20.伝説〜Legend〜
シャッ、と音が鳴る。
部屋の一角に取り付けられたカーテンから新しい服を纏った伊津美が姿を現した。振り向いたメイサが目を大きくしてほぉ、と低く呟いた。
「似合うじゃねぇか。さすが私のチョイスだな」
満足気な顔。彼女にはプロデューサー気質でもあるのだろうか。サディストにありがちなことだと考えれば納得もいく。
「サイズの正確さは申し分ないわ。それは認めて上げる」
服の裾を正しながら伊津美は言う。
「何で素直に礼が言えないのかねぇ、アンタは」
メイサが苦笑して返す。伊津美も薄く笑った。自分でも気付かない程、一瞬のことだったがメイサは見逃さなかったようだ。何処か安堵したような表情で彼女は口を開いた。
「で、伊津美はさっき何処に行ってたのさ?」
彼女は問う。
「適当に歩いていただけよ」
伊津美は答えた。それから記憶に新しい “彼女” のことを思い出した。ためらいがちに言った。
「ミラという子に会ったわ。たまたま……」
へぇ! と声が上がった。メイサが猫のような目を見開いていた。
「ミラは早起きだからねぇ。どぉ? 可愛いでしょ、あの子」
そんなのは言うまでもないと思った。今もなおしっかり目に焼き付いていると。
可憐で眩しいくらい澄んでいて……
「……仮に妖精がいるのなら、あんな感じなのかなって」
その一言にメイサが素早く反応した。感心したような輝く眼差しを向けてくる。
やっぱりわかるんだ。
彼女は言った。伊津美は思わず、え、と呟いた。
「いや、ちょっとびっくりした。半分くらいアタリかな」
メイサは続けて語りだす。
「あの子は妖精族の子孫だよ。と言ってもかなり昔の先祖に妖精がいるってだけだからほぼ人間なんだけど。妖力も微々たるものだし、使いこなせるものではない」
「人間と妖精が子孫を作ったと言うの?」
伊津美は問いかけていた。 “仮に” であったことなど忘れて、ごく自然に。
そ、とメイサが頷いた。彼女はベッドの上に腰を下ろした。体重を支えるギシ、という音が鳴った。
「魔族は強さと野心の象徴だった。妖精族は奉公と調和。そして人間は知恵と救済」
伊津美は動きを止めて立ちすくむ。静かに言葉を紡ぎ出す彼女にひたすら見入った。
――アストラルには【伝説】があるんだ。
彼女は続けた。
「野心も知恵も調和も、今や誰もが持ち合わせていると言っても過言じゃない要素だけど、昔はそれぞれの種族がもっと色濃く分かれていたんだ。そして……」
それが原因で魔族と妖精族は対立した。
最後に続いたメイサの言葉。伊津美は無意識に胸元へ手を当てていた。ぎゅっとそこを握る。
あの不快な感覚が今、再びそこにあった。
「今から2000年以上昔、魔族はついに行動を起こして妖精族の多くが滅ぼされた。そして魔族は一人の妖精女帝によって同じく多くが消された」
妖精女帝?
慣れない言葉を聞き返してみると、メイサがうんと頷く。
「女帝の真意はわからない。何しろ戦争が起こった森一つ分が丸ごと消滅してしまったんだからね。もちろん女帝自身もさ」
この伝説を語り継いだのは人間。かろうじて生き延びたわずかばりの妖精と魔族を彼らが助けたのだとメイサは言う。
「知恵と救済……」
伊津美はぽつりと口にしていた。
現実味など沸くはずもないのに何処か引き込まれてしまう、メイサの話はなおも続く。
「魔族にとっては人間も十分に弱者で攻撃されて犠牲になった者もいたけれど、極めて頭脳が発達していた為に人間の犠牲は最小限に抑えられたんだ。その彼らの一部は妖精と関わった。また一部は戦いで傷付き邪気をなくした魔族を助けた。こうして人間と妖精、魔族の間に子孫が生まれていったんだよ」
人間と他種族の子孫。もしそんなものがあるなら……
「レグルスも……?」
伊津美は口にした。薄気味悪く、恐ろしかったその名を。
ははっ、と笑い声がした。ベッドに腰かけたメイサが脚を組み直して言った。
「もちろんだよ。アイツだって蝙蝠の翼を持ってる以外はほとんど人間の姿をしてるだろ? 今や人間の遺伝子を含まない魔族、妖精族はここには存在しないんだよ。ただアイツの場合はちょっとばかり特殊なんだけどね」
――ガルシア一族――
彼女の口から一つの言葉が紡がれた。
