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第47話

「新学年か~」


「正味な話、あんまり実感わかんわ」


 四月の第二月曜日。ついに大学二年になった宏と春菜は、VRで履修登録を進めながらそんな正直な感想を漏らしていた。


 何しろ、なんだかんだで春休みも畑仕事と実験や試作に追われていたのだ。二人に実感がわかないのも無理もない。


 この間にもいくつか、新たに特許を申請しており、つい先日の春菜の誕生日に無事設立した株式会社アズマ工房は、早くも書類仕事と農作物の売り上げ管理に追われている。


 社長の宏と副社長の春菜の他には、弁理士と経理兼事務員が一人ずつしか社員がいないという小規模な会社としては、上々どころではない滑り出しと言えよう。


「あっ、宏君。その科目はもう単位貰ってるから、今年は履修しなくていいよ」


「そうやったっけ?」


「うん。去年のあれこれで特許取った時に、もっと高度な事やってるからって試験と課題レポートだけで単位貰ってるよ」


「あ~、なんかあったなあ、そういう事」


 春菜に指摘され、うっすらと思い出す宏。


 正直、去年色々ありすぎて、単位の取得状況まで正確に把握できていないのだ。


 余談ながら、この履修登録画面、初期設定では単位を取得したかどうかが分からない設定になっている。宏が単位を取得している科目を登録しそうになったのも、そこを切り替えていなかったからである。


 なぜそうなっているかは単純な話で、VRでの講義受講導入に合わせて作った急造のシステムを指摘を受けてアップデートする方式で改良してきたために、この手の細かな問題点の修正や調整が追い付いていないのだ。


 泥縄式に改良を重ねたためにプログラムの構造が複雑かつ非効率的なものになっているのも、こういう細かいところでの使い勝手の悪さを放置する原因となっている。


 いっそ、一から作り直した方がいいのではと言いたくなる状態ではあるが、予算も時間も致命的な問題もないため、ずっと現状維持を続けているのである。


「とりあえず、今年は基本的に一般教養を重点的に履修して、専門は総合工学部の必修分だけで行けるはずだよ」


「そうか。ほな、その前提で見直しやな」


 春菜に勧められて、履修内容を変更する宏。その際、設定画面を発見して単位の取得情報を表示するのも忘れない。


「……こうやってみると、何のためにやらされたか分からんレポート類、全部単位やる口実になっとんねんなあ……」


「おばさんたちや学長先生いわく、大人の事情が多分に噛んでるらしいよ」


「大人の事情、なあ……」


「まあ、一番大きいのは、去年の年末から今年の頭にかけて学会で発表した論文、複数の博士号に引っかかるらしくて、せめて単位は持っておいてほしい、っていう事情らしいけど」


「なるほど、分からんではない話やな」


 大人の事情の一部を聞き、とりあえず納得はする宏。


 無論、それだけではないことぐらいは分かっているが、追求しても誰も得しないのであえて突っ込まない。


「とりあえず、履修登録はこんなもんでええとして、今日はどないするかやな」


「そうだね。確か、大人しくしててくれって言われたのは、二日ほどなんだよね?」


「せやな。ついでに言うと、こっちで実験とか試作とかデータ整理とかの類を自重せいっちゅうだけで、なんもせんといてくれっちゅうことではないんやけど……」


「ファーレーンには迂闊に行けないから、基本的にほとんど何もできないよね」


「せやねんなあ……」


 春菜に言われ、参ったもんだと頭をかく宏。


 時間がたってエアリスの誕生日に起きた出来事の詳細が広まった結果、現在ほぼ二カ月遅れでファーレーン全土が大騒ぎになっている。


 当初はエアリスが頑張ったおかげで緘口令が敷かれていたが、エルザのうっかりに巻き込まれたアルフェミナにより神殿から詳細が一般人に広まってしまい、誤魔化しようがなくなったファーレーン政府が公式発表せざるを得なくなったのだ。


 一応神となった宏の都合により、婚約は数年後になることも、情勢はまだまだ流動的で確定とは言い切れない事も念押しはしているが、エアリスの幸せそうな様子がすべてを裏切ってしまっているためあまり効果はない。


 その流れで基本的に宏の正妻は春菜であることも規定事実として広まっており、事態が沈静化するまで迂闊にファーレーンに足を踏み入れられない状況になっているのである。


「劇までできてるっていうのが頭痛いよね……」


「ほぼ実話っちゅうんが余計頭痛いで……」


「エルちゃんは『ちょっと厄介な状況になったタイミングでブレスレットが天から降りてきて助けてくれた』としか言ってなかったけど、あの劇の内容通りだとするとものすごい奇跡を起こしちゃった感じだよね……」


