第2話
「あれが、ファーレーンの首都ウルスだ」
冒険者たちとの合流地点から二時間ほど道なりに歩いたあたりで、大きな城門が見えてきた。話によると、東門らしい。冒険者の足で二時間なので、一般人ならどれほど健脚でも、最低でもあと一時間は余分にかかるだろう。直線距離なら大したことはなさそうだが、途中に丘があったため、ルートが迂回する形になっているのだ。距離から言うなら、丘がなければ、最初の位置から城門が見えていたぐらいである。
「なんか、近いんか遠いんか判断に困る距離やな」
今までのペースと城門までの距離を考えると、ウルスに入れるまであと三十分ぐらいはかかるだろう。
「片道二時間半はねえ」
軽い補助魔法で移動時間を計っていた春菜が、微妙な表情で応じる。もっとも、二人とも、自分の体力などを勘定に入れるなら、荷物満載でもあと三十分程度の短縮は可能だろうと判断しているが、正直そのペースで長距離を歩きたくはない。
「因みに、他の町までの距離はどんなもん?」
「そうだな……。ウルスから一番近い村まで、冒険者の足で八時間、ってところか。でかい都市で言うと、カルザスとメリージュが一番近くて、徒歩で五日ぐらいか? 馬や馬車を使えばもっと早いが」
ランディの言葉になるほどなるほど、と頷く。カルザスやメリージュまでの距離は、ゲーム中ではウルスから徒歩で二日ぐらいだった。どうもゲーム内の地図とは、若干縮尺や位置関係が違うようだ。なお、ファーレーンでは割と安値で懐中時計が普及しており、中級以上の冒険者にとっては必需品となっている。必需品となっている理由は簡単で、時間指定の配達物などが結構あるからだ。
「それで、一番気になってた事なんだけど……」
「基本的に、住民登録をしてあれば出入りに金はかからない。例外は一部特権階級と冒険者だな。隊商に関しては、どうせ荷物の検査があるから、大体はその時に一緒に済ませる事になる」
「ってことは、私達は今回は取られるんだ」
「ああ。まあ、大した金額じゃないから、今回は俺達が払う」
「そうそう。命の恩人だし、歌も聞かせてもらったしね」
ランディとクルトが気負いなく答える。その後もいろいろと基本的な常識を教わり、ゲーム内での表現や認識との違いを埋めていく。宏にとって一番重要だったのが、ポーション類の呼び方。レベルいくつではなく何級と言う呼び方になっているらしく、例えばレベル2ポーションなら七級ポーションと言う事になる。最低が八級だが、回復効果はあるが弱いものを等級外と一括でくくって呼んでいるらしい。等級外ポーションは駆け出しの薬師が練習で作ったもので、同じく駆け出しの冒険者に格安で売られているほか、どこのご家庭の救急箱にも、絆創膏感覚で一本二本は入っているとのことである。
ポーションの呼び方に関しては、現存するもっとも古い国であるファーレーンの建国王、その仲間の魔導師が作れた最高の性能の物を一級と呼び、そこを基準に作りやすさと効果を考慮して等級を決めたそうだ。一級より上の物が存在するのでは、という意見に対しては、これ以上のポーションは、史上最強の英雄である建国王ですら即死手前から復活してお釣りが来るような効果になるため、無駄が大きくて必要が無いと判断したとのことである。製造難易度を考えると、等級分けが必要になるほど出回る事もないだろう、というのも理由の一つらしい。
他にゲームと現実の相違点としては、ゲームで使われていたクローネという通貨の下に、チロルと言う通貨単位が存在する事。これに関しては、食材の購入単位がものによっては百単位と妙に大きかったり、宿の一泊料金が変に安かったり、ドロップ品の値段がよほどの物でもない限り五クローネ程度だったりしていたため、宏も春菜もあっさり納得している。因みに、一クローネは百チロルで、大体一クローネ銀貨は千円札と同じ感覚で使われている。ゲーム内の最低通貨が千円札と言うのはなかなか豪快だが、えてしてゲームとはそんなものである。
「そう言えば、ポーション類って、普通はどの範囲まで買えるん?」
「そうだな……。値段を気にしなければ、七級のポーションぐらいまでは普通に冒険者協会で売っている。とはいえ、庶民が気軽に買える値段じゃないから、一般の薬屋には八級までしか置いてない。六級以上は国が抱えている薬師ぐらいしか調合出来ないから、まず一般に出回る事はないな」
「ほほう。そうなると、一級ポーションとか恐ろしい金額になってそうやな」
「現在一級を調合できる薬師は居ないと言われているから、金で買えるかどうか以前に、持ってるだけで国家間の大騒動になりかねないよ」
「たかが傷薬に大層な……」
あまりに大げさな話に苦笑してしまう宏。だが、考えてみれば、レベル5以上のポーションは必ずドロップ素材が噛むようになってくるうえ、レベル7や8は結構な大物を倒さなければ、素材そのものが手に入らない。そして、ドロップ系素材と言うやつは、それが素材として機能する事を知っている人間が死体を解体しないと、余程偶然が重ならない限りは素材として使える状態でもぎ取る事は出来ない訳で、中級や上級の製薬スキルを持っている人間が国に保護されているとなると、レベル5以上、こちらで言う四級以上のポーションはほとんど存在していない可能性が高い。
