9.アストラル〜Astral〜
“優輝じゃない”
確かにそう考えるのが普通だ。わかってはいるけれど……
それならあの声は?
人の声真似なんて簡単にできるものではないはずだし、そもそも真似で納得できるような完成度ではなかった。今でもはっきり覚えている。
「ねぇ、そいつ魔族?」
横からの一言に伊津美は眉をひそめる。耳を疑った。美咲似の自称・ナース、メイサという女が隣の彼の方を向いていた。
「いや、おそらく妖精族だろう」
銀髪の自称・親衛隊隊長、レグルスがごく自然な口調でそれに答える。伊津美はいよいよ眉間に深い皺を刻む。
(マゾク……)
(ヨウセイゾク……ですって……?)
脳内変換がスムーズに為されない。
やがて目の前の彼があっ、と小さく声を漏らした。伊津美の表情の変化に気付いたようだ。
「おい、メイサ! その話はまだ早いって」
「ああ、ワリ。でもどうせ話すんだろ?」
「そうだけど段階ってもんが……」
こそこそと小声で話す二人に向かって伊津美はちょっと待って! と声を張り上げた。
二人が振り向き引きつった顔で静止する。滾る怒りはもう抑えられない。
アンタたち……
自分でも思いがけない程、ドスの効いた声が喉の奥から沸き上がる。
「真面目に話す気、あるの?」
一体どんな目をしていたのだろう。
「ひぇぇ! 怖っ!!」
叫んだナースの彼女が細い彼の身体の後ろへ隠れた。盾にされた彼は明らかにうろたえている。相変わらずふざけているようにしか見えない二人の態度に伊津美は更に苛立ちを募らせる。
「漫画やゲームの話をしているんじゃないの。魔族だか妖精だか知らないけど、そんなの今の状況に何も関係ないでしょ!?」
「すみません……」
気まずそうな声が返ってきた。伊津美はおさまらない憤りの中、やっと少し息を整えようと努める。
真摯な眼差しになった銀髪の彼。隆起した喉が勢いをつけるように動いた。そこから放たれた言葉は落ち着きを取り戻そうとしていた伊津美を一瞬のうちに後悔させた。
「それが極めて深い関わりがあるんです! むしろこの話を無くしてこの世界を語ることはできない!」
「まだそんなこと言ってるの!?」
再び激情の波に飲まれて声を荒立てた。世界って何? と伊津美は彼を問い詰める。
しかし彼の態度は至って落ち着いていた。血の気の無いその唇が再び開いた。
――アストラル。
「え?」
伊津美は思わず聞き返す。
低いトーンで彼は語り出す。何処かたどたどしくも淡々と続けるその口調はある種の開き直りのようだった。
「この世界の名前……“アストラル”といいます。伊津美さんの住む世界はフィジカル、別名『物質世界』。アストラルには物質、つまり肉体が存在しません。いわば幽体の世界なんです。」
「何……言ってるの?」
唖然とした伊津美が呟く。
「そんなこと、信じられる訳が……」
「お……私のこの姿では説得力ありませんか?」
彼が言った。その直後、バサッという音が鳴り響く。背中から広がった大きな黒い物体が影を落とす。伊津美は目を見開き瞬きすら忘れた。
夜の公園で目にしたもの。夢だと信じようとしていたあの翼だった。伊津美は喉を鳴らし後ろに身を引いてしまう。
確かに見た。あのときに。透明感のある銀の頭髪やルビーをはめ込んだような真紅の目ならば、昨今の技術でいくらでも為し得るだろう。しかし実際に宙を舞うのに用いられたそればかりは説明がつかない。
だけどあり得ないものはやはりあり得ないのだ。まだ自分の知らない何らかの技術が用いられたのでは、などと考えずにはいられない。
その一方でこの不可思議な現象を受け入れなければならない予感を伊津美は感じつつあった。
「すぐに信じろとは申しません」
まるで複雑な心中を読み取ったかのように彼が言う。伊津美は力ない息を漏らし額を押さえた。それから言った。
「それが本当なら私はもう死んでいるということかしら?」
彼が白い顔を小さく横に振る。
「伊津美さんの肉体は一時的に天界へ返還されています。帰れるときがきたらもちろん肉体はお返ししますが……」
――いいえ。
彼の言葉を遮って今度は伊津美がかぶりを振る。
「今すぐ返してちょうだい。私は優輝を探さなくちゃいけないの」
レグルスの顔が困惑に染まった。睨むような鋭い視線を送る伊津美にためらいを見せつつもこう告げてきた。
「……今はできません。危険すぎます。あなたはまた同じように狙われる」
それに、と彼は続ける。
「ユウキさんもこの世界にいる可能性が高いのです」
伊津美は目を見開いた。引いていた身体が自然と前へと進み出る。
「じゃあやっぱりあの人は……!」
掴みかかる勢いで前のめりになり、彼を見上げた。日常が壊れたあの日以来ずっと求めていた手がかりがすぐ近くにあるかも知れない。そう思うと衝動を抑えられるわけもなかった。
しかし迫られてなお彼は落ち着いた姿勢を崩そうとはしない。そればかりか更に重々しい言葉が返ってくる。
「マラカイトというあの男に関することはまだわかりません。ただ、ユウキさんの関係者であるあなたを彼の声で誘い出そうとする動き……おそらく彼の失踪は無関係ではないでしょう」
一通り聞き終えたとき背筋が凍った。小刻みな震えが全身に伝わっていく。
考えたくもないくらい恐ろしい、すごく恐ろしい可能性が脳裏をよぎったのだ。伊津美は震える唇を開いた。
「優輝はその組織に……さらわれた?」
「……可能性はあります」
(そんな……)
伊津美の身体からがくんと力が抜けた。
膝の前に着いた両手がシーツに沈み込み、更にその上へ生暖かい雫がポタポタと落ちる。
優輝……さらわれていたなんて。
ただでさえ怖い思いをしただろうに、もしかしたら身体に何らかの手を加えられて……
まさかあんな原型すらわからないような姿に?