「それ自体はええんやけど、第三王子やったかっちゅうアホを脅すんに神罰ちらつかせとったけど、それが事実やったら僕は何もせえへんけど大丈夫なんか?」


「さあ……」


 宏と春菜がファーレーン、それも特にウルスに行きづらくなった最大の理由が、奇跡の瞬間を再現した劇の存在だ。


 二人とも生で鑑賞した訳ではないが、話を聞いた天音から真琴が依頼を受けて、ウルスでもっとも格式高い劇団が演じたものを撮影してきているのだ。


 それをみんなで見て、その内容に宏と一緒に思わず頭を抱えたのは記憶に新しい。


 基本的に劇なので台詞などはかなり盛っているようだが、基本的な流れと奇跡の起こったシーンは誇張無し、どころか演出の限界でむしろ控えめになっているというのは、頭が痛いにもほどがある。


 特にクライマックスシーンとなる、ミダス連邦発祥の国であるミッダストの第三王子が上から目線でエアリスに迫り、周囲を激怒させてエアリス本人に冷たく断られた場面は、エレーナの監修が入っているだけにかなり正確なやり取りとのことだ。


 劇の内容的には、その後エアリスの態度に激怒した第三王子はある事ない事をまくしたててエアリスの名誉を棄損しようとし、更には招待状を届けたまま帰ってきていないファーレーンの大使を盾にとるという外道な真似をしてのけるという、実に分かりやすい悪役ぶりを見せる。


 それだけやってエアリスを苦悩させたところで、神の威をばらまきながら派手なエフェクトと共にブレスレットが降りてきて、所有権を主張するようにエアリスの左腕に巻き付いたのだ。


 目の前で奇跡を起こされ、更に神罰をちらつかされた第三王子は這う這うの体で逃げ出すしかなく、第三王子ほどあくどい真似は考えていなくともメリットとデメリットをカードとして並べてどうにかエアリスを娶ろうとした他の王侯貴族も、みんな揃ってあきらめざるを得なかったという流れで劇は幕を閉じる。


 実際には劇とは違い、もう少し往生際の悪い連中が結構いた。いたのだが、ブレスレットが死なない程度に電撃で威嚇射撃を行ったため、これは無理だ神罰恐いとなって全員諦めたのだ。


 ここまでやっておいて、当の宏はブレスレットを作った以外には全く関与していないというのはエアリス以外には予想外だったようで、エアリスがアルフェミナの証言付きでそれを告げた事により、勝手に進めるとそれはそれで怖いと現状維持が選択されたのである。


 が、本人だけの責任ではないとはいえ、そうなるように工作を行ったアルフェミナ自身がそれをぶち壊したので、ファーレーン政府が開き直ってしまったのだ。


 どうにも、春菜が絡んだ案件では、アルフェミナは運がないとしか言いようのない類の、本人には直接防ぎようがないミスが目立つ。


「……平日は割と簡単に予約取れるし、今から一泊でどこかに遊びに行く?」


「勘弁してえな……」


 春菜の提案を、げっそりした表情で即座に断る宏。


 まだそこまでの踏ん切りがつかないのも事実だが、それ以上にこのタイミングでそんなことをすると、後で他の三人、特に澪がうるさいのが目に見えている。


 学会などの避けようがない事情以外では、泊りがけの旅行は全員の都合がついた時だけにした方が無難であろう。


「じゃあさ、人混みに対するリハビリとして、礼宮庭園に行くとか、どう? 今日は平日だから、ほどほどの人口密度だと思うよ」


「……せやなあ」


 春菜の提案に、少し考えてから頷く宏。


 暇だからといって別段春菜と一緒に行動しなければいけない理由はないのだが、今後の事を考えるならこういう遊びに慣れる必要があるのは間違いない。


 何より、最近の忙しさを考えると、いつまともに遊びに行けるか分かったものではない。こういう機会を逃してはだめだろう。


「ほな、ログアウトしたらそっち行くわ」


「今日は自転車使えないんでしょ? 私が宏君の家に行こうか?」


 今はちょっとした事情で母・美紗緒が自転車を使っており、東家には自転車がない事を思い出した春菜が、宏にそう問いかける。


 美紗緒が自転車を使う羽目になった理由は実に単純で、家を出てすぐに何か妙なものを踏んだらしく、原付バイクの前輪タイヤがバーストに近いパンクを起こしてしまったからである。


