15.クー・シー〜Koo She〜
乳歯は虫歯になりやすいと前にメイサから聞いていた。甘いものでも与えてやりたいところだがおそらくはもう歯磨きを済ませた後だ。
レグルスは入れたばかりの白湯に息を吹きかけて冷ましてやる。小さな彼は不満げに唇を尖らせる。思った通りの反応だ。
「ホットココアがいいよぉ〜」
「甘いもんなんか飲んだらお前すぐ寝ちまうだろ。」
手に伝わる熱が程よく感じられたところで手渡した。硬い毛で覆われた大きめな手がそれをしぶしぶと受け取った。
怯えるようにゆっくり口元へ運ぶ彼は非常に猫舌だ。炎属性の魔力を持っていてもそこは関係ないのだと似た能力を持つレグルスも自覚していた。
「なぁ、クー・シー。お前そんなんで大丈夫か?」
レグルスは苦笑しながら言う。眼下の頭がこくりと頷く。いじらしい仕草が却って心配だと思った。
明日からしばらくこの王宮を離れるというのに、こいつは一人で眠れるのか。また悪夢にうなされてこんなになるまで泣いたりするのだろうか、と。
しばらく見下ろしていると小さな彼が何か気が付いたように顔を上げた。大丈夫だよっ! なんてムキになって言ってくる。
よく言うよ、とレグルスは内心で笑った。
クー・シー。
レグルスは口を開いた。一つ、頼み事をしようと決めていた。
「桜庭伊津美に会ってやってくれないか?」
え、という呟きと共にキョトンとした顔が見上げる。円らな目がやがて伺うような上目遣いに変わった。
小さな彼がおずおずと問いかける。
「……その人、優しい?」
レグルスは少し考えた。
突き刺さるような視線が脳裏に蘇ると思わず苦々しい笑いを浮かべてしまう。不安げな顔で見上げる彼に、さあな、と容赦ない返答をした。
「俺は嫌われちまったみたいだけど、お前なら大丈夫だろ」
えーっ! と声が上がった。怯えたような顔。期待していた答えが得られなかったのだから無理もない。レグルスは続けて言った。
「メイサが付いてるんだからそんなに怖がるなよ。それに……」
彼女にだってきっと母性というものがある。お前なら……
そう思ったが口にはしなかった。何でもねぇ、と無理矢理締め括った。
子ども扱いすると怒るもんな、お前は。
そう内心で呟くと何だか可笑しく、そして切なく感じた。
クー・シーは8歳。今年の春で9歳になる竜魔族の子どもだ。
レグルスよりも少し明るい朱色の瞳、人の形をしいるが部分的に竜の特徴が現れていてゴワゴワとした若草色の毛や鋭い爪、湾曲した上向きの角を持っている。身体の割に大きな手足も目を引く。
この王宮にやってきたのは4歳の頃だった。
竜魔族は古からの強大な魔力を受け継ぐ数少ない種族。彼らはその力故に孤高の存在であり、ひっそりと身を隠すように人里離れた谷に集落を作って暮らしてきた。
それは人々に恐怖を与えない為、アストラルの生態系を崩さない為という彼らの配慮でもあったのだ。
クー・シーは集落の長である両親の間に生まれた末息子だった。魔力の兆しこそあれど目覚めてはいない、全てがこれからであるはずだった。あの悪夢が訪れるまでは。
ある日、何の予告もなくやってきた見慣れない黒服の集団と共に両親は何処かに消えて、そのまま戻ることはなかった。代わりに血相を変えた仲間の一人がクー・シーたちの元へ駆け込んできて叫んだ。
――長と夫人が討たれた!――
幼いクー・シーにきっとその言葉の意味はわからなかっただろう。感じることができたとするなら尋常じゃなく張り詰めたただならぬ空気くらいだろうか。
やがて木々が薙ぎ倒され、光や炎、悲鳴が飛び交う中、彼を最後まで守ったのは一番歳の近い兄だったという。
大人たちのように飛んだこともない二人。無情にも黒服の数人に囲まれて逃げ場を失ったところで兄が叫んだそうだ。
――飛べ! クー・シー!!――
きっと自らも少年と呼ばれる齢だった兄。一体どれ程の恐怖とそして覚悟の元でそれを口にしたのかと思うと胸が詰まるように痛む。
――お前ならできるはずだ、行け!!――
その言葉を耳にしたのが最後、どのようにして切り抜けたのか、残った兄がどうなってしまったのか、クー・シーは全く覚えていないという。
だけど全て忘れるなんて都合のいいことまでは起こらなかった。
それから数日が経った頃、レグルスは一心不乱に木の実や虫を貪るドロドロに汚れた彼をやっと見つけた。
痩せた身体、尖った耳、蝙蝠の翼、それは逆光で影となってクー・シーの目に映った。容赦なく。
見開かれた目がみるみる血走った。
激しい憎悪、そして恐怖に侵食されていくように。
雄叫びを上げ、鋭い爪に腕を引き裂かれる前にレグルスは全てを察した。抵抗することなんてできなくてただ力強く抱き締めた。
――ごめん――
背中に食い込む痛みに耐えながら言った。
――ごめん、な。本当に……ごめん――
腕に力を込めると、もがいていた小さな身体から力が抜けていった。
規則正しい息遣いが聞こえた。レグルスは膝の上へ視線を落とした。
身体を丸めたクー・シーが眠っている。安らかな顔で。
レグルスはふっ、と静かな息を漏らした。起こさないようにゆっくりと抱きかかえてベッドの上に横たえた。
電気を消して自らもそこへ潜り込む。ひんやりと冷えた布団の中で後ろからそっと包んでやった。
すっかり明るく年相応になったように見える。まだいくらも傷のついていないまっさらな心であるかのように。
だけど現実はこの通りだ。こんな夜を何度も迎えていることを知っている。彼の悪夢はまだ終わってなどいないと、知っている。
レグルスは硬い頭髪に顎を押し当てた。腕に少し力がこもった。
「終わらせるからな、必ず」
寝息を立てる小さな命へ、この安らぎがいつか永遠になるように変えてみせると決意を込めて囁いた。