いや、と伊津美は浮かんだその可能性に内心で否定を示す。
例え姿を変えられてしまったとしても優輝から離れるようなことはしない。彼であることに変わりがないのなら今すぐにでも取り戻したい。この手で抱き締めたいのに。
(私には……何も出来ないというの?)
こうべを垂れたまま動けずにいると、温かい手の感触を背中に感じた。
「伊津美ちゃん……」
哀れむような声。親友に似たナースが背中をさすっていた。
「何でそんな組織が存在するの? 何故、優輝や私を狙うの? ねぇ……」
伊津美は片手で涙を拭った。濡れた顔に張り付いたサイドの髪がぐしゃぐしゃになる。
「私たちが何をしたっていうの?」
視界も定まらないまま問いかけた。またあの低く落ち着いた口調が返ってきた。
「奴ら、ルナティック・ヘブンは、フィジカルを消してアストラルを乗っ取ろうとしています。これはその陰謀を成し遂げる戦力を集めるための動きなのです」
「私たちが戦力に……?」
はい、と彼が頷く。
「フィジカルに生きている人々はそのほとんどがかつてアストラルに生きていた人々。アストラルはその逆です」
ぼんやりとした意識の中で羅列される言葉はうまく吸収できそうにない。もう反論する気さえ起こらない。現実味の持てない解説は容赦なく続いていく。
「我々はフィジカルとアストラルとを交互に転生しているのです。世界は違ってもそれぞれ同じように生きている。ただ決定的に違うのは、人間以外の種族の存在と“記憶”です」
ちらりと見上げてみると、心なしかばつの悪そうなレグルスの顔が見えた。その意味はわからなかった。彼はなおも続けている。
「アストラルには人間と動物の他に二つの種族が存在します。それが……魔族と妖精族」
そうそう、と声が割って入る。ナースのメイサだった。
「私は人間でレグルスは魔族なんだよ」
――魔族……
無意識に呟いていたことに伊津美は気付かない。
ただ何とも例えようのない胸さわぎと頭の奥の痛みが襲い始めたのだ。魔族。そう耳にした瞬間から。
「ん? 何だよレグルス」
「いや、何でもない」
二人が何やら小さな会話を交わしている。その間も伊津美の頭には不快な脈打ちと痛みが続く。レグルスという男の声でまた解説が始まった。
通常、フィジカルの人間にアストラルにいたときの記憶は無いが、アストラルの者はフィジカルの記憶を持っている。それは大体15歳前後までに徐々に取り戻していく。
フィジカルの人間の中にも魔族、妖精族の前世を持つ者がいて、例の組織はそれを狙っていると彼は言う。
「まさか私や優輝がそうだというの?」
伊津美が問いかけてみると彼は頷いた。狙われたということはおそらくそうである、と。
「特に強い力を持っていた魔族、妖精族はフィジカルに生まれ変わってもなおその波長を残しています。奴らはその波長から戦力とする人間を選んでいる。実際、フィジカルの世界各国ではここ1ヶ月の間で行方不明者が大幅に増えているんです」
そう言われてもいまいち実感は沸かない。日本国内ではあまり例がないのかも知れないし、大きく報じられていないだけかも知れない。そう考えるなら彼の言うことも筋が通ってしまうのだろうが。
「フィジカルの人間がアストラルへ渡ると変化が起こるんです。それは……」
「もういいわ」
彼の言葉を聞き終える前に伊津美はぽつりと呟いた。
聞き慣れない単語が羅列された解説も治まらない頭の痛みも、受け止めるのはもう限界だった。伊津美は言った。感情すら忘れたその声で。
「出て行ってくれる? 一人になりたいの」
辺りにはしばらく沈黙が居座った。やがてふっと女のものとわかるため息が聞こえた。
「しょうがないよ、レグルス。あとは私に任せて……」
「あなたもよ」
きっぱりと言い放つとメイサが黒い瞳を丸出しにして、ええ! と大袈裟な声を上げる。何とか出来ると思っていたのかと呆れるしかない。
ちょっと……と彼女はうろたえながらも、腰に手を当て伊津美の覗き込んでくる。
「私、看護師なんですけど!」
「出て行って」
伊津美は変わらぬ口調で再び命じた。同時に彼女を正面から見上げる。よほど怖い目でもしていたのだろうか、顔を強張らせて震え上がる彼女が視界に映った。
それからは一言たりともかけられることはなかった。遠ざかる気配。閉ざされていく引き戸の乾いた音が最後に残った。
一人きりになった空間。
自身の中で鳴り響く音以外は全てが声を殺すように潜んでいる。
ふと視線を落とした伊津美は、いつの間にか自分が固い握り拳を作っていることに気が付いた。
右へ目をやると窓があった。磨りガラスでできているそれは外の景色を見せてはくれない。別の世界だと言われたってわかるわけもない。ただ唯一赤みを帯びた色が夕方であることを示していた。
「魔族……」
じんわりと滲む赤色を見つめながら伊津美はもう一度、痛みの元凶と思えるその名称を口にした。