しかも、宏は知らぬ事だが、レベル6以上、つまりこちらでいうところの三級以上のポーションには、何と部位欠損を治す能力がある。何故、宏が知らないかと言うと、フェアリーテイル・クロニクルは余計なところでリアルなくせに、何故かプレイヤーには部位欠損のシステムがないからだ(モンスターは普通に部位欠損が起こる)。そのため、一撃でHPがゼロになるような攻撃で腕を斬られても、戦闘不能になるだけで腕がちぎれたりはしない。なお、一級ポーションが重要になるのは、三か所以上の部位欠損、それも切り落とされたり潰されたりしてから何年もたっているようなものですら回復させる能力があるからである。
この機能はヒーリングポーションだけだが、マナポーションは加齢や反動などで落ちた魔力や最大MPを最盛期に引き戻す効果があり、スタミナポーションには部位欠損を伴わない病や事故の後遺症を治療する効果がある。これも、等級が高いほど重度のものが治療できるため、一級ポーションは国家間の戦争を引き起こしかねないほどの危険物になっているのだ。
「薬ってのは、それだけ重要なんだよ」
「そら分かるけどなあ……」
意外に低い生産能力に、思わず内心で頭を抱える宏。とりあえず、春菜はともかく、宏は下手な事は出来そうもない。薬でそれとなると、武器防具などどうなる事か、考えるのも怖い。プレイヤーが鍛冶で作れるものなど大した物ではないが(と、宏をはじめとした職人プレイヤーは思っている)、それでも上級なら、ドロップ素材もエンチャントも無しで、それほど危険のない場所でとれる低級素材だけでも、一般的なNPC販売品の倍ほど性能が高いものは製造可能なのだ。
そして、ランディやクルトが身につけている防具を見る限り、一般に出回っている装備品の性能は、ゲーム中のNPC販売品と大差ないと判断出来る。さすがに春菜は見ただけでそこまでは分からないだろうが、宏は神の匠だ。その程度の鑑定は余裕である。これが普通の装備なら、宏の倉庫の中にごみ同然と言う感じで転がっていた製造装備が、すべてこちらに転がり込んできた日には、平気で国家間のバランスを崩しかねない。
「さて、ちょっと手続きをしてくるから、少し待っていてくれ」
「はーい」
「了解」
そんな話をしている間に、少し大きな声を出せば、門番と会話ができるぐらいの距離まで近づいていた。ランディとクルトが二人の分の手続きや支払いをしている間に、気になった事を春菜とこっそり話し合う。距離が近くなったため、微妙に鳥肌が立ち足が震えているが、今回ばかりは我慢するしかない。
「なあ、藤堂さん。作ったポーションを買い取ってもらうん、ちょっと拙いかもしれへんわ」
「そんな感じするね。でも、正直レベル3の特殊ポーションはともかく、レベル2の各種ポーションは、あっても荷物にしかならないよね?」
「せやねん。それが問題やねん」
これがただのレベル2ポーションなら売っぱらってしまっても問題ないのだが、作ったのが宏である、と言うのが問題だ。生産スキルで作ったアイテムは、作った時の生産スキルの熟練度によって、効果に補正がかかることが確認されている。これが中級程度の技能で作ったものなら大した差は出ないのだが、宏は神酒製造に神薬製造まで持っている、最高峰の職人である。さすがに一個上のポーションと同じ効果、とまでは行かないまでも、市販の普通のポーションよりは効果が高いのは間違いないだろう。適当に作った間に合わせの道具が、どれぐらいプラス補正を打ち消してくれているかが勝負だが、作った感じそれほど使い勝手が悪い訳でもなかったので、そこら辺は期待薄である。
「……腹をくくって、売っちゃう?」
「……そうしよか……」
他の金策方法を考えたあたりで、結局リスクが変わらない事に思い当り、腹をくくる事にする二人。どうせ、そんなにすぐには指名手配がかかるまいし、その気になればしらばっくれることもできよう、と、甘く考える事にしたのだ。もっと正確に言うなら、国家レベルの厄介事に巻き込まれるかもしれないリスクよりも、今日明日の食事と宿をとった、と言うのが正解である。
「二人とも、ちょっと来てくれ」
クルトに呼ばれて、門番のところに駆け寄る。どうやら、初めて訪れた人間に対する面談らしく、いろいろ質問をされた。どう答えていいかが分からない物も結構あったが、二人の忠告に従って、全て正直に答えておく事にする。
「知られざる大陸からの客人か」
「知られざる大陸?」
「ごく稀に飛ばされてくる事がある、君達のような出身地不明の人物が居た場所を、王宮ではそう呼んでいるんだ」
「それって、一般の人には知られてるんですか?」
「あまり有名な話じゃないかな? せいぜい冒険者の間に、都市伝説みたいな形で流れている程度だろうね」
それもそうだろう、と納得する二人をにこにこと見守る門番二人。実に愛想がいい。
「あの、それって、騙りとかいないんですか?」
「今のところ、そういう人は見た事がないね」
「そう言うのがおったとして、見分け方とかはあるんですか?」
「さっきの質問がそう。知られざる大陸からの客人は、こっちの常識をほとんど知らないからね。いくつか答えられない質問があったでしょ?」
その質問に、納得したように頷く宏達を、ニコニコ顔で見守る兵士たち。笑顔のまま、宏達に一つ教えてくれる。
「知られざる大陸からの客人は、王宮からいろいろなバックアップを受けることができる。今、紹介状を用意してるから、明日にでも行くといいよ。後、このチケットがあれば、冒険者が使う宿なら無料で泊まれるから」
