかと身構えていたが何のことはない。サラダとオニオンスープ、それから至って普通のオムライスだった。


 サラダには見慣れないハーブのようなものが入っていたが、決して癖のある味ではなくバジルの香りに似ていた。



 全体的に好みの味だった為か、はたまた久しぶりに口から得る栄養を身体が求めたのか、伊津美の食欲は思った以上に進んだ。メイサが呆れたように食いしん坊、と言った。


 五感が見事に満たされる中、これが幽体だなんて実感はますます遠のいてしまった。



 クー・シーとはこの後別れて、部屋でメイサの持ってきてくれた小説を読んだ。読むのが早いと気付くと彼女は更に大量を本をもってきてベッドの横のテーブルの上に山積みにした。



「伊津美の部屋は今新たに用意しているところだよ」


 本を読み漁る伊津美を彼女がやれやれといったような顔で見下ろした。片付けが終わり次第そっちに移れるよ、と彼女は言った。


 部屋の手配よりも早く帰れるすべを探してほしいと思ったが口にはしなかった。自身の内なる変化に戸惑っていた。




 帰りたい。帰って今すぐにでも優輝を探したい。


 アストラルという世界に彼がいる保証などないし、これが真実である証明もないのだから。


 だけどその一方で変化は確実に起こっている。



 認めたくはなかった。当初の願望が今、薄れつつあるなど。





 夜6時くらいで今度はメイサと二人で食堂へ、その後は大浴場に向かった。


 しばらく浸かれなかった湯をやはり身体は求めているように感じた。程よい温度の湯に顎まで沈めながら伊津美はぼんやりと見入った。



 まずは露天風呂の景色。


 薔薇の浮かんだ湯、それを白い女神像が見下ろしている。彼女の手にした水瓶からは湯が流れ出ている。辺りは豊かな植物が囲んでいる。古代ローマのテルマエを思わせる造りだと思った。



 それともう一つは不覚にもメイサのプロポーションだった。


 伊津美のスレンダーなそれとは異なるグラマラスなシルエットはナース服姿の彼女のイメージを一掃した。



 あまりに見入っているとスケベ! という叫びと共に湯が降りかかってきた。伊津美も負けじと反撃した。


 今思うと完全に【水遊び】だ。我ながら子どもじみたことをしたもんだと伊津美は後から恥ずかしく思った。




 メイサは少し前に自室に戻って行った。伊津美は布団に半身だけ潜り視線を落としている。膝に置いた一冊の分厚い本の中身を眺めて。




 ……やっぱり。



 ぽつりと呟いた。




 この場所に来てから気になっていたことが伊津美にはあった。そして山積みの本の中からちょうど良い資料となりうるものを見つけて手に取ったのだ。伊津美が常日頃から深い興味を抱いているものだった。




