17.楽園〜Paradise〜
翌朝、まとわり付くような湿度の高い冷気で伊津美は目を覚ました。
布団を引き寄せ握りしめた。ふと視線を上へ送った。
ベッドの頭側の壁に掛け時計がある。6時5分、いつもよりちょっと早い朝。取り囲む環境は昨日と変わらない。
時計を見たり時間を気にする理由はもうないことに気付いて可笑しくなった。この環境が変わらない限り何の意味もないのだと。
ただじっとしているのも骨が折れる。床に伏せっぱなしだった身体が鈍く痛い。
伊津美はむくりと身体を起こした。寒さに耐える方がまだマシなように思えて両足を床へと降ろす。
痛っ……
カシャ、という軽い金属の音。左腕に走った細い痛みに思わず小さく声を上げた。
点滴のチューブが引っ張られたことでスタンドが動いたようだ。薄っぺらくなった点滴の袋が揺れていた。もう空だった。
幽体の世界などと言われてもしっくりくるはずもない。凍てつく寒さに身体はしっかり反応し、生理的な現象だって変わらずに起きている。
伊津美は自らの手で点滴の針を引き抜く。固定用のテープを先端に巻きつけ、スタンドごと端に寄せる。万が一誰かが怪我をしないようにというせめてもの気遣いだった。
それからスリッパを履いて部屋を出た。トイレに寄る為だった。
この場所に来てからというもの、病室のような白い部屋と向かいの個室の二ヶ所しか知らない。すぐに戻るつもりだった。これから新たな出会いがあるなど知る由もなく。
トイレから出たとき何故か目を奪われた左側。長く薄暗い廊下が奥へ続いている。
今思うと導かれたのではないかという程自然にそちらへ足が向かった。
廊下にスリッパのペタペタ貼りつく音が響く。学校のものを彷彿とさせる程に退屈で長い。しかし壁に取り付けられた古典的な形状の間接照明は厳かな雰囲気を感じさせる。
ずっと歩いてやっと浮かんで見えた突き当たりは明るかった。右側から朝の光が差し込んでいる。
その場に辿り着いたとき、出入り口のようなスペースがあることに気が付いた。ガラス張りの向こう側に外の景色が見えた。伊津美はぼんやりと立ちすくんだ。
手入れされた芝生、小さな植木、真っ白な天使の彫刻……公園のような景色に目を奪われてしまう。扉近くには白い円形のテーブルと同素材の椅子が一つずつちょこんと置いてある。
整った綺麗な眺めだが、王宮という割にはこじんまりだ。見たところ外の景色は裏庭、この出入り口も勝手口といったところかと伊津美は分析をしてみる。
やがてまた動き出した。ゆっくりとそちらへ向かった。
扉は内鍵がかかっているだけ。無意識に伸びた手がそこへ触れたが力を入れることができなかった。
無意味だ。
そう思って止まった。
逃げたところで一体何処へ行けばいいというのだ。こんな無防備な姿で宛てもないまま。
扉から手が離れた。わずかな好奇心も期待も諦めに沈んで足元までが引っ込んでしまう。
寒いしもう戻ろう。そう思ったときに気が付いた。
カタン……
それは小さな物音だった。伊津美は反射的に音の出処と思われる場所に目を向けた。
すぐ側に辺りとは明らかに材質も年季も異なる違うドアが存在していた。
木製の古びたドア。その表面がビニールで覆われている。伊津美は顔を近付け耳をすませる。
物音だけじゃなく他にも聞こえる。水の流れる音、そして誰かの声。
そっとドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
開けた瞬間、むせ返るような湿度と甘い香りが一瞬にして包まれた。目の前に広がった光景に伊津美は呆然となった。
一面に生い茂る無数の植物と花はどれも見たことのない形状のものばかりだった。
何処からか響いている水の音が鼓動を安らかにしてくれる。ああ、と伊津美は内心で呻く。
【楽園】とはきっとこういうもの。
私はやはり死んでしまったのか。
歌声が聞こえる。可憐な少女の声。立ちすくんだまま瞼を閉じた。
きっとこれは天使の…
どんっ!
「きゃっ……!」
柔らかい衝撃と小さな悲鳴。飛び散る水しぶき。そして冷たい感触。
ふわふわと宙を漂っていた意識が一瞬にして覚めた。伊津美は足元へ視線を落とした。またしても目を見張ることになった。
薄桃色の髪をおだんごに結った小さな女の子がしりもちをついている。濡れた床にはジョウロが転がっている。
伊津美は我に返って身を屈めた。
「ご、ごめんね! 大丈……」
「ごめんなさい!!」
言い終わる前に、立ち上がったばかりのびしょ濡れの少女が深々とこうべを垂れた。