「それはまた、お手数をおかけします」
「これも仕事だからね」
イメージと違って愛想のいい兵士達から通行許可証と紹介状を受け取ると、見送りに手を振ってその場を立ち去る。
「また、えらく愛想のいい門番やなあ」
「ある意味で国の顔だからな」
「ファーレーンは商業の国でもあるし、無駄に威圧的にやって評判を落とす必要はない、ってことらしいよ」
二人の説明に納得すると、さっさとお勧めの宿を紹介してもらう事にするのであった。
「ポーション類とかの買取って、どこに行くとええかな?」
ランディとクルトのお勧めの宿、黒猫の瞳亭。宿についてすぐに、今後のために一番必要な事を確認する。
「それなら、冒険者協会が一番だな」
「その心は?」
「お前達みたいな素人に対しても、基本的に足元を見ない。物によっては交渉にも応じてもらえるし、少なくとも必要以上に安く買い叩く事はしないからな」
「冒険者協会は駆け出しの冒険者のサポートもやってるんだ。実力不足なのはともかく、ちゃんと働いているのに報酬を叩いて新米が育たなかったら、困るのは協会の方だからね」
中堅冒険者の言葉に納得する宏と春菜。
「そうだな。この際だから、冒険者登録もしたらどうだ?」
「二人とも、それなりには戦えるんでしょ?」
「まあ、バーサークベアぐらいならどうにかできるけど……」
「その装備でバーサークベアをどうにかできるんだったら十分。俺達も用事があるし、飯食ったら案内するから、登録してきなよ」
「登録しておいた方が、買取交渉とかにも色がつく」
ランディとクルトの説明に頷き、そう言う事ならと登録することを決める。冒険者協会と言うやつがどういう目的で設立され、何の利益を以って運営されているのかがさっぱりではあるが、話を聞く限りでは、一応国家のしがらみをこえて運営されている組織ではあるらしい。ゲーム中でも疑問だったそこらへんの設定について、こっちでわざわざ深く突っ込んでも意味はなかろう。
「登録って、お金かかるん?」
「手数料として五クローネだ」
「あと、簡単な審査があるけど、手に職を持ってる人間にとっては、それほど難しくないから」
「なるほど、了解。それやったら、バーサークベアの皮とかは、登録した後に買い取り交渉した方がええんかな?」
「そうなるな。手数料については後払いもできるが、今回はこちらで持とう。もっとも、通行税と同じく、知られざる大陸からの客人とやらなら、手数料も免除されるかもしれないが」
どうやら、思った以上にこの国は「知られざる大陸からの客人」とやらを重要視しているらしい。何ぞ裏の一つや二つありそうで、どうにも不安になる話だ。
「まあ、何にしてもまずは、普通に冒険者登録とやらを済ませてから、やな」
「だね。ご馳走さま」
まともに調味料を使った料理を二日ぶりに堪能し、今決めた方針に従って行動を始める。ウルスの街並みは、ヨーロッパとアジアの混血児のような一種独特の雰囲気を醸し出している、石やレンガでできた建物と木造の建築物が入り混じったものだ。聞くところによると、ファーレーンの大都市は、多少の地域性はあれど、基本的にはこういう雰囲気らしい。道端にはそれほどごみの類も落ちておらず、清潔な印象である。上下水道が完備され、汚物の処理もシステム化されているとのことで、排せつ物などが原因の異臭もしない。
ウルスは大国ファーレーンの首都でかつ、南北に長い(と言っても、幅も日本列島本州の南北より長いのだが)国土のほぼ中間地点にある港湾都市だけあって、かなり巨大な街だ。北の山を背に建てられたウルス城。その城と、街道を思わせる太い中央の大通りを幾重にも囲むように広がった街は、南西にある湾にまで届いている。この世界では数少ない、人口が百万人に届く大都市である。世界で三本の指に入る大国であるファーレーンの人口が、戸籍の上ではせいぜい一億人に届かない程度である事を考えれば、ウルスがいかに巨大な都市か分かろうと言うものだ。
元々は城砦都市ウルスと港湾都市アグリナと言う二つの町だったのだが、七代目の国王の頃にはウルスの出口からアグリナの入り口まで徒歩で三時間、と言うところまで双方が大きくなっていたため、区画整理を含めた大規模な公共工事を行って、一つの街にしてしまったのだ。国庫に対してかなりの痛手ではあったが、おかげで国の内外から多数の労働者が訪れ、旺盛な消費で街に大量の金を落とし、ものすごい勢いで人口が増え、結果として百年ぐらいを想定していた費用の償却が十五年程度で済んだとの事である。
東門から西門まで、あるいは城から運河まで、一般人の足では一日以上かかるその広大な街は、何本もの運河が縦横に走り、船が人々の足として利用されている。また、陸路としてもあちらこちらに乗り合い馬車の待合所があり、それとは別に小さな馬車や馬が、タクシーや宅配便代わりに人や物を運ぶ姿が随所に見られている。そのほかの移動手段としては、普段使うには少々値が張るが、何カ所か転移ゲートが設置されており、市民は必要に応じて使い分けている。街と街を繋ぐ交通はともかく、街の中の交通の便はそれほど悪くない。