 ガララ、と引き戸が鳴った。またか、と思ってそちらを見た。しかしそこに居たのは予想していた姿ではなかった。




 伊津美さん……



 か細く弱々しい声が名を呼ぶ。両腕に枕を抱えたクー・シーが宙に浮かんでいる。泣きそうな顔をしているのが遠くからでもわかった。彼は言った。


「一緒に寝て……いい?」


 頼りない口調。甘える小動物のような仕草ですり寄ってくる。うん、と伊津美は答えた。間近でぱあっと笑顔が咲く。内心では悶絶していた。


 そんな気持ちなど知らずに幼い彼は嬉しそうに布団に潜り込もうとする。そのとき朱の瞳がくるりと下へ向いた。布団越しに膝に乗った本に気付いたようだ。



「伊津美さん、星好きなの?」


 クー・シーがまん丸な目で見上げて問いかける。伊津美はちょっと恥ずかしくなって、まぁ…と濁して答えた。反してクー・シーの顔には好奇心を象徴する笑顔が広がっていく。


「そうなんだ! 僕も大好き。ねぇ、星見ようよ。今日はよく見えるはずだよ!」


 クー・シーの身体がひらりと布団から離れて舞い上がる。真っ直ぐ窓へ向かった彼は力一杯それを開け放った。


 伊津美もそっとベッドから降りて近づく。この部屋の窓から外を眺めるのは初めてだった。



 これはチャンスだ。外の状況が少しでも見えればここから出る手がかりが掴めるかも知れない。



 当初の自分を取り戻したのは一瞬だった。次の一瞬ですぐに消え去ってしまった。実に儚く。伊津美は大きく目を見張った。




 まるで宇宙の中に身を投げ出したみたい。


 今までにこんな鮮明な星々の大群を目にしたことがあっただろうか。少なくとも記憶にはない。記憶にあるなら間違いなく覚えているはずだ。



「ねぇ、クー・シー」



 冷たい冬の夜風を受けながら伊津美は口を開いた。ひたすら目の前の光景を意識を奪われながら。



「ここの人達って、みんな恒星の名前が付いているの?」


「コーセー?」



 不思議そうなクー・シーの声が返ってくる。伊津美は少し我を取り戻してごめん、と呟いた。それからまた言った。



「えっとね、自分で光を放っている星という意味よ」




 そう、次々と名前を耳にするうちに気が付いたのだ。



 レグルス、メイサ、ミラ、クー・シー……



 それらは皆、恒星と一致する名前なのだと。


 昼にお茶を飲みながら聞いたあの名前も……



ああ! とクー・シーが声を上げた。合点がいったようだ。



「僕の名前も星から付けられたって聞いたよ! あと王族は代々星の名前なんだって。王女様も【スピカ】っていうんだよ」


 乙女座αアルファ星ね、と伊津美は胸の内で納得する。


「星だけじゃなくてね、花や宝石の名前の人もいるんだよ」


 クー・シーが更に身体をすり寄せながら言う。そうね、と伊津美は呟く。




【マラカイト】は宝石だものね。



 ふと一人の姿が脳裏に浮かんだ。今では懐かしくすら感じられる優輝の顔が。


 伊津美は振り払うようにふるふるとかぶりを降った。クー・シーが心配そうに見上げていたが気付かなかった。



 彼は違う。そう思うことにしたのに。


 だけど頭から離れない。背丈、目つき、肌の質感、全てが違っているはずの彼の口から放たれた、あの声が。




 視界がぼやけた。涙だと気付いて急いで拭おうとしたが遅かった。



「伊津美さん!? どうしたの?」



――ううん。



 心配そうなクー・シーの顔を見下ろして微笑んだ。



「何でもないのよ」



 やっとの思いで答えた。クー・シーは少しホッとしたように息を吐いた。


 どうやら誤魔化せたようだ。彼が幼くて本当に良かったと思った。だけどそれは見当違いだったことにすぐに気付かされた。



「ねぇねぇ、僕の星ってどんな星なの?」


 無邪気な笑顔。あざむけたなんて一瞬でも思ったのがおこがましく思えるくらい、精一杯の。彼なりに気を遣っているのだとすぐにわかった。


 目の奥から沸き上がるものを堪えながら伊津美は微笑みを落とした。



「【クー・シー】は一つの星じゃなくてね、四重連星…あ、いくつかあるってことね。明るさが変わる変光星だと言われているのよ。」


 へぇ! という声が上がる。それこそ変光星の如く表情が著しく変わる彼が更に身を乗り出して問いかける。



「じゃあ意味は?」


「弓矢という意味よ。妖精の【クー・シー】とはまた別」



 へぇーと彼はため息のような声を漏らす。武器の名前というところが気に入ったのだろうか。潤んだ瞳を星の瞬きのように輝かせている。


 それが何だか可笑しくて伊津美はクスクスと笑った。好奇心に満ちた瞳がすぐに見つめ返した。



 伊津美さん!



