12.メイサ〜Meissa〜
相変わらず音のない部屋で横たわるのにも疲れた伊津美はむくりと身体を起こした。
窓が藍色に染まっている。結露がまるですすり泣いているかのよう。あの夜に似ている気がした。優輝の声を追って寒空の下へ飛び出したあの夜に。
伊津美は肩を抱いた。パジャマの生地を強く握り締めた。そのとき部屋の隅で引き戸が鳴いた。
「起きてたんだ?」
どお、気分は、と声が続く。伊津美は窓を眺めたままそちらを見ようとはしない。
まだ記憶に新しい声。メイサという女の声だとわかった。顔を向ける必要性は感じられない。
自分を取り巻く状況が未だ変わらないという現実があるだけだ。はぁ、とため息を落として伊津美はやっと答えた。
「最悪よ」
そうまさにその一言に尽きる。
もう一度目覚めたら自室のベッドに居る……なんて展開を期待してみたけれど、実際は眠ることさえ叶わない。
体力と精神力ばかりが奪われる、何の進展もない無意味で長い時間。他にどんな言葉で例えることができようか。
あっそう。
素っ気ない声。近付く気配に気付いて伊津美は振り向く。反射的だった。
誰にでもパーソナルスペースというものがある。そこへ入り込まれる予感がすればどんなに興味のない相手と言えど無視はできない。
嫌な予感は的中した。メイサがベッドの端、触れる寸前の場所にどかっと腰を下ろしたのだ。腰が不安定に沈み込む。伊津美は思わず身を引いた。
ところでさぁ、
にんまりとした笑みを浮かべた彼女が覗き込んで言う。
「アンタの探してる男って、やっぱ彼氏?」
ゴシップに食いつくようなランランとした目つきが癇に障る。伊津美は異様なものを見るような目で彼女を見返した。
「……えらく態度が変わったわね」
「まぁこれが私のありのままってやつ?」
メイサは白い歯を見せつけて隙間からニシシ、と言う。伊津美は空いた口が塞がらない。
初対面のときから女性らしからぬ口調だとは思っていたけどまさかここまで厚かましく空気の読めない女だったとは……
「どうよ、こういうキャラは?」
小さく首を傾げて彼女が言う。
「不愉快だわ」
伊津美は冷たく一括する。
はは……という笑い声が起こった。キツイ女、と彼女は呟いた。何が可笑しいのだと呆れずにはいられなかった。
もうこれ以上ただの一言も交わしたくはないのに、あろうことか彼女は笑みを崩さない。でもさ、と続きを口にし始めた。
「レグルスのことは大目に見てやってよ。助けてくれたってのはさすがにわかるだろ?」
――レグルス。
その名を耳にした伊津美は固く口を閉ざす。しばらく膝に視線を落とした。それから言った。
「あの人が私を助けた目的がわからないわ」
目的?
メイサが不思議そうな顔をして聞き返す。伊津美は顔を上げた。まだわかっていないような彼女を睨むように見た。
「そうよ、私には何もかもがわからない。あの人が来なかったらどうなっていたのかもわからない。対立している組織があるのはわかったけど、そもそもどちらが悪者なのか私は知らない」
膝の上で強く拳を握る。点滴のチューブが引っ張られてぶら下がる薬剤の袋が揺れる。
「私を連れ去るというのは双方に何かしらの利益があるということでしょう?いずれにしても今の私にその利益云々は理解できないし迷惑でしかない。許すとかいう以前の問題じゃないかしら?」
厳しい視線と口調を受けた為か、ついさっきまでヘラヘラしていたメイサが真顔で頷いている。なるほど……彼女は一人で考え込むようにうつむいた。それからまた顔を上げた。真剣な眼差しで。
「これが理系女子の解釈か。勉強になるわ~」
飄々とした態度で言ってのける。あなた、と伊津美はため息混じりに声を上げた。自然と目つきが鋭く尖った。
「私を馬鹿にしているの?」
思わず語気が強くなる。だけどすぐに馬鹿馬鹿しくなって顔をそむけた。話の噛み合わない相手といくら話したって埒が明かないと。
そのときそむけた頭の後ろから声がした。相変わらず腹立たしい程に落ち着いた口調だった。
「どっちが悪者かと聞かれたら、私はあっちだと答えるね」
「それはあなたの主観でしょ」
――そうだよ。
メイサはしれっと返す。伊津美は横目だけで彼女を見る。彼女は言った。
「私はこっち側の人間だからそういう答えになるのは必然だろ」