彼らが利用している黒猫の瞳亭は、東門から運河で十五分程度移動した辺りにある。このあたりはまだまだ海からは遠く、潮の香りがする、と言うほどの距離ではない。だが、南に運河か馬車で一時間も移動すれば、いい加減海が見えなくもない。また、高台に建つウルス城、その物見やぐらからなら、これと言って無理をしなくとも湾を見る事が出来る。このあたりはやはり、ウルスが港町であることをうかがわせる。
「ん~、冒険者、か~」
「当分は、安全第一でお願いします」
「分かってるよ。と言うか、そんな難しい仕事、いきなり出来る訳ないし」
「と言うか、当面は着替えと装備をどうにかするところからスタートやからなあ……」
宏の水を差すような言葉に、自分が着たきりすずめである事を思い出して渋い顔をする春菜。正直、着替えはいろいろと切実なので、出来れば今日中にとっとと何とかしてしまいたい。救いなのは、ファーレーンは水が豊富な国であり、風呂には困らない事であろう。街のあちらこちらに公衆浴場があり、宿や借家の類も、値段次第では個別に風呂がある物も珍しくはない。
「やっぱり冒険者となると、毎日違う服、というわけにはいかないよね……」
「やろうなあ。そもそも、持ち歩ける服の数自体が知れてるし」
言われて納得してしまう。家がある訳ではない以上、基本的に荷物はずっと持ち歩くことになる。服と言うのはかさばる上、案外重い。それに、どんなタイプのものを調達するにせよ、鎧を身につける事を考えると、下に着る服をあまりこだわっても意味がない。何しろ、鎧のデザインを毎日違うものに、なんて贅沢な真似は、金銭的にも物量的にも不可能なのだから。
「そう言えば、武器とか防具はどないする?」
「とりあえずお金たまったら、適当に安くて丈夫そうなのを見つくろって買うつもり。そう言えば東君って、メインは何使ってたの?」
「これって言うのはないねん。とりあえず、よう使っとったんは斧、つるはし、鎌、ナイフあたりやけど、ハンマー振り回してる時もあったし」
「……もしかして」
「言わんといてくれるとありがたい。って言うかよう考えたら、最低限つるはしは絶対買わんとあかんやん」
冒険者協会までの道すがら、春菜と宏の会話を聞くとは無しに聞いていたランディとクルトは、つるはしと言う単語に首をかしげる。
「製薬師がつるはしなんか、何に使うんだ?」
「いろいろ使うで。一番たくさんいるんが、ポーションを入れる瓶を作るための石英やし、物によっては特殊な加工をした瓶を作る必要があるから、その材料が含まれた石を掘るのに、つるはしがあった方がええし」
「瓶から作るのかよ……」
「むしろ、瓶を作れんかったら話にならへん。一定ラインから上の薬は、作る段階から瓶にいろいろ小細工せんとあかんし」
そんな話、聞いたこともないと言いたげな冒険者たちに苦笑し、自分が教わったやり方だとそうだった、と言ってごまかす。そんな話をしている間、左右の店を覗きこんでいろんな物の値段を確認していた春菜が、ため息を漏らす。因みにファーレーンでは、ガラスはそれほど珍しいものではないため、現代日本のように通りに面した側をガラスのショーウィンドウにしている店も少なくない。安いものではないが、店や一般家屋に使えないほど高くもないのだ。
「服って、結構いい値段するよ……」
「どんな感じ?」
「上下あわせると、平均で十五クローネぐらい。長期滞在だと、黒猫の瞳亭に二日泊まれるなあ、って」
「……悩ましいところやなあ……」
宿代については、今日一泊はただで泊まれ、そこから六日分はランディ達がすでに前金で払ってくれている。一週間以上だと長期滞在で割引があり、一泊七クローネ。気を利かせて別々の部屋を取ってくれているため、二人分で八十四クローネ。そこに加えて、とりあえず当座の現金として二十クローネほど受け取っている。結構な金額なので、これ以上を薬代としてせびるのは気が引ける。二人からすれば、薬代だけでなく、歌に対するおひねりも含んだ金額なのだが。
食事に関しては、朝晩は宿代に含まれるが、夕食のメニューは先ほど食べた昼食と大差ないもので、サラダとスープにパンと干し肉をあぶったものかソーセージ、もしくは焼き魚がつく程度。日によってはスープと肉類の代わりにシチューが出てくることもあるようだが、それほど大きな差がある訳ではない。いいものを食べたければ材料を持ちこむか、追加料金を支払う必要がある。朝食にいたっては、もっとシンプルにパンとスープのみだ。さらに昼食は自力で用意する必要がある事を考えると、服代一着十五クローネは結構きつい。
「いっそ自作するか……? でも、そのためには織機が無いとちょっとしんどいしなあ……」
「そこからなんだ……」
ランディ達に聞こえないようにつぶやいた言葉を聞きつけ、春菜が少々離れた場所から苦笑がちに突っ込みを入れる。
「ただで出来る事はただで済まさんと。でも、よう考えたら、自分の分はともかく、藤堂さんの分はちょっとしんどいか」
「どうして?」
「いくらクラスメイト言うても、それほど接点無かった男に自分の体型とか教えるん、嫌やろ?」
「……確かにちょっと抵抗ある……」
「まだ、上着ぐらいやったらええけど、下着とかはさすがになあ……」
宏のぼやくような言葉に思わず顔を引きつらせ、念のために聞くだけ聞いてみる。
「……作れるの?」
「作った事はないけど、手持ちにレシピはあったから、多分やろうと思ったら」
「……ごめん、私今、実利と羞恥心の間で凄く葛藤してる……」
「いや、上着はともかく、下着とか肌着とかは、作れ言われても僕の方が困るんやけど……」
