16.責任〜Responsibility〜
――同じ夜のことだった。
「フィジカルへの干渉を打ち切るのですか?」
星明かりが照らすだけの部屋は薄暗くて少し青い。直立して見下ろす中年の男が問いかけた。デスク越しに座っている人物に向かって。
その人は声を発することもなく静かに頷く。
「しかし、戦力は可能な限り集めておいた方が……」
今度は首を横に振った。やはりゆっくりと。
――ミンタカ。
低くかすれ気味な声が名を呼ぶ。対する彼がはっ、と歯切れの良い声を上げる。慣れたような素早い反応だ。
「数を集めればいいというものではないよ」
心配そうな表情を浮かべるミンタカという男にその人は言った。顎まで伸びる長い銀の前髪が流れた。
蝋のような白い肌には皺が刻まれていて相応の年を重ねたことが伺える。向かい合う男と同年代のようにも見える。
しかし皺を刻んでなお整ったパーツは未だに息を飲むような美しさを、そして魔族らしい冷たさを感じさせるのだ。
それこそ “悪魔” のように。
「力を持つ者は扱いが難しいんだよね。尖ってるが故に調和するのも一苦労なんだ。下手をすると足かせになってしまう」
少し甘い声色。何処か少年じみた独特の口調で言う。
流れた前髪に顔が半分程覆われている。露出した片側の目が見上げた。吸い込まれそうに深いアメジストの色だった。
「戦力は十分に揃っている。あとは “彼女” と……シャウラなんだよなぁ」
弱ったような声で言う。紫の片目が想いを馳せるかの如く斜め上を向く。
「なぁ、ミンタカ。お前は……」
付いてきてくれるかい? とその人は問う。儚げな視線を送りながら。
それを受けた男が頷いた。邪気など微塵もない優しい顔をした。彼は言った。
「私は何処までもルシフェル様と共に」
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目を覚ましたのはちょうど夜が明け始める手前だった。時刻で言うならおそらく午前4時過ぎという具合か。
時計を見なくても窓の色で大体わかる。いつもこの時間帯に起きていることに今更のように気が付いた。
レグルスは上体を起こした。傍で寝息を立てているクー・シーを起こさないように、そっと。
出発までまだ時間があるのでシャワーを浴びることにした。これまでメイサに勧められていた流れがいつの間にか定番化していた。
気休めばかりにさっぱりとさせた身体に着慣れた服を纏う。タイトなジャケットを羽織ると自然と身が引き締まるような気がした。ある種のスイッチみたいなものかも知れない。
必要最低限の荷物だけを詰めたバッグを取りに部屋へ戻ると、ベッドの上で眠そうに目をこすっているクー・シーとメイサの姿があった。
「朝メシまだなんだろ。付き合えよ」
相変わらずのぶっきらぼうな口調でメイサが言う。アンタ……と思わず口にしそうになった。
就寝時間が決して早くはない、どちらかというと夜型な彼女が普段ならいつ頃に起床するのか大体把握していた。この為にわざわざ起きたのかと思うと灯火のような小さな熱を内側に感じた。
しかし胸の奥を照らす出来事はこれで終わらなかった。
レグルスさん……!
高く可憐な声が呼ぶ。背後からだった。レグルスは振り返って見下ろした。
「ミラ……」
廊下の奥から息を切らして駆けてきた少女。普段結っている髪もばさりとほどかれたまま。息を整えながら少女は笑った。
「間に合って良かったぁ」
クー・シーとはまた違った澄んだ眼差しは未だに直視することが難しい。
彼女がこの王宮に居る経緯ももちろん知っていた。レグルスはもう一度窓に視線を送った。朝日の黄が混じり始めていた。
――ルナティック・ヘブン――
奴らは次の手段を考えているはずだ。戦力を収集もまだ続くことだろう。
これ以上事態を拡大させる訳にはいかない。今度こそ心から誓えたその思いがレグルスを動かしていた。
桜庭伊津美。
意図せずとは言え彼女と出会ったことがきっかけだった。
想像していたよりはるかに大きなことが起こる予感を全身で感じた。
こういう類の勘は外れない。いや、むしろ嫌な予感なんてものは感じてしまった時点でもう遅くて、そこから先はただ最善の策を考えて臨むだけなのだ。
少なくとも今まではそうだったとレグルスは確信を覚えていた。
そしてもう一つ、きっかけとなるものがあった。しばらくは脳裏に焼き付いて離れそうにない程の。
今、最も逢いたい人の姿はない。
接触を拒まれていることを知った上で気を遣っているのか、はたまた信じてくれているのか……
どうか後者であることをと願った。
――レグルス。
出発の前、メイサが言った。
「死ぬなよ」
漆黒の瞳がいつになく真剣だった。今更主張しなくたってわかるよ、と言いたくなった。
どんなにぶっきらぼうを装っていても本当は精一杯心配している、それくらいとうに知っていると。
レグルスは寒さにじんと痺れる鼻をこすった。少し指先が濡れた。照れ隠しみたいに笑って言った。
「馬鹿言うな。俺は未来のアストラル王だぞ」
死んでいる場合じゃない。守らなくてはならないものがこんなにも傍に溢れて、あろうことかこんな自分を慕って囲んでいるのだ。
空を見上げた。日が昇って間もない空は鋭くではなくじんわりと目に染みる。湿った冷たい空気が合間ってなおのこと。
胸に居座るがらんとした隙間も今だけのもの。全てはここへまた帰る為。
自身を納得させたレグルスは一歩を踏み出した。
背中から広がる因縁の闇を空へと突き上げながら。