何言ってんだ、とメイサは最後に付け足す。自信に満ちたような笑顔に不覚にも目を奪われた。
とりあえず理屈っぽい者同士が話すとこうなるのかと学んだ。
伊津美は気まずく感じて視線を落とす。しばらく後、それに、と切り出した。
「あの人には信用に足らない点があるわ」
ふーん、とメイサが興味深げに目を見開く。どんな?と彼女は問いかけてくる。
伊津美はあの言葉を思い出した。深夜の公園、到底受け入れられない事態の中で耳にしたあの言葉を。
「優輝の声をした人、あの人を見て最初に【若】って言ったの。それに……」
――罪人、とも言ったわ――
伊津美は険しい表情をうつむかせる。最後の一言は飲み込んでしまった。口にするにはあまりにも重い響きに感じられた。
ああ、とメイサが合点のいったような声を上げた。困ったような顔の彼女が言った。
「実は繋がりがあるんじゃないかって? 誰かと間違えたんでしょ」
似たような奴がいるからね、と彼女は笑い飛ばす。力の入らない口元は半開きのまま、伊津美は納得を覚えていく。
自分のしていることがなんだか可笑しくなって鼻で笑った。よくわかった。
彼女に何を言っても無駄。だってあの人を完全に信頼しているのだから。
生きる世界も信じるものもきっと全てが異なっている。気持ちをわかってもらおうなどどうしてできようか。
もうやめよう。この場所で期待することなんて、何もない。
心の扉を閉ざすみたいに伊津美は布団を引き寄せて身体に巻いた。その近くでメイサが何処かへ視線を向けながらうーん、と独り言のように唸る。
「その男がレグルスに何を言ったか知らないけどさぁ……」
彼女はポリポリと頭を掻いている。女性らしからぬなんて甘かった。もはや看護師としてもどうかと思われる態度だ。
彼女は言った。平然とした悪びれない顔をして。
「じゃあアンタ、正義って何だと思う?」
え、と思わず呟いた伊津美にメイサは顔を向けた。
「大多数が支持するものが正義……本当にそうかな? 大勢の中でたった一人が違うことを叫んでる。そのときはその一人こそが悪と見なされるけど、何十年、何百年と後になって大勢の意見が覆っていることって実際にあるよね。散々、犠牲を出した後でやっぱりあいつが正しかったってさ」
正しいって何だろうね。
彼女は言う。伊津美はただ言葉もなく静止していた。
この人って……
呆然と見つめられていることに気付いたメイサが我に返ったように表情を柔らかく崩した。彼女の飄々とした口ぶりが復活した。
「ともかくさ、自分らの正義に反する者を悪と見なすのは大多数が持っている当たり前の心理なんだよ。奴らはフィジカルを消して世界を創り直すことが最善だと思っている。こっちはどちらの世界も滅ぼさず共存できる道を目指してる。真逆のスタンスなんだ、そりゃあぶつかりもするって」
伊津美は目を見開いたまま全てを奪われるような感覚に堕ちた。感情移入よりも事実をシンプルに受け止めようとする彼女の姿勢に。
しばらくしてやっと口を開いた。我ながら思いがけない言葉だった。
「あなた、私と似ているかも」
「奇遇だな。私もそう思っていたところだぜ」
イキイキと返すメイサの顔は嬉しそうで、何故かちょっぴり得意気だ。不覚にも笑ってしまいそうになる。
「私はね、感情論とかそういうの苦手なんだよ」
彼女は言う。彼方を見るように視線を上向きにしながら。
ただ自分の信じるものは貫きたい。だから同じ考えを持ったレグルスを支えてやろうと思えるのだ、そう言った。
同じ考え……
伊津美は思い返した。レグルスという名のあの人の姿を。
確かにその理屈で言うなら私も……
そう思いかけたとき、何かに遮られたような気がした。分厚い壁が立ちはだかるような重苦しい感覚。
伊津美は胸焼けみたいな不快感に胸元を握った。そして実感した。
どんな理屈を並べられようと、おそらくは守られているのであろう状況がそこに存在しようと、何かが彼を否定している。心の奥底……いや、それよりも更に深いところで。
俗に言う “生理的に” と極めて似ているが違う気もする。例えようのない煮え切らない思いがある。
そしてその得体の知れない何かを知るのは、何故だかすごく恐ろしいことのように感じられておのずと肩を抱いて震えた。
寒いのか、と言ったメイサが優しい手つきで布団をかけ直してくれた。
初めて看護師らしい姿を見た。