「ガルシアは代々【破壊と再生】を担う魔族の中のサラブレッドさ。破壊すべきもの、また再生すべきものを見極めてそれを執り行う。当然、相当な魔力が受け継がれている訳だ」
伊津美はごくり、と喉を鳴らす。
破壊。
その言葉にはやはり背筋の凍るような感覚が付いてくる。
それはむしろ自然なことであるはずだ。そんな単語をさらりと口にできてしまうこのナースの方がよほど不気味だと思うのは何ら不思議ではない。
だけど今、この胸で蠢いているものはその類ではないと伊津美は気付いていた。立ち入ってはいけない、踏みとどまれと誰かに命じられているような。
「そういう意味ではミラも同じなのかもな……」
メイサの小さな声がした。顔を上げると彼女は我に返ったようにああ、と呟き少し焦った様子で言う。
「能力というよりは性質がな。私は一年前からここにいるから、ミラとの付き合いもたったの一年。でも今や親友と呼べるくらい絆を深めたつもりだ。その上で思うんだ」
わずかの間、溜めるようにして彼女は言った。
「あの子は優し過ぎる。妖精らしい……自己犠牲型だよ」
はっ、と息の飲む音がした。それが自らのものだとやがて伊津美は気付いた。
それだ、と思った。
ミラという少女と話したときの違和感。それはただ年相応の口ぶりではないということに限らなかったと今更のように気付く。
彼女は何においても相手優先だ。痛々しい程に。我を抑えずとも許される歳であるにも関わらずだ。
同じ類の人間ならば理想的な優等生と解釈するのかも知れない。時に冷たいと言われるくらい現実をシンプルに受け止める者……まさに自身や同じ客観的視点のナースにこそ感じることができる違和感なのかも知れないと思った。
「それ、私も思っていたわ」
伊津美は細い声で言った。メイサは落ち着いた視線で見つめ返す。特に驚いてもいないように。
私は……
伊津美は下を向いてこぼした。
「相手が強気に踏み込んでこない限り、他人に興味を持つということがほとんどないから、属性の全く異なる人間を見たような気分だったわ」
メイサは数秒、ポカンとだらしなく口に開けっ放しにした。
それから声を上げて笑った。びっくりした。
「なるほど、そういう理由ね!」
お腹を抱えて彼女は言う。
「アンタ、コミュニケーション苦手そうだもんね。頭はいいけど。今のアンタは本当、それだけに見える」
そこまで笑われるとは……伊津美は憮然とした表情を浮かべる。
他人に興味がない、ねぇ……
ひとしきり笑ったメイサが落ち着き始めた。何か考えるような彼女の呟き。そして彼女は再び口を開いた。静まった漆黒の目で見上げた。
「……私にはそうは思えないんだけど」
え、と漏らしてしまった。
見上げる彼女を見て固まってしまった。
鋭い眼光。奥底まで抉るような。
ねぇ……
彼女は言った。
「伊津美、どっかの段階で自分を騙してるってこと……ない?」
「まさか……」
何を言うのだ。そんなはずはない。ずっとこうして生きてきたのだから。特に不便もなかったのだから、そんなはずは……
口でも内心でも否定をしつつも、ざわめく感覚が身体中に這い上がってくる。伊津美は後ずさった。たまらなく怖かった。平静を装うのはやっとだった。
自身の中の得体の知れない “何か” が目覚めそうなこの感覚には覚えがある。まだ記憶に新しい。この場所に来てからすでに何度か感じている。これは一体……
「……なーんてね」
渦に飲まれそうな伊津美をカラッとした明るい声が引き戻した。頭の上で手を組んだメイサがうーん、と唸って伸びをしていた。
「そりゃないか。アンタみたいな正真正銘の人見知りがねぇ」
「馬鹿にしているの?」
伊津美はむっとして言い返す。実際は少しばかり安堵していた。ようやく解放されたような気がして。
その様子を見ていたメイサも安心したように目を細めた。彼女は言った。
「まぁいい機会だ。ミラと友達になってやってよ。女の友達が増えればあの子も嬉しいだろう」
いつまでこの場にいるのかもまだわからないのに……そう思いつつも頷いた。否定する気にはなれなかった。
「彼女みたいな可愛くていい子なら……」
微笑んでみせたつもりだった。まだ慣れなくて少しくすぐったく、恥ずかしかった。