第四十三話 怒りの日(1)
其は始まりと終わりの刻に現れる。
愚者は神の名を口にし、神の教えを語る。己が神を誇り、他者の神を貶める。
されど忘るることなかれ。神は人の為に在るのではあらず。人の語る神は悉く神に在らざり。
神を畏れよ。
何故なら、神が我等の前に再び姿を現す刻があるとするならば。
其は終わりの刻に他ならぬのだから。
「・・・え?」
少女は驚きに目を見開いた。
彼女の視線の先には、砕かれた一本の刀があった。彼女が悪魔憑きと戦うために振るってきた、彼女の相棒であった刀だ。
それがあっさりと失われた。
少女の・・・アヤメの前に現れた一人の子供が、無造作に刀を手に取り、床に叩きつけて砕いたのだ。
自分の相棒が失われた喪失感と、相棒を奪った相手への怒りに、彼女は目の眩むような思いがした。
だが、何度も悪魔憑きとの修羅場を乗り越えてきた鍛えられた精神が、自分の中に蟠る思いを押し殺し、冷静な状況判断を促した。
悪魔憑き。
目の前の子供が、これまで彼女が倒してきた悪魔憑き達と同じ存在である事を彼女は理解した。
彼女は自分の刀の持つ力をよく知っていた。
あの刀がああも容易く砕ける筈がない。
それに、子供が刀を手にした瞬間、刀から凄まじい力が溢れ出ていた。ただの人間が、あの力を受けて平然とした顔をしていられる筈がない。
そして、今このタイミングで現れた以上、それが偶然な筈がない。
敵はハカセ・・・ずっと仲間だと信じていたあの男だけではなかったのか。
彼女は心の中で呻き、新たに現れた悪魔憑きを睨み付けた。
だが、悪魔憑きは彼女の視線など気にも止めなかった。
どこか困ったような顔で、未だ独白を続けるハカセの方をボンヤリと見ている。
と、そこでハカセが悪魔憑きに気が付いた。
「? 誰だね、君は?」
ハカセが不思議そうに訊ね、アヤメは目を見張った。
彼女の心の中に疑問が浮かぶ。
ハカセと無関係な悪魔憑きが、何故こんな所にいるのだろう?
ハカセはいつの間にか部屋の中にいた子供を見て首を傾げた。
おそらく中学生くらいだろうが、全く見覚えのない子供だ。その容姿は特徴と呼べるものがなく、強いて言えば、幼さ故の中性的な雰囲気で、男か女かよく分からないのが特徴だろうか。
だが、唯の子供がこんな所にいる筈がない。
ちらりとアヤメの様子を見たが、彼女も酷く困惑しているようだった。おそらく、彼女も知らない相手なのだろう。単に覚えていない可能性もあるが。
彼は彼女が悪魔憑きと関わりが無いと判断した相手には、全く興味を示さない事を知っていた。
もっとも、ここにいる時点で、悪魔憑きと関わりがない可能性などありえないのだが。
「? 誰だね、君は?」
彼は訊ねたが、子供は何も答えなかった。どこか困ったような顔で彼を眺めている。
死にかけた少女の傍らで。
彼女に何の関心も示さず。
少女から流れ出た血溜まりが広がり、子供の靴を汚している。それに気付いた子供は嫌そうな顔をして床に靴を擦りつけて、血糊を拭った。
子供にとっては、目の前に死にそうな少女がいるという事実よりも、汚れた自分の靴の方に関心があるようだ。
まともな精神をしていない事は疑いようがない。
もっとも、狂った彼からまともな精神をしていないと評されるのか、その子供にとっても不本意かもしれないが。
「ふむ。君も悪魔憑き・・・という事か」
子供が悪魔憑きである事を確信した彼は、注意深く観察する。
何の脈略もなく現れた新たな悪魔憑きに対し、どう対応するべきか。悪魔憑きの個体差は極めて大きい。未確認の悪魔憑きは貴重なサンプルだ。できることなら捕獲したい。