 親しみの感じられる声でクー・シーが言う。伊津美もそちらを優しく見下ろす。



「星のことよく知ってるんだね! 宇宙に行きたいって思う?」


「知りたい、と思うわ」


「宇宙のお仕事するの?」


「できるなら、ね」



 すっげー! とクー・シーがお腹から出たとわかる声を上げる。その反応が懐かしかった。




 優輝もこんな風に無邪気にはしゃいでいたっけ。8歳の子と同じ反応って……



 伊津美はうずくまって肩を震わせた。可笑しさと寂しさが入り混じってもうぐちゃぐちゃだった。自分が笑っているのか泣いているのかもわからなかった。



 この子も不思議な子。すごく真っ直ぐでミラとは違った意味で澄んでいて、傍にいると温かくて時々すごく切ない。



 じゃあさ、とクー・シーが切り出した。


「【レグルス】は? どんな星?」


 あと【ミラ】と【スピカ】も教えて! と彼は次々に質問を投げかけてくる。話はまだまだ続きそうだ。伊津美は覚悟を決めた。



 これも気を遣ってのことなのだろうか。それに好きな星の話なら……


 受けて立とう、そんな決意を胸に幼い彼に向き合った。






 その数時間後、伊津美は布団の中で小さな身体を抱き締めていた。安心して眠れるようにと優しく。


 彼がここに来た理由も大体察しがついていた。そして、この世の汚い部分などただの一度も目にしたことがないように見える彼がどんな傷を抱えているのかも、もう知っていた。




――コイツはルナティック・ヘブンに家族を奪われたんだよ――




 メイサはそんな一言を口にした。よりにもよって本人の目の前で。空気が凍ったような錯覚に陥って勝手に焦ってしまった。



「ちょっと、何も今そんなこと……」


「いいんだ」



 うろたえる伊津美の言葉を遮ったのはクー・シーだった。驚きを隠せないまま彼の方を見た。



「僕は強くなるって決めたんだ。レグルスさんみたいな強い男に。その為には現実を受け入れて乗り越えることだってレグルスさんが教えてくれたんだ」


 目が眩むくらい綺麗な瞳だった。幼いなりの強い意志を全身に受けて皮膚がピリピリと痺れた気がした。



蝙蝠コウモリ魔族は悪い奴なんだって思ってた。でもレグルスさんは逃げなかった。僕を強い男にするって約束してくれたんだ」


 真っ直ぐな視線は崩れなかった。一度も。力強い声で彼は言った。


「だから僕はレグルスさんを信じる。強くなってお父さんとお母さんと兄さんと、仲間の仇をとるんだ」


 そう、と伊津美は返した。それくらいしか返せるものがなかった。



 ちなみに今朝このベッドの下で眠っていたのも、レグルスから伊津美の存在を知らされて友達になろうと尋ねて来たからだと言う。レグルスという男への信頼が十分過ぎるくらいに伝わった。




 クー・シー、あなたは強い。私なんかよりずっと。


 心から人を信じて自らを変えていこうとしているのだから。




 声には出せなかった伊津美は心の中だけで小さな彼に語りかけた。




 眠りに落ちたクー・シーを起こさないようにそっと身体を起こす。スリッパも履かずありのままの足で冷たい床を踏みしめた。更に冷たい窓に素手で触れてわずかに開いた。吹き込む静かな風を正面から受けた。


 未だ不安定に揺れ動く内側の自分にしっかりしろ、と喝を入れるように。



 こうでもしないと自分を保てないような気がした。何かに流されてしまいそうで怖かった。



 あんな話聞かなければ良かった。そんなことを思ってももう遅い。




 メイサの放った言葉はドリルのこどく容赦なく奥深くを抉るものだった。




「ルナティック・ヘブンのかしら【ルシフェル】は、本名リゲル・グラディウス・ガルシア……」





 レグルスの叔父なんだよ。




 明るみになったあまりに重い事実に何一つ返すことはできなかった。ただ口をつぐむばかりだった。




 隙間から天を仰いだ。満天の星空を。



 青白い星が瞬いている。一等星よりも強く輝くその星が好きでいつか優輝にも熱く語ったことを思い出した。



 リゲル……



 伊津美はいつの間にか呟いていた。



 自分の好きな星の名を持つその人はいい人であってほしかった。そんなことを思う自分はやはり変わり者なのかも知れないと思った。


 同じオリオン座の一つである【メイサ】の名を持つ彼女が少々変人でありながらもまともなたぐいであることが救いのように感じられた。



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