「……そこまで考えてなかった……」
そんなこんなを話しているうちに、ようやく目的地の冒険者協会へ到着した。
「思ったより、こぢんまりとした建物やねんなあ……」
「まあ、そんな大商店みたいな建物が必要な訳でもないしな」
黒猫の瞳亭から歩いて四十分程度。宏の感想に苦笑しながら、勝手知ったる感じで建物に入っていくランディ。こぢんまりとした、とは言うが、それでも購買部をはじめとしたいくつかの施設が入っているためか、それなりの面積と階層はある。城や砦のような規模は無いが、普通の家やアパートなら、何軒か建てられる程度の規模だ。なお、ここはファーレーンの冒険者協会を統括する施設でもあるため、他の協会施設よりもかなり大きい。また、ウルスには、後三つほど協会の出張所がある。
「あら、ランディさん、クルトさん。護衛でメリージュへ行かれたのではないのですか?」
「ちょっとばかし状況が変わってな。雇い主の意向で、連絡も兼ねて俺達だけ戻ってきた」
「レイテ村近郊に、ポイズンウルフの大群が居座ってる。正直、護衛対象を連れて突破できるような状況じゃなかったから、依頼人に村で待ってもらって、俺達でもう一度群れを突破してきたんだ」
「……それは事実ですか?」
「ああ。正式な依頼として処理されている。こいつが依頼票だ」
ランディが差し出した依頼票を確認し、一つ頷く受付嬢。
「それで、被害状況は?」
「依頼人をレイテに連れ込む時に二人、突破するときに三人やられた。村は魔物よけの結界があるから大丈夫だが、食料の問題もあるから、あまり長く孤立させるのはまずい。と言う訳で、向こうの村長と足止めを食らってる連中とが共同で、ポイズンウルフの殲滅もしくは排除の依頼を出すそうだ」
「状況が状況だから手付金も含めて後払いになるけど、村長さんから依頼票を預かってるから、悪いけど手続きよろしく」
「分かりました」
割と大ごとになっているらしいそのやり取りを、ぽかんと眺める宏と春菜。ポイズンウルフと言う魔物は、狼が瘴気を浴びて毒を持つようになった生き物で、単品の強さはバーサークベアよりかなり弱い。だが、こいつらは元が狼だけあって、とにかく群れる。その上、回るのはかなり遅いとはいえ致死性の毒を持っているため、ゲームでもバーサークベアとは違う意味で、序盤の初心者殺しの魔物として知られている。毒は爪と牙両方から感染し、特に噛みつかれると確実に致死量を注ぎ込まれるのが厄介だ。
ただし、ポイズンウルフのような遅効性の毒と言うやつは、実は耐性を得るには丁度いいため、毒消し片手にぎりぎりまで狩りをし、やばくなったら毒消しを飲んで消すと言うやり方で、大体のプレイヤーが早々に実用ラインでの耐性を持ってしまうため、脅威になるのは本当に序盤だけなのだ。
ここら辺が、春菜がポイズンウルフの系統に対応する解毒魔法を覚えていなかった理由である。しかも、宏ぐらい人間をやめた耐久値を持っていると、耐性の無い状態異常でもほとんど影響を受けない。逆に、このクラスのプレイヤーが防げない毒となると、耐性なしの駆け出しや一般人なら、触れるどころか遠くから吸い込むだけで即死しかねないほどの毒性を持つ。
「なあ、ランディさん、クルトさん」
「なんだ?」
「凄い大ごとになっとるみたいやけど、ちんたらご飯食べとってよかったん?」
「考えなかった訳じゃないが、クルトを医者に連れて行って治療する時間を考えたら、誤差みたいなもんだったからな」
「それに、この後の事を考えたら、君達の機嫌を損ねるのはまずい、って判断もあったし」
クルトの言葉にピンとくる。ポイズンウルフの大群をどうにかする、となると、毒消しが相当な数必要だ。それも、宏が持っているような、魔法で消すのと大差ない効力を発揮する、即効性の強い毒消しは喉から手が出るほど欲しいだろう。
「そちらのお二人は?」
「ああ。クルトの命の恩人だ。妙な魔法でこっちに飛ばされてきたらしい」
「ああ、知られざる大陸からの客人ですか。命の恩人、と言うのは?」
「恐ろしく良く効く毒消しをくれた。あの毒消しが無かったら、ここまでクルトが持ったかどうかも怪しい。何しろ、貰った時点で歩けなくなる程度には回ってたからな。あれはまだ残ってるのか?」
「あと九本。材料があればいくらでも作れるけど、それなりに時間はかかるで」
宏の答えに、胡散臭そうな目を向ける受付嬢。見た目せいぜい成人年齢に達した程度の子供が、歩けなくなるほど回ったポイズンウルフの毒を、一日もたたずに普通に動き回れるほど回復させるような効果の強い毒消しを作れるなど、にわかに信じられる話ではない。
「まあ、そう睨むなって。本当にこいつが作ったのかどうかは関係ない。それだけの毒消しを持っていて、俺達に惜しげもなくふるまってくれた、という事実の方が重要だ」
「……申し訳ありませんが、その現物を見せていただけます?」
「ええよ。元々買い取ってもらうつもりやったし。何やったらレシピも教えよか?」
「教わっても、今このギルドに居る人間では検証できませんので結構です」
警戒心バリバリの受付嬢の態度に苦笑しつつ、とりあえず赤みがかった緑と言う感じの色合いの毒消しを差し出す。大事になったためか、差し出す時に手が震えているのは御愛嬌だろう。それを買取カウンターの方に持ち込み、何やら妙な機材の上に載せてごちゃごちゃやっている。その結果を見て、驚愕の表情を浮かべる受付嬢と買い取り担当の女性。