言いくるめて手駒にするという手もあるが、予備知識のない相手を取り込むのもリスクが大きい。
何の目的で、どんな経緯でここに現れたのか。一体何が目的なのか。偶然などあり得ない。間違いなく、彼の把握できていない何かがあって行動している。
ただ、異能が発現していた場合、捕獲を試みるのも危険だった。特にどんな異能か分からない状態では、思いがけない所で足下を掬われかねない。
まあ、捕獲できたら運が良いと考えよう。
彼はそう結論付けた。
そして、まだ靴の汚れを気にしている悪魔憑きに無造作に歩み寄る。
「うぇっ!?」
目の前に立つ彼を見て、悪魔憑きは驚いた様子で奇妙な声をあげて仰け反る。
それはどこにでもいる子供のように見えた。
血の臭いと悪魔の異様な気配が充満した、この異常な空間の中で、この悪魔憑きだけが平凡な反応をしていた。
異常な状況で正常である事。それはつまり、異常だという事だ。
彼はその外見に惑わされず、手刀を振りあげると、悪魔憑きの心臓めがけて振り降ろした。
だが・・・
「あ、れ・・・? ガフッ、何・・・で?」
手刀は悪魔憑きに触れる直前で静止していた。
否、静止させられていた。
彼の心臓を貫く、真っ黒な腕によって。
闇よりも暗い真っ黒な腕。指先から伸びる鋭利な鉤爪。
人のものではあり得なかった。
紛れもない、悪魔の腕。
呆然と振り返った彼の目の前に、悪魔の顔があった。
人の頭部に似た、真っ黒な頭。
しかし、その顔には耳も鼻もない。
顔の右半面には縦に三つの瞳が。
顔の左半面には縦に四つの瞳が。
嘲笑するように歪んで伸びた、朱色の線のような口。
「・・・馬鹿な」
彼は驚愕した。
いわゆる憑依型の悪魔は悪魔憑きたる人間の器の中に宿り、その姿を直接人前に現す事はない。
直接人前に姿を現すのは自立型の悪魔だ。
だが、肉の器を持たない自立型の悪魔は物理的に外部に影響を及ぼすことを不得手としている。
こんな風に人間に直接危害を加える事のできる悪魔など、彼の知る限りいなかった。
混乱して周囲に視線をさまよわせた彼は、ある物に気が付いた。
床に転がる、砕かれた一本の刀に。
「貴様、まさか喰ったのか!? あの刀に宿る悪魔を!」
彼の知る限り、最も強大な力を持ち、最も異質な悪魔。
妖刀"葵切り"。
妄執にとらわれた一人の刀鍛冶が生み出した、おそらくこの世にたった一つしか存在しない、人以外の存在を宿主とした悪魔。
使い手を浸食し、自分と異質の大罪の悪魔憑きが手にすれば、その悪魔を喰らってしまう最悪の悪魔。
その妖刀が砕けている。
それはつまり、妖刀が使い手の悪魔を喰らう事ができずに逆に喰われてしまったという事であり、この悪魔憑きの宿す悪魔が妖刀よりも強大な力を持っているという事だ。
妖刀をも超える力を持った悪魔が、妖刀の力をも取り込んだのだとしたら・・・
その力は彼の想像の埒外にあった。
「!?」
そして彼は感じた。自分の悪魔の力が、この最悪の悪魔に喰われていっている事を。
「や、やめろっ!」
自分という存在が消えていく感覚に、彼は恐怖に囚われて叫んだ。
彼は悪魔憑きとして、既に引き返せない領域にまで足を踏み入れていた。悪魔を喰われてしまえば、彼もまた消えてしまうだろう。
だが、悪魔憑きはもう、彼の事を気に止めていなかった。彼の存在を忘れたように、足下の少女と部屋の一角にあるベッドを見比べて首を捻っている。
「ひぃぃぃぃぃっ!」
自分の声はもう届かない。
それを理解した彼は、絶望に囚われながら自分を喰らう悪魔から逃れようと必死に体を捩った。