 いくら宏といえど、目で見てわかる大きさの穴があいたバイクのタイヤなど、権能も材料もなしで修理することはできない。


 というより、下手に修理して妙なタイヤが完成してしまった日には、どこから誰に目をつけられるか分かったものではない。


 なので、原付はとりあえずディーラーに修理に出して東家に一台しかない自転車を母に譲り、宏自身はバイクの問題が片付くまで日中は歩く、もしくは藤堂家の足を借りることにしたのである。


「春菜さんもいろいろ支度はしたいやろうし、歩いて行ったらちょうどええ時間になるやろうから、歩いて行くわ」


「了解」


 春菜の申し出を、そんな理由で断る宏。宏が気を使ってくれたことに対し、笑顔でそう告げる春菜。


 事情が事情なのだから、それを口実にして外で待ち合わせすればよさそうなものなのに、そんな高等テクニックを使う意識はどちらにも存在しないようだ。


 結局、二人してこれが世間一般ではデートに分類されるという事実に、最後まで気がつかなかったのであった。








「……緊張した……」


「お疲れさま」


 宏達が遊びに行く算段を建てていたのと同時刻、潮見第二中学三年二組。


 いつもの無表情のままぐったりしている澪を、凛が苦笑しながら労っていた。


 もっとも、澪に降りかかった災難は、大したものではない。


 単純に、教師がやや季節外れのインフルエンザに罹患したため自習になり、四月から転入してきた転校生の男子に質問攻めを食らっていただけである。


 なお、現在は見かねたクラスメイトにより言葉巧みに引き離され、うまい具合に雑談で隔離されている。


 そもそもの話、転校生が澪に声をかけてくるのは、新学期が始まってから毎日の事である。


「それにしても、中学三年で転校とか、珍しいよね」


「……言われてみれば」


 凛の言葉に、体を起こしながら澪が同意する。


 その際に、机の上でつぶされていた胸が復元される様を目の当たりにした凛が何とも言えない気分になっていたりするが、最近では割といつもの事なので深くは追及しないことにする。


 こういう姿勢でもなければ冬服の時に巨乳だと分からないのは相変わらずだが、順調すぎるほど順調に育った結果、最近ではついにある程度の厚着でもその巨乳をごまかしきれなくなった。


 それでも、初見では巨乳という印象より小柄で折れそうなほど華奢な少女という印象が先行する点は変わらない。


 澪のような体型だと普通は痩せていてもぽっちゃりしているように見えそうなものだが、不思議なことに春菜同様どんな服を着ても、胸が目立つか否かの違いだけで普通に細身に見える。


 このあたりの理由は永遠の謎であろうが、澪ほどではないが割と細身で胸もDカップぐらいなのにどうにも太ってると見られがちな凛としては、何を着てもちゃんと細身に見えるというその一点のみ、澪の容姿が羨ましいことこの上なかったりする。


「家の都合だって話だけど、普通受験のこと考えるんだったら、進路決まるまでは単身赴任とかになるよね?」


「……正直、ボクはそういうのよく分からないけど、一概にそうとも言えないんじゃ?」


「まあ、そうなんだけど……」


「ボクとしては、むしろ全部のクラスに一人ずつ転校生が来てる事の方が気になる」


「あ~、確かに」


 澪に指摘され、全力で同意する凛。


 どういう事情かは分からないが、今年は全部で四人の転校生が三年に来ている。うち二人は双子なので分からなくもないが、残り二人がどうにも腑に落ちない。


 ちなみに、転校生は全員男子である。


「正直、事情は考えても分からないけど、深雪姉が卒業していなくなった途端にこれとか凄く不安……」


「だよね……」


 澪の不安が凛にもうつったか、二人して目からハイライトが消える。


 何が不安と言って、深雪が卒業した今、潮見第二中学一の美少女は誰かと問われれば、満場一致で澪の名前が挙がるという事であろう。


 転校してきた当初は体重が戻り切っていなかったこともあり、澪より美少女と評価される生徒も何人かは居た。


 だが、それも体重が戻り成長するに従っていつの間にかどんどん追い抜いていき、去年の秋口にはすでに誰もが別格と認める深雪以外、単純な美醜の面では敵はいない状態になっていた。


 その深雪にしたところで、卒業する頃には澪とどちらが上かは好みの問題、というところまで差が詰まっており、春休みに宏との関係が進展を見せたことでさらに魅力に磨きがかかっている。


