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大罪の悪魔と滞在する悪魔  作者: 聖湾
第一部 第三章
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第二十話 可哀想な人(2)

 私は誰にとっても重荷にしかならなかった。私の居場所はどこにもなかった。

 でも私は取り戻したかった。あの幸せな日々を。

 だから私は前へと進む。地を這い蹲ってでも。




 ああ、体を拭きたい。

 汗で湿った患者服の感触に顔をしかめた。

 私は手を伸ばしてナースコールを押す。ボタンは見えないが、感覚でどこにあるのか分かるようになっていた。

 それだけ私が病院での暮らしに慣れてしまったという事だろう。入院した直後には、ボタンがどこにあるかも分からず、ずっとベッドの上で悶えていたものだ。

 しばらくすると、この病院の看護婦の人がやってきて、私の体をお湯で濡らしたタオルで拭いてくれた。本当ならお風呂かシャワーが良いけれど、今の私を連れていくのは大変なので、そうそうワガママも言えない。

「スズナちゃん、汗をかいているけど大丈夫? 空調の温度を下げてもらおうか?」

「・・・」

 私は首を横に振って断る。

「・・・怖い夢を見たの?」

 私は頷いた。看護婦のお姉さん、そう、と小さく呟くと私の頭を撫でてくれた。

 そう、私はとても怖い夢を視た。

 とてもとても怖い・・・幸せだった頃の夢。

 ある意味では、私が全てを失ったあの悪夢よりも怖い夢。

 幸せだからこそ、目覚めた時に絶望する。

 その幸せが存在しない現実に打ちのめされて。

 そう、存在しない。

 あの幸せな日々は失われてしまった。


 私は真っ暗な世界に取り残されていた。

 『悪魔』に襲われた時の事はよく覚えていない。

 私は『悪魔』によって、目を抉られ、両足の腱を切り裂かれ、喉を潰され、左腕の関節を粉々に砕かれた。

 恐怖、激痛、怒り、憎悪。

 あの時に何があったのかを忘れたわけではない。ただ、スクリーンの向こう側を見ているようで、まるで現実味がないのだ。

 全てを覚えていたら、きっと私は正気を保っていられなかっただろう。

 だが、それも早いか遅いかの違いにしかならなかったのかもしれない。

 日々の生活の中で、私の心が少しずつすり減っているのが分かる。今の私が正気を保っているのかどうか、正直自信がなかった。

 私は絶望していた。自分の力ではベッドから離れることの出来ない、この真っ暗な世界に。

 もう何も見えない。自分の足で立つことが出来ない。声を出す事ができない。

 私にはもう何も無かった。

 そんな私にはもう居場所などどこにもなかった。

 もっとも、それがどこかにあったとしても、そこに行くことなど出来はしないのだが。


 こんな何も無い私でも、お父さんもお母さんも大切にしてくれた。

 でも、病室のベッドから一歩も動くことの出来ない私がお母さん達の負担になっていることを知っていた。

 目が見えなくなり、喋ることの出来なくなった私に唯一残されたのが聴覚だった。そのせいだろうか、私の聴覚は以前よりずっと鋭くなった。

 私には聞こえていないと思っているだろうが、病室の外で入院費について病院の方に必死に懇願するお母さん達の声が聞こえた。

 家に戻ることも考えているようだが、普段家に残っているお母さんだけで私の世話が出来るのか、ヘルパーの方を雇う必要があるのか、いろいろと悩んでいるようだった。

 ああ、お母さん達にとって、私は重荷なのだ。

 そう思うと、私はお母さん達に申し訳なくて、心臓が軋むような痛みを感じた。

 でも、私にとって一番辛かったのは、お姉ちゃんの事だった。


 お姉ちゃんは私が入院してから毎日お見舞いにきてくれていた。

 でも、ある日突然、お姉ちゃんは見舞いに来なくなった。

 お母さん達に聞いても、動揺も露わに誤魔化そうとするだけで、何も教えてくれなかった。お母さん達にとって、その質問がとても答え辛いものであることが分かった。

 私はやがて、お姉ちゃんについて聞くことを止めた。

 お姉ちゃんに会えないことが寂しかったけれど、お母さん達にとってその話題が重荷になっている事が分かると、もうそれ以上聞くことは出来なかった。


『大丈夫。お姉ちゃんはずっとスズナと一緒にいるよ。ボーイフレンドができたって、何があったって、絶対に一緒だよ』

 

 お姉ちゃんの言葉を思い出し、私の目から涙がこぼれ落ちた。

 何故、お姉ちゃんは居ないんだろう。

 それが身勝手な思いであることは理解していた。

 お母さん達の重荷になっているのと同じように、お姉ちゃんにとっても私が重荷になっている事は分かっているのに。

 お姉ちゃんは私の事を重荷になんて絶対に言わない。きっと、思ってさえいない。

 でも、重荷になっているのだ。

 お姉ちゃんが見舞いに来ないのも、私の存在を疎んだからではなく、何か私の為に何かをしているに違いない。私がこんな事にならなければ、お姉ちゃんがそんな事をしなくても済んだのに。

 どうすれば私達の関係は元に戻るのだろうか?

 どうすればあの幸せな日々が戻ってくるのだろうか?

 私がこんな体でなかったら、こんな事にはならなかっただろう。


 私の目が見えるようになれば元に戻るのだろうか?

 私の足が動くようになれば元に戻るのだろうか?

 私が喋れるようになれば元に戻るのだろうか?

 私の体が治れば元に戻るのだろうか?

 お母さん達は苦しまずに済むのだろうか?

 お姉ちゃんは帰ってくるののだろうか?


 行き場のない想いが溢れ出す。


 私はもう一度世界が見たい。

 私はもう一度自分の足で歩きたい。

 私はもう一度喋皆と話したい。


 無意識に下唇を噛みしめ、鉄錆の臭いのする液体が舌を濡らす。

 そんな時だった。


「・・・!?」


 誰かが私の顔を覗き込んだ。

 真っ暗な世界に。

 何も見えない筈の世界に。

 はっきりとした輪郭を伴い、ソレは現れた。


 黒い黒い、闇よりも暗い影。

 ソレは私を見下ろし、そっと私に手を差し出した。

 私は理解する。私は理解した。

 ソレが何なのかを。

 ソレが何をもたらすのかを。

 私はいつの間にか笑っていた。

 ああ、笑ったのはいつ以来だろう。少なくとも、病室で目覚めて以来、笑った覚えはない。

 でも、笑わずにいられるだろうか。心の底から歓喜が溢れだし、私は笑い続けた。

 もう一度、全てを取り戻すのだ。

 私は手を伸ばし、ソレの手を取った。




 私の悪魔の手を。


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