「申し訳ありません。先ほどまでの態度を謝罪させていただきます。この薬、本当にいくらでも作れるのですか?」
「材料があれば。あ、そうそう。これも買い取ってほしかってん」
「……これは、七級ポーションですか?」
「ついでに作った奴。もしかしたら騒ぎになるかな、思って買い取ってもらうかは悩んどってんけど、そっちの毒消しで大ごとになるんやったらええか、思って」
そう言って、カウンターの上に三十本ほど並べてみせる。駆け出しの冒険者だと、それだけで一財産と言える数である。
「七級ポーションの値段を知らなかったのは分かるが、作りすぎじゃないか?」
「藤堂さんに、瓶作ってるところを見たいとか言われて、つい調子に乗ってん。作るだけやったら百本でも二百本でも作れてんけど、持ち運びができんからこのぐらいでやめてん」
「だって、見たかったんだもん……」
バツが悪そうにしょんぼりする春菜に苦笑し、とりあえずこの話は終わりにする一同。作ってしまったものはしょうがないし、捨てるのはもったいない。
「それにしても、七級のポーションってえらい高いなあ」
「そりゃ、九級あたりの冒険者だったら、瀕死の重傷でも一本で完全回復するような代物だからね」
「俺達でも、いいとこ三本あれば、即死でない限り無傷まで治る。値段相応の価値はあるさ」
日本円にして一本五十万とか、どんな傷薬かと思っていたが、言われてみれば納得するしかない。何しろ、ゲーム的に言うなら、一レベルで基本攻撃以外のスキルを一切持たないキャラのヒットポイントが五十程度。レベル1ポーションの基礎回復量が百、レベル2で五百で、そこに耐久力や作った職人の技量、調合のアレンジによる補正があれこれかかるのだから、ランディやクルトの言葉は混じりっ気なしの真実と言う事になる。ゲームでは、冒険者や兵士以外のNPC、いわゆる普通の人のほとんどが、レベルが高くてせいぜい五であった事を考えると、一般家庭ではレベル1ポーションまでしか必要にならないのも当然だし、瀕死の重傷を五万円で治療できると考えれば、レベル1ポーション五十クローネは高いとはいえない。
なお、現実で考えるとあり得ないほど強力な回復力を持つポーションだが、レベル2までは魔力の付与を行わない。初級のポーション調合と言うのは、素材が持つ魔力や生命力を、調合によって限界以上にまで増幅する技術である。飲み薬が多いのも、内部から作用することで効果を効率よく発揮させる事が出来るからだ。
「もっとも、五級以上の冒険者になると、これぐらいでないと回復が追い付かないみたいだが」
「それで、こんなたっかいポーションを普通に売ってるんか」
「協会としても、もう少し安価に流通させたいところなのですが……」
渋い顔でため息交じりに口を挟んできた買い取り担当に、思わず顔を見合わせる宏と春菜。なんとなくピンと来るものがあり、春菜が理由を聞いてみる。因みに、この女性は買い取りだけでなく、各種アイテムの販売の方も担当しているらしい。
「その理由は?」
「需要の問題もあるのですが、それ以上に七級を調合できる薬剤師がそれほど多くなく、特別な素材も必要で一日に作れる数も知れているようでして」
「あ~、なんとなく分かる……」
予想通りの理由に、ため息しか出ない。宏いわく、レベル2ポーションの調合は初級をほぼマスターしなければ、確実に作れる腕は身につかないとのこと。それがどれほど大変か、ゲームで身に染みて知っている春菜からすれば、そこにたどり着かない人間の方が圧倒的に多くても仕方がないと良く分かってしまう。
「そう言えば東君、このあたりって言うか、バーサークベアのあたりの草で作ってたよね?」
「うん。応用レシピやから、八級のポーションの材料でもいけるで」
「そのレシピを教えてあげたら……」
「難しいやろうなあ」
宏の言葉に首をかしげ、すぐに昨日の話題を思い出す。
「あ、もしかして?」
「うん。製薬以外に、錬金術の知識とある程度のエンチャントの技量もいるねん。って言うても、エンチャントの方は一番簡単なんが失敗なしでできる程度でええんやけど」
「話に聞くと大変そうなんだけど……」
「全く知識無しやったら、できるようになるまで最低でも一カ月ぐらいかかるやろうなあ」
「だよね」
自分の経験をもとに告げる宏に、期待を潰されてがっくり来る一同。
「でしたら、冒険者協会と契約して、安定供給に協力していただけませんか?」
「出来たらそれも避けたいんやけど」
「どうしてですか?」
「思いすごしやったらええんやけど、僕の作ったポーションって普通のより効果が強いかもしれへん。もし効果が強かった場合、普通のを作ってる人の生活を圧迫するかもしれへんから」
言われて沈黙する購買担当。宏の指摘通り、彼の持ってきたポーションは、普通のものより倍ぐらい効力が強い。これが標準になってしまったら、他の薬剤師が作るポーションが売り物にならない。
「難しい話は置いといて、だ。アン、この二人の登録を頼む」
「……分かりました。こちらの書類に記入をお願いします」
差し出された書類に、書き込める範囲で書き込んで行く。何故かこちらの文字を普通に書けるが、これに関しては気にしてもしょうがないと割り切る事にしている。
「そう言えば、今思ってんけど……」
「どうしました?」
