第十七話 可哀想な人(1)
あの頃の私は、全てを手にしていた。
でも、私はその事に気付かなかった。
愚かと笑いたければ笑えばいい。私は追憶の海に沈み、失われた世界を夢見る。
私の家はいわゆる土地の名士と呼ばれる家系だ。昔はいくつもの山を所有し山持ちと呼ばれていたらしい。
山持ちと呼ばれる家系は他にもあったらしいが、私の家以外はもう没落して残っていない。
外国からの輸入に頼って林業は衰退し、今では山を所有していたところで大きな収入にはならないからだ。
だが、私の曾祖父は先見の明があったらしく、山の価値が下がる前に山を売り払い、そのお金を元手に事業を興したのだ。
私が生まれる前に起きた大不況もなんとか乗り切り、いくつかのビルやアパートを管理する不動産業を営んでいる。
家政婦がいるような富豪にはほど遠いけれど、一般的な生活水準と比べれば、十分豊かだろう。
私は、両親とお姉ちゃんの四人で幸せに暮らしていた。
お父さんは仕事人間だったけれど、私と姉の誕生日には必ず家で一緒に祝ってくれた。
お母さんは私達が家にかえるといつも笑顔で迎えてくれた。ことある毎に昔のアルバムを持ち出して昔話をするのは恥ずかしかったけれど。
そして、お姉ちゃんは私の一番の自慢だった。
美人で、勉強ができて運動も得意だった。奨学金を得て偏差値の高いお嬢様学校に合格した時は、家族みんなでお祝いをした。
身長が低いことを気にしていたけれど、私から見ると十分に背が高いと思った。
お姉ちゃんは私の目標だった。
小さい頃、私はいつもお姉ちゃんの後をついて回って、お姉ちゃんのやる事を真似していた。そうすれば、少しでもお姉ちゃんに近付けるように思ったのだ。
周りからも仲良しの姉妹とよく言われ、お母さんも私達を見て微笑ましく笑っていた。
『スズナはアヤメが大好きなのね。ふふふ、アヤメがボーイフレンドでも連れてきたら妬いちゃって大変でしょうね』
それを聞いてお姉ちゃんは顔を真っ赤にして怒っていた。
そして、私はもの凄く怖くなった。
ボーイフレンドが何かはマンガなんかで知っていた。
でも、お姉ちゃんにボーイフレンドができるなんて考えた事もなかった。
もしもボーイフレンドができてしまったら、お姉ちゃんはずっとその人と一緒にいるのではないか、私はお姉ちゃんの傍には居られなくなるのではないか。
そう思ったのだ。
私が読んだマンガでも、ボーイフレンドができた主人公はいつも二人きりで、妹なんかと一緒には居なかった。
私は思わずお姉ちゃんに抱きついて、ボーイフレンドなんて作らないでと懇願してしまい、お姉ちゃんを困らせてしまった。あの時の怒っているような喜んでいるような複雑な表情はとても印象に残っている。
すると、お姉ちゃんは優しく私を抱き寄せて言ってくれたのだ。
『大丈夫。お姉ちゃんはずっとスズナと一緒にいるよ。ボーイフレンドができたって、何があったって、絶対に一緒だよ』
私は嬉しくてお姉ちゃんの胸に顔を埋め、その言葉を信じた。
私は、ずっとお姉ちゃんと居られると、この幸せな日々が続くと信じていた。
『おじさん・・・誰?』
幸せな毎日は、ある日突然終わりを告げた。
学校の帰り道、コンビニで買ったお菓子を手に歩いていた私の前に、一人の男の人が現れた。
ロングコートのようなものを着ているが、夕日で赤く染まって元は何色だったのか分からなかった。
サングラスをして、季節外れなマフラーで口元を隠していたため、どんな顔をしているのかも分からなかった。
誰がどう見ても変質者だ。先生にも変質者には近寄らないようによく言われる。
逃げなければならない。そう理解していた。
でも・・・逃げられなかった。
サングラスの奥の彼の視線が私を貫いた瞬間、私は恐怖のあまり動けなくなってしまったのだ。
まるで、蛇に睨まれた蛙のように。
掠れた声で何者か訊ねたが、答えのない事など分かりきっていた。
なんで私はもっと早く帰らなかったんだろう。コンビニなんて寄らなければよかった。部活なんて休んでしまえばよかった。
そうすれば、私はこの人に会わずに済んだかもしれないのに。
立ち竦む私を見て・・・
悪魔がニタリと笑った。