8.冷感〜Cool feeling〜
声だけが響いている。
優輝のものだとわかるそれは何処から発せられているのかわからない。見回しても駆け回っても暗闇ばかりだ。
両手を泳がせながら伊津美は彷徨う。その指先が何かに触れた。少し硬い筋肉の感触。
優輝……!
呼ぶとスポットライトのように光が降りた。照らされた彼が振り返る。
緑の髪。黄色の目が恐ろしく冷たい。立ちすくむ伊津美の首に彼は鎖をかけた。
――ずっと一緒だよ、伊津美――
彼が甘い声色で囁く。表情は変わらないまま、勢いよく鎖を引いた。
息が詰まり朦朧とする中、伊津美はそれでも彼を求めて手を伸ばした。
墜ちていくというの? 私だけ……
一人にしないで……!!
縋る指が彼に触れて爪を立てたとき、息苦しさが途切れた。
うっすらと瞼を開けると白い天井が視界を埋めた。
こんな光景は何処にでも存在する。病院だって、学校の保健室だってこんな色でこんな質感だ。
伊津美は仰向けのまま首を傾けた。身体には布団がかかっている。それなりに柔らかいが羽毛布団のような寝心地の良さではない。ついでに言うなら枕も硬い。
殺風景な部屋、白い壁、瓶がたくさん納められた戸棚に薬品の匂い。とにかく全体的に白い。なるほど、と伊津美は理解していく。
ここは病院で間違いないだろう。一体何の経緯があってここに居るのかはわからないが。
ともかく目覚めていることを誰かに伝えねば。家族に連絡はいっているのだろうか……そんなことを考えつつ伊津美は上体を起こした。後頭部が少し重く痛むが外傷は見当たらない。事故という訳ではなさそうだ。
腕は点滴に繋がれている。栄養剤だろうか。この頃ろくに食事もとっていなかった。心身共に追い詰められてついに幻聴を聞いて、幻覚を見て、何処ぞで倒れた……そんなところだろう。
未だ脳裏に焼き付いているあの公園での光景を思い出す。
(そうだわ、あれもきっと夢……)
そのときガラッと勢いのよい音が響いた。伊津美はそちらに目をやる。
開いた引き戸から歩いてくるのはナース服を身に纏ったあからさまに看護師と思われる女性。
近付いてくる彼女の顔をはっきりと捉えたとき伊津美は思わず、あっ、と声を漏らした。彼女も目を見張り同じような声を上げた。すぐに身をひるがえした彼女が叫んだ。
「レグルスー! 彼女起きたぞ!」
「あっ、待って!」
ナース服の彼女は慌てて呼び止める伊津美に気付かず部屋を出て行ってしまった。残された伊津美の胸は絶えずざわついている。たった今、目にした姿に覚えがあった。
(今のは……美咲?)
(それに、レグルスってあの……)
押し寄せる不穏な高鳴りに伊津美は震える。複数の足音が近付いてくる。再び引き戸が開いた。身体がドク、と脈打った。
歩いて来たのはナース服の彼女、そしてまだ記憶に新しいあの人。黒の翼は見当たらないが、確かに夜の公園で目にしたのと同じ顔をしたレグルスと呼ばれる男だった。
「美咲……っ」
覚えのある名を思わず呼んだ。その先に居る彼女がえっ、と小さく声を上げた。驚いた顔。期待していたものと違う反応に伊津美は言葉を失う。もう一度、彼女を見据えた。
(美咲じゃ……ない?)
最初は気付かなかったが、よく見るとわずかに違っている点があった。
美咲がショートヘアなのに対して彼女のそれはかなり長さがあるらしく、ナースキャップの後ろでおだんご形にまとめられている。前髪の形はいわゆる“ぱっつん”。これも美咲とは違う。背も少し高くメリハリの感じられるシルエット、顔もわずかばかり年上に見える。それに声のトーンも。
数年後の彼女だと言われれば疑いもしないのだろうが、そもそも数年後の姿を見る機会などあるはずもない。
「あの〜……」
美咲似の彼女が怪訝な顔をしていた。彼女は言った。
「私がどうかした? ミサキって誰?」
(やっぱり違うんだ)
伊津美は呆然と見上げ、言葉を失くす。その顔にどうしようもなく込み上げる絶望が浮かんだ。
何か悟られたのだろうか、目の前の彼女が少し言いづらそうに切り出した。
「私はメイサだよ。ここの専属看護師」
気を遣っているように眉を下げて笑う。伊津美はただ不思議な光景に見入るばかり。
メイサと名乗った彼女の瞳がちら、と横へ動いた。斜め後ろに突っ立っている彼を捉えるなり、たった今笑っていた顔が瞬時に眼光鋭い真顔になる。
「ほら、レグルスも!!」
きつく叱咤された彼の肩が一瞬、びくと跳ね上がった。長い脚がためらいがちに前へ進み、看護師の彼女の横で止まる。固く強張った表情を貼り付けた彼がついに口を開く。
「レグルス・グラディウス・ガルシアです。王室親衛隊隊長を務めております」
伊津美はぴくりと眉を上げた。
レグルスという男の口調は最初に耳にした無骨なものとはまるで異なっている。しかしそれ以上に引っかかることがあった。当然ながら名乗りの後に続いたあの言葉だ。
聞きたいことは二つに絞られた。伊津美は恐る恐る切り出した。
「聞いていい?」
不気味な程に美しい、人形のような彼を見上げて問う。
「ここは何処? それから、さっきの緑の髪の人は誰?」
立ち尽くす彼が視線を下に落とす。唇を奥に引き込んでいる。銀の髪がはらりと顔にかかった。それは最初に見たときと流れ方が違うようだった。
「手短な方からお答えします」
レグルスという男は固い表情のまま話し始めた。
「まずさっきの男は俺……私も初めて顔を合わせました。あなたは“ユウキ”と呼んでいましたが……?」
「優輝と同じ声をしていたの」
伊津美が言うと小さくそうですか、と返ってくる。困惑しているのがわかる。しばらく考えたような表情の後、彼はまた続けた。
「その方とあの男の関係はわかりませんが、出処ははっきりしています。あの男……マラカイトは 『ルナティック・ヘブン』という組織の一人。我々にとっての敵、そしてあなたを連れ去ろうと狙っています」
伊津美は自分の置かれている状況を改めて見つめた。
医療従事者を名乗る者が居るものの、ここはきっと病院などではない。自分の知らない何処か。その答えに行き着くなり伊津美は彼を強く睨んだ。
「連れ去ったのはあなたの方ではないの?」
冷たい声色でそう問いかける。彼の喉がごくりと動いた。躊躇する様子を見せつつ再び話し始める。
「そうするしかなかったんです。さもなくばあなたが……」
「優輝がそんなことする訳ないわ!」
煮えたぎる感情がついに溢れて、気が付くと怒鳴り声を上げていた。そうよ、と伊津美は胸の内で呟く。
何だか知らないけど、そんな訳のわからない組織に入って私を狙ったりあんな滅茶苦茶な攻撃を仕掛けてくるなんて、ありえない。優輝に限ってそんなこと。
「落ち着いて下さい」
レグルスのうろたえたような声がした。落ち着くも何も……この状況でよくもそんなことをと言い返したくなる。
「少なくとも奴……あの男はあなたが知るユウキさんではない。声を使い分けている可能性だってあります」
「意味がわかりません」
レグルスが必死の説得がなだめようとするも、憤りの熱に支配された伊津美はすでに肩で息を切らしていた。