「こっちの人って、どんぐらいの人が読み書きできるん?」
「そうですね。ファーレーンの場合、都会に住んでいる人はほぼ九割が読み書きできますが、農村になると、辛うじて数字が読める程度の人が過半数でしょう。最近では地方の農村にも学校が整備されてきてはいますが、それでも国全体で見れば半分に満たないのが現実ですね」
受付の女性・アンの説明になるほどなるほどと頷く二人。意外と高いと見るか、思ったより低いと見るかは微妙なところだが、少なくとも文字が書けるのも書けないのも不自然ではないレベルではある。
「読み書きができない人が登録に来た場合、どうするんですか?」
「書類自体はこちらで代筆し、研修の時に最低限の読み書きは覚えてもらいます。読み書きをおぼえるまでは、依頼票の内容もこちらで読み上げます」
「そっか、なるほど……」
「それやったら、農村を飛び出した無謀な少年が、登録もできんで努力の余地も無しに路頭に迷う事はない、と」
「絶対ではありませんけどね。そもそも、戦技研修と読み書きの授業を受けながら仕事をするような人物は、大抵途中で挫折しますし」
丁寧に答えを返しながら、空欄の多い書類を受け取る。ざっと面接のようなものを行い、書類に何かを書き込んで行く。先ほどまでのやり取りで大体の人となりは把握しているが、一応規則は規則だし、何よりこの二人はファーレーンの法を良く知らないはずだ。暗黙の了解で見逃される程度の細かい軽犯罪ならまだしも、かばいようのないような大きな犯罪を、住んでいた地域の法体系や文化の違いで犯されてはたまったものではない。そういった部分が大丈夫かどうか、しっかり面接で確認しておく必要がある。
「それでは、実技試験に移りましょう。ダンジョンの探索許可は八級以上になるか許可を受けた人物に同行する事で下りますので、今回は戦闘能力だけを確認させていただきます」
一通りの見極めを済ませ、実技試験に。予想以上の実力を見せる二人に舌を巻いていると、二人の側からも驚いたような感心したような声が。
「アンさん、強い」
「自分、ダンジョンぐらい潜れるんちゃう?」
「ギルドの職員は、皆最低限の戦闘訓練は受けているんです。それより、住所は登録されていないのですか?」
「今日こっちに来たばかりですから」
「なるほど。でしたら、ウルスで一カ月以上活動するのであれば、明日にでも役所に行って登録してきてください。冒険者カードを見せれば、前歴などは特に確認されませんので」
「それで大丈夫なん?」
「我々冒険者協会は、そう言う組織ですから」
やけに説得力のある説明に思わず頷き、登録が済んだ証として十級と記されたカードを受け取る。その後、施設の使い方や依頼の受け方、昇級条件などについて一通り説明を受け、バーサークベアから剥いで来てた素材を買い取ってもらって、その日やりたかった事を終える。ランディとクルトは、登録を始めたあたりで王城へ緊急支援要請を行いに行っているため、すでにこの場にはいない。
「ポーション類も込みで一万五千か……」
交渉を終えた春菜から渡された金額を見て、難しい顔をする宏。いきなり稼ぎすぎた、と思う反面、必要なものを買い揃えるとなると微妙に足りない気がする金額だ。とりあえず、今後の行動費として一旦折半しておく。
「全部、とても丁寧に処理されていましたので、少し査定に色をつけておきました」
「一見すごい金額やけど、結構悩ましいところやなあ……」
「難しいところだよね……」
冒険者協会で扱っている装備品を見て、渋い顔で囁き合う。安いものは五十チロル程度なのだが、高いものは一万クローネを超える物すらある。さすがに値段が値段だけに悪くはないのだが……。
「とりあえず、今日は宿に戻って休もうか」
「そうやな。なんかいろいろあって疲れたわ……」
「お疲れ様でした。もしよろしければですが、今回のポイズンウルフの駆逐のために、明日の朝からで構いませんので、毒消しを作っていただけませんか?」
「……そうやな。聞いてしもた以上、知らん顔は気分悪いし。ただ、材料を集めに行く気力が残ってへんから、代わりに集めてくれる?」
微妙にアンから距離を取りながら、そんな提案をしてのける。
「分かりました。これより職員を総動員して、可能な限りかき集めます」
「まあ、ポイズンウルフの毒やったら、特殊な材料は特にいらんから、それなりの数は集まると思うけどな」
そう言って宏から告げられたレシピをメモして、奥の事務室や他の施設の職員に声をかけて回る。それを見てため息をつくと、もう一度協会の販売品をざっと眺める。冒険者の中には初歩の製薬術や錬金術を身につけている人間も少なくはないとのことで、そういった連中のために調合用の機材も多少は売られている。
「乳鉢と鍋ぐらいは買って行っといた方がよさそうやなあ……」
「そこは任せるよ」
少し考え込んだ末に、どうせ今日は使わないからいいかという結論に達し、そのまま宿に帰る宏と春菜であった。
「……疲れた……」
宿の個室。帰りに取った別行動で買い足した下着以外、ほとんど空になった鞄をテーブルの下に転がしてベッドに横たわる。宏の方は布と糸と裁縫道具を買ってきていたので、どうやら自分で縫うらしい。こんなことなら、裁縫ぐらいは初級をカンストしておいても良かったかもと考えても後の祭り、せめて今後普段着ぐらいは作って貰う事にして諦めたのがさっきの事。
「なんかこう、複雑……」