 今や澪は、人混みに紛れでもしない限りは、街中ですれ違った十人が十人とも振り返って二度見する領域に達している。


 人混みに紛れると注目を集めないのも、単に身長の問題に過ぎない。


 そうなると、必然的に学校のような狭い社会では人目を引きやすくなる。


 そこへ、転校生という新参者、それも男子が投入されるのだ。澪の存在にひきつけられて何か行動を起こす確率は、低いとは言えないだろう。


 現にすでにその兆候が出ていることもあり、ひそかにクラス中が、否、学年中が警戒しているのだ。


「とりあえず、ボクは身体検査が憂鬱……」


「あたしも……」


 理由は違えど、どちらも身体検査は嫌なようで、心底憂鬱そうにため息をつく澪と凛。


 もっとも、成長期という要素を無視して数百グラムの体重変動に一喜一憂する中高生女子の多さを考えると、この年頃で身体検査が楽しみという女の子の方が珍しいのかもしれないが。


「……ん?」


「どうしたの?」


「誰かからメッセージ」


 まだ昼休みまで二時間ほどある、という微妙な時刻に、唐突に届いたメッセージ。


 澪の関係者は、普段この時間にメッセージを送ってくることはない。そして、スパムメッセージは基本、天音特製のソフトにより鉄壁のガードではじいている。


 それだけに、誰からなのか、何があったのかが不思議で仕方がないのだ。


「……春姉から? ……むう……」


「どうしたの?」


「春姉がエルとアルチェムを連れて、今から師匠とデートだって……」


「あらら……」


「完全にボクだけハブられてる……」


 春菜からのメッセージ内容に、思わず不本意そうな声でそう漏らす澪。


 その内容に、ご愁傷さまという視線を向けてしまう凛。


 普段なら絶対に送らないであろうメッセージのタイミングからして、恐らく春菜にとっても唐突に決まったのだろうが、一人だけ除け者にする形になっているのは感心できない話ではある。


 特に凛的に春菜は基本的にこういう部分では公平さにこだわるタイプだと思っていたため、なんとなく裏切られたような感じがして余計に感心できない印象を持っている。


 もっとも、当事者である澪が文句を言う分にはともかく、基本的には部外者でしかない凛が非難すると角が立つ。その事をわきまえて黙っているぐらいには、凛もよくできた娘さんである。


 なお、凛と総一郎は、直接面識こそないものの、エアリスとアルチェムの存在は教えられている。


 さすがに異世界云々までは聞かされていないが、澪に直接かかわってくるからと、宏を取り巻く難儀な人間関係の説明は一通り聞いており、その一環としてエアリスとアルチェムについても割と詳しく教えられているのだ。


「てかさ、澪ちゃん。今思ったんだけどさ」


「ん」


「春菜さんって、もしかして今回の事、デートっていう認識も意識もないんじゃない?」


「多分ない。でも、それとこれとは別問題」


「あ~、まあ、確かにそうだけど」


 不機嫌そうに言い切る澪に、苦笑しつつ同意するしかない凛。


 結局、帰宅部の生徒は終了となる五時間目の終わりまで、澪の機嫌が戻ることはなかったのであった。








「澪ちゃん、怒ってるだろうなあ……」


「なんだか、私の都合で皆様を振り回してしまって、とても申し訳ないです……」


「緊急避難とはいえ、連絡なしで押しかけちゃいましたからね……」


 澪がメッセージを受け取ってへそを曲げているのと同じころ。


 藤堂家では、春菜達が申し訳なさそうにしながら、出かける準備を進めていた。


 なお、徒歩で藤堂家へ向かっている宏はまだ到着していない。


 一応エアリス達が来たことについては連絡しているので、更に気を使ってゆっくり歩いている可能性はなくもないところだ。


 普段の言動のせいであまりそういうイメージはないが、実は割と妙なところで気が利く、というか気を使う傾向がある宏であった。


「エルちゃん、アルチェムさん。服は大丈夫? ちゃんと着れる?」


「ええ。多分これで大丈夫だとは思うのですが、ハルナ様、どこかおかしいところはありますか?」


「……大丈夫。間違ってるところとかもないし、よく似合ってるよ。アルチェムさんも大丈夫そうだけど、事故が起こったら大変だから念のため確認しておいた方がいいかな?」


「あっ、お願いします」


 着替え終わったエアリスをじっくり確認した後、アルチェムを徹底的にチェックする春菜。


 よほど慌てて逃げてきたらしく、エアリスもアルチェムも神官衣のままこちらに移動してきていた。そのため、日本でも浮かない服装に着替える必要があったのだ。


 なお、目立たないようにというのは、最初から考えてもいない。


 このメンバーが集まって、目立たないようにするなど、どうやっても不可能だ。


 そもそもの話、美醜を横においても、日本において平均身長が百六十センチ台後半で映画で見るような綺麗な金髪と銀髪の女性が三人も集まっていれば、どう頑張ったところで人目を引いてしまうのである。


「うん、大丈夫そう。これなら、少々の事があっても脱げたりはしないはず」


「……良かった……」


 春菜のお墨付きをもらい、安堵のため息を漏らすアルチェム。


 アルチェムは去年の夏休みの滞在で、日本でいつものような脱衣系エロトラブルが発生すると、自分以外に対して致命的なペナルティを押し付ける羽目になる、という事をしっかり認識している。


 それだけに、ありえないような連鎖反応で宏がラッキースケベに巻き込まれるパターンには目をつぶるしかないにしても、脱げる系と脱がす系は確実に防がなければいけない事はよく分かっている。


 なので、まずは自分の服が絶対脱げないように、注意できるだけ注意しておきたいのである。


「まあ、一枚二枚脱げても大丈夫なように、パージできるパーツも多めに用意してはいるけど」


「そうですね」


 春菜の台詞に、笑顔でうなずくエアリス。


 今日の春菜達の服装は、上半身が薄手のTシャツの上にブラウスを重ね着し更にカーディガンを羽織ることで、一見してさほど重装備ではないように見せながらも、その実暑くならない限界までガチガチに着込む形にしている。


 下半身も黒のストッキングの上にショートパンツをはき、更に巻きスカートを身に着けることで極力露出を抑え、ポロリやチラリがあっても下着や素肌は可能な限り見えないようガードしている。


 これだけあれこれ身に着けてもゴテゴテしているように見えない、どころかすっきりとシンプルに上品にまとまっている印象なのは、身に着ける人間の素材がよいだけでなく、本人の自覚以上に春菜のファッションセンスが優れているという事もあるだろう。


 ちなみに、ブラウスはアルチェムが胸を張るような動作をしてもボタンが飛んだりしないよう、胸元は若干余裕を持たせた構造になっている。


 もっとも、ボタンが飛んだら飛んだで、下に着こんだTシャツを利用してそういうファッションに見えるよう工夫はしてあるので、どちらにしても現段階ではさほど心配は必要ない。


「そろそろ宏君がつく頃かな?」


 春菜の言葉が終わるかどうか、というタイミングで、玄関のチャイムが鳴る。


「は~い」


 反射的に気配を読んで宏であることを確認しつつ、とりあえずいそいそと玄関の方へ移動する春菜。


 既にセキュリティの登録も終わって玄関の合鍵も渡してあるので出入りは自由になっているのだが、藤堂家の家人か真琴が一緒の時以外、宏は毎回律儀にチャイムをならす。


 実質的にウルスの工房をはじめとした何個目かの自宅と同じ状態になっているにもかかわらず、未だにこのあたりの線引きをきっちりしているところが、宏の潜在意識の表れなのだろう。


「待たせてもうた?」


「大丈夫。ちょうどいいぐらい」


 いつもの作業服にジーンズという宏を見ながら、笑顔でそう告げる春菜。


 ちなみに、宏の作業服にはいくつかバリエーションがあり、今日着ている作業服はちょっとした外出に使うための、汚れていない新品に近いものである。


 この時点で、少なくとも宏には、本日の内容がデートなどの特別なものであるという意識は皆無だという事が分かる。


「じゃあ、出かけ……。あっ、ちょっと待って」


「どないしたん?」


「ちょっと、今日一緒に遊びに行くメンバーの組み合わせを、頭の中で並べてみたんだけど……」


「なんか問題でもあった?」


「問題っていうか、むしろ宏君は作務衣を着た方が、お互いに安全かもしれないな、って」


 春菜の言葉を聞き、自分の周りに春菜とエアリス、アルチェムを配置してみる。


「……ああ、なるほど。作務衣やったら、日本文化に興味がある外国人を案内してる、っちゅう風に見える訳か」


「パッと見は、そういう感じに誤魔化せるかな、って」


「せやな。しかも、行き先が礼宮庭園やから、わざわざそういう組み合わせに絡んでくるナンパ系はそうおらんか」


「うん」


 春菜のセンスに、感心したようにうなずく宏。実はひそかに、日本人にはまず見えない事に対してコンプレックスを持っているとは思えない、とてもしたたかな判断である。


 まあ、昔から面倒くさそうな相手には、日本語が分からないふりをしてネイティブな英語やフランス語、ロシア語などで追い払ったりしていた春菜なので、このぐらいの事は今更なのだろうが。