視界の隅に、彼を嘲笑する悪魔の七つの瞳が映る。
七つの大罪。
七つのラッパ。
七人の御使い。
七つの封印。
七つの頭の獣。
黙示録の子羊。
旧き神の眼。
彼はようやく理解した。
目の前にある不条理を。
理不尽な終わり刻を。
単なる影に過ぎなくとも、終末の一端に触れてしまった以上、滅びからは逃れられない。
ハカセと呼ばれた男は崩れていく自分の指先をなす術もなく見つめながら、今は亡き親友を想う。
親友の夢を叶えたかった。
親友の望んだ輝ける未来を築きたかった。
親友を踏みにじった、この世界を変えたかった。
彼は誰よりも親友を想い、その想いに囚われたが故に気付けなかった。
親友は人々の幸せを望んでいた。
しかし、彼は親友しか見ておらず、それ以外の人々に目を向けていなかった。
人々の幸せは親友の望みであって、彼の望みではなかった。
だからだろう。
人々の輝ける未来をうたいながら、人々を犠牲にする矛盾。
その矛盾に、最期まで気付けなかったのは。
ハカセと呼ばれた哀れな悪魔憑きは、何一つ残さず塵となって消えた。
アヤメは呆然として、塵となって消えていくハカセを見送っていた。
ハカセが消えると、その背後に立っていた悪魔が、その背にあった翼を大きく広げる。その翼が何枚あるのかは数えられなかったが、その翼は部屋全体を覆った。
あっという間に、全てが蹂躙されていく。
唐突に。
理不尽に。
不条理に。
全てを最後の悪魔が呑み込む。
最早、体を動かす力も、声を出す力も残っていなかった彼女はただこれから何が起きるのかを見届ける事しかできなかった。
そして気付く。
自分の体から、悪魔の力が急激に失われている事に。
それと共に、悪魔の力を借りてようやく保っていた意識が薄れていく。
せめて最後まで見届けたい!
そんな彼女の想いを余所に、彼女の意識は闇に呑まれていった。
何が起きたのか、あの悪魔憑きが何者なのか。
結局、何一つ理解する事が許されぬままに。
残ったのは唯一人。
「ふあぁぁぁぁ・・・」
最後の悪魔憑きが暢気に欠伸をした。
冒頭は、最初の一文は黙示録ですが(厳密には、「始まりにして終わりである」です)、それ以降は世界設定です。
ユダヤ教の神は七つの目で世界を見通すといいます。でも、フリーメーソンのヤハウェの瞳は、一つ目です。ここら辺はどういう事なのかよく知りません。
以下、長文なうえ、ただの設定なので、無視してOKです。
主人公の大罪は題名から明らかなので、他の人達を・・・
第2章の悪魔の大罪は「怠惰」です。イジメを解決するのにもっと良い方法があったかもしれないのに、昔はそれで上手くいったからという理由で同じ事を繰り返そうとしたのを怠惰の大罪と解釈しています。
第3章の悪魔の大罪は「嫉妬」です。これは分かり易いかもしれませんが、自分が傷付いているからと、他人を傷付ける事を肯定するのも嫉妬の大罪と解釈しています。
第4章の悪魔の大罪は「大食」です。彼は自分のやっている事は無意味だと理解していました。それでも何もせずにはいられなかった為、暴走しています。彼は何かを成すまでは止まる事ができず、無意味な事をしているので何も成せません。だから彼は周りを巻き込んで暴走を続けていました。これを大食の大罪に含めています。
本章のハカセの大罪は「強欲」です。簡単に言えば、目的と手段が入れ替わっている事を強欲の大罪に含めています。上の第4章の人とある意味似ていますが、最大の違いは、自分のやっている事が無意味だと理解していない事です。