こちらに飛ばされてから三日目にして、ようやく安全に一人の時間と言うものを得られた。野宿の時の二日間は、あまりしっかり眠れなかった。それでも体力は十分すぎるほど回復していたのだから、この体は結構規格外だ。
複雑なのは、あまりよく眠れなくて、微妙に寝た振りをしながら宏の様子をうかがっていた結果である。彼の言葉ではないが、正直卒業までに、事務的な会話以外一切話をする機会などないと思っていた相手であり、おおよその人となりは知っていても、この環境下でおかしな行動にでないと断言できるほど信頼できる相手ではなかった。あまりよく眠れなかったのは、モンスターに襲われるかもという恐怖よりむしろ、そっち方面の不安の方が理由としては大きかったぐらいだ。
だが、宏の行動は予想と大幅に違い、春菜から結構な距離を取って、交代の時間までずっと何らかの作業を続けていたのだ。交代時間に起こす時以外は寝顔をのぞきこもうとする気配すらなく、それはもうひたすら無心に鞄を縫い、乳鉢を削り、熊のあばら骨を磨き、一切春菜に興味を示そうとしなかった。面倒で疲れる作業を、多少愚痴る程度でコツコツと続ける姿には好感が持てるが、さすがにここまでガン無視されると、いくら相手が異性としてはアウトオブ眼中といえど、結構傷つくものだ。
しかもこの男、途中で水浴びと洗濯をしてくる、と言っても一切その場から動かず、終わらせて戻ってきてもずっと作業を続けていた筋金入りで、少しばかりは持っていた女としてのプライドが、たった二日でかけらも残さずに完全に粉砕されてしまった。そう言う視線を向けられたのは服装の話が出た時だけで、ランディとクルトが結構無遠慮にじろじろ見てくるまでは、女としてそれほど魅力が無いのかと、完全に自信を喪失していた。
「この状況で、見境なしに襲ってくるよりはいいけど……」
少しぐらいは気にするそぶりも見せてほしいものだ。襲われたい訳でも一線を越えたい訳でもないが、全くそういう方向で意識されないどころか、むしろ積極的に関わり合いになりたくないというそぶりを見せられると、かなりショックが大きい。
(別に、私だからってわけじゃなさそうなんだけど……)
冒険者協会での様子を思い出し、そう結論をつける。どうも、彼は女性と言うもの全般と関わり合いになりたくないらしい。例外として、この宿の女将さんとは普通に話をしていたところを見ると、一定以上の年齢の、ビジネスライクな付き合い以外発生しない相手は大丈夫なのではないかと思う。
この年であそこまでと言うと、結構深刻な何かがあったのかもしれない。少なくとも男色の気がある訳ではないのは、教室で近くを通った時に漏れ聞こえてくるギャルゲーがどうとか言う会話と、服装の話の時の視線ではっきりしている。なのに女性に近付きたくない、仲良くなりたくない、という思考が駄々漏れで、冒険者協会の受け付けや購買担当に対応している時にいたっては、明らかに顔が青ざめていた。状況が状況だけに向こうの二人は気が付いていなかったが、足などは明らかにふるえていた。
あそこまで重度の女性恐怖症となると、これからのつきあい方も慎重にしなければいけない。最初、あまりに淡白な反応に傷ついて、思わず「当ててんのよ」をやろうとしたが、本能的にそれをやると本当の意味で全て終わると悟って、寸でのところで思いとどまった。今にして思えば、よく思いとどまったと自分を褒めてやりたい気分だ。
「明日、ちょっと突っ込んだ話をしたいけど、大丈夫かな?」
いくつか確信が持てずに黙っていた事を告げ、意見を求めたいのだが、向こうがそれをよしと出来る精神状態かどうかが、明日になってみないと分からない。さらに言うなら、話をするのは、出来れば人気が無く、誰かに聞かれる可能性が低い場所にしなければならない。宏自身の事を考えるなら、十分距離を置いた上で、何らかの作業ができるような場所がいい。そんな都合のいい場所があるかどうかはともかく、早急にもっと細かく情報と意見をすり合わせる必要があるのは明らかだ。
何しろ、現状二人の間での統一見解は、知られざる大陸からの客人、と言う肩書での王宮からの支援は、受けない方がいいだろうと言う事と、今回はともかく、これ以降は出来るだけ派手な行動は慎もう、という二つのみだからだ。
「どっちにしても、まずは明日朝の毒消し作りが終わってから、だよね」
帰りにばったり会ったランディの話だと、宮廷魔導師の使い魔を通じて、すでに向こうとはやり取りが完了しているとのこと。使い魔が飛べる生き物でなければ、連絡のためにもう一度無理をする必要があった、と苦笑していた。
その他もろもろの準備もあり、駆除作戦の決行は明日の昼からになるようだ。レイテ村までは比較的距離が近いため、馬を使えば昼から出ても日が高いうちに駆除に移れる。とはいえ、一番必要な準備はやはり毒消しらしく、宏の作業が終われば、すぐにでも出発できるように段取りを組んでいるそうだ。
「明日のためにも、早くご飯済ましちゃおう」
どうせ春菜に大したことができる訳ではないが、多少の手伝いは可能だろう。とりあえず少しでも気力と体力を回復させるために、とっとと食事を済ませようと宏を呼びに行く春菜。翌日の作業が、宏の望みとは正反対に、最も面倒な形で最も深く王宮に関わるきっかけの一つになるのだが、どういう形で関わる羽目になるのか、この時二人は知らなかった。