「ほな、ちょっと着替えてくるわ」


「うん」


 春菜の意見を受け入れ、普段から使わせてもらっている部屋に移動して着替える宏。しっかり作務衣や作業服が常備されているあたり、もはや自室と変わらない。


 それを待っている間に、春菜は出かける際に持ち歩くものをチェックしていく。


 全ての準備が整い、出かけることができたのは五分後の事であった。


「とりあえず、澪は今日五時間目で終わりのはずやから、合流できるんは三時ごろやな」


「うん。だから、それまではあんまり澪ちゃんが興味を持たない感じのものに絞りたいんだ」


 運転席に座ってシートベルトや車の起動操作などをしながら、宏が助手席の春菜と本日の予定を話し合う。


 澪不在の時に春菜とエアリス、アルチェムの三人が宏と一緒に行動する、というのはどうしたところで変えられない。


 なので、せめて単に時間つぶしをした、という体でごまかしがきく範囲にしておきたい、という点でこの場にいる四人の意見が一致したようだ。


「せやなあ……。あれで結構博物館系は好きやから、そっちは避けるとして……」


「美術館は展示によるって感じだけど、今やってるのは多分、あんまり興味ないんじゃないかな?」


「今、美術館はどんな展示なん?」


「現代の前衛芸術。それも絵画中心」


 春菜の説明に、嫌そうな表情を浮かべる宏。


 まず大前提として、宏は案外美術館や博物館は嫌いではない。ほどほどに人口密度が低く、インスピレーションを刺激するものが多く、また自身の教養を深めることができると、プラスになるポイントが非常に多いからである。


 ただし、そんな中でもやはり苦手な分野はある。


 その中でも特に苦手なのが、古典現代問わず抽象美術全般である。


「抽象画か……。ぶっちゃけ、僕はあれ見て意味わかった事ないんやけど、春菜さんはどない?」


「ものによる、ってところかな? 古典のものは割と写実的な抽象画もあるからいいんだけど、近現代に多い模様の羅列みたいな絵の場合、どんなテーマでどんな意味でどんな意図を持ってって解説されても、正直理解できない事の方が圧倒的に多かったよ」


「あ~、春菜さんでもか……」


「うん。これが音楽ならまだ理解が追い付くんだけど、絵は基本的に守備範囲外だからね。これが分からないと教養が足りないって言われても、みたいなのも結構……」


 春菜の正直な言葉に、安心したようにため息をつく宏。全面的にではないにせよ、所謂上流階級の教育を受けてきた春菜でも、教養としても理解できない美術というものがあるのは、今後の付き合いの方向性を考えると助かる部分である。


 芸術というやつは究極的には、感性に合うか合わないかが全てだ。生まれや育ち、受けた教育に関係なく、感性に合わなければどんな名品でも理解できない。


 そして、人間の感性というのは千差万別で、同じ環境で同じ教育を受けてずっと一緒に行動して育った双子ですら、全く違う感性を持っていることも珍しくない。


 その要素が、特に極端に出るのが前衛芸術というやつだろう。なにしろ、よほど具体的な何かがない限り、写実主義のもののような最低限の共通認識すら得られないのだから。


 それだけに、展示されているものの大部分が大多数の人間にとって理解不能、となることも珍しくないのが前衛的な芸術の展覧会が持つ特徴なのかもしれない。


 もっとも、一番難儀な要素は、誰にどの作品が突き刺さるか、見てみないと分からない事かもしれないが。


「まあ、本当に教養がある人は、そういう感性の部分をちゃんと尊重してくれるんだけどね」


「そういうもんなん?」


「そういうもの」


 疑わしそうな宏に対し、春菜がやたらきっぱりと断言する。


 誰もが品性と教養を認めるような人物の間ですら、好き嫌いや評価が分かれるのが芸術だ。


 それだけに、品性と教養を兼ね備えた人物の場合、他人の感性や評価を否定することは翻って自分の感性を否定するのと同じ、という認識がある人が多い。


 なので、よほどでない限りは、自分と意見が合わないからといって見る目がないとかその類の評価を下すことはしない。


 逆に言えば、自分がいいと思わなかったものはