第二十九話 世界の外側(2)
逆は必ずしも真ならず。
法に触れる行いをする者は罰せられる。法に反する事は罪だからである。
逆に、法に触れぬ行いはだからといって、罪ではないとは言えない。
・・・しかし、刑法の上では、罪ではないのだ。
俺が実家に戻ってきた時には、彼女の葬儀はもう済んだ後だった。
世界が色を失い今自分が何処にいるのか分からなくなりそうだった。気付いた時には、俺は彼女の実家の仏壇の前にいた。
彼女の位牌と飾られた彼女の写真を見た瞬間、俺の視界が涙で歪み、堪えきれない嗚咽が喉からこぼれた。
何故、彼女が・・・
俺が彼女の傍に居れば、こんな事にはならなかったのではないだろうか。
そんな後悔に胸を焼かれるような思いがした。
彼女は自殺したとして処理されていた。
事実、彼女は駅のホームから電車の前に飛び降りて死んだ。目撃証言も多数あり、他殺と疑われる要因はない。
だが、実際には彼女は殺されたようなものだった。
目撃者の誰もが、こう語っていた。
彼女は大声で訳の分からないことを叫びながら、フラフラとホームから飛び降りたと。
それを聞いた時、その状況を見ていながら彼女を止めなかったのかと見も知らぬ目撃者に殺意が湧いた。
検死の結果、彼女の遺体からは大量の薬物が検出された。
薬物による錯乱。
それが彼女が飛び降りた原因だった。
俺は予想外の話に混乱した。彼女が錯乱を起こすような薬を必要とする病気にかかっているという話は聞いた事がなかったからだ。
自分の目で事件の調書を確かめたかったが、彼女の関係者という事で俺は事件から遠ざけられてしまっていた為、調書を読むことはできなかった。
だが、そもそも調査から関係者を遠ざけるという事は、遠ざけなければならない何かがあるという事だ。
俺は根気よく彼女の事件を担当した所轄に足を運び、とうとう担当者から話を聞くことができた。
そして、俺は彼女が死んだ本当の理由を知ることとなる。
ドラッグ。それが彼女を死に追いやった原因だった。
俺はそれを聞いて驚愕した。彼女が麻薬に手を出すなんて信じられなかった。それも、覚醒剤のようなよく出回っている麻薬ではない。
いわゆる脱法ドラッグと呼ばれるモノだ。
近年、化学合成により様々な化学物質が新たに生まれており、その中には、麻薬のような作用を有しているものもある。
そうした化学物質は法により規制されるべきものなのだが、化学物質の生理的作用の確認には時間がかかり、また、新規な化学物質が次々と生まれている所為で法の規制が追いついていないのが現状だ。
そこで、麻薬と同じ効果を有しながらまだ法の規制を受けていない化学物質を利用したドラッグが生まれていた。
そうしたドラッグは脱法ドラッグと呼ばれ、アンダーグレウンドで売買される。脱法という呼び名は犯罪を想起させるので顧客の罪悪感を和らげるため、合法ドラッグとか合法ハーブなどと呼ぶ連中もいる。
法の規制を受けていない化学物質を使用しているため、警察も直接的に取り締まる事のできない厄介なドラッグだ。
彼女が、その中毒患者だったというのだ。
俺には信じられなかった。
無論、それらを手に入れる方法が無いわけではないことは知っていた。
だが、自らそんなものに手を出すのは不良気取りの愚かな若者だけだ。ある程度成熟した大人なら、手を出すものではない。
真っ当な判断力があれば、作って売ろうとも思わない。
何故なら、新規な化学物質の合成はそれなりの施設が必要であり、新規なものであるだけに大量生産ができない。つまり、大きな儲けは期待できないのだ。
そして、そうした化学物質の合成ができるだけの知識があるのなら、脱法ドラッグに手を染めなくても、まともに働けばよい。いくら法に触れないといっても、脱法ドラッグに手を染めたとなれば警察に目を付けられ、まともな仕事には就けなくなる。
つまりデメリットが多すぎるのだ。
だから、実際に出回っている脱法ドラッグなど素人知識で作られたもので、あんなものを使うのは、洗剤を飲むようなものだ。
だが、検死の結果が確かなら、彼女の遺体から検出されたのは高度な技術により作られた脱法ドラッグだ。そんなものが出回っているとは信じられなかった。
俺は上司から強引に休暇を貰い、この脱法ドラッグを独自に捜査し始めた。
上司から深入りしないように何度も戒められたが、俺はどうしても放って置けなかった。
あるいは、それは彼女の窮状に気付かなかった自分に対する代替行為だったのかもしれない。
彼女を死に追いやった脱法ドラッグを摘発したところで、彼女の窮状を見過ごしてしまった自分が許されるわけではないのに。
それでも、俺は動かずにいられなかった。
しばらくして分かったのは、今回のドラッグには複数の薬学部や医学部の大学生が関わっていること、そして、かなり組織的な活動をしていることだった。
おそらく、彼等の背後には暴力団か何らかの犯罪組織がいるのだろう。
だが、法に触れていない以上、強引な捜査はできなかった。どうしても彼等の背後には捜査の手が届かない。このままではいずれ摘発できるにしても、ドラッグの流布に直接関わった大学生達だけだろう。
その大学生達に直接接触して情報を手に入れようと試みたが、彼等は法に触れる事は何もしていないとヘラヘラと笑うだけだった。
彼等は警察の手は届かないと信じきっていた。
背後の組織にとって、自分達が警察の追求から逃れる為の弾除けにすぎず、いずれ切り捨てられ破滅する運命にあるとは想像もせずに。
だが、それでも捜査を続けた俺は、ついに彼女にドラッグを売りつけた相手を見つけだした。
それは・・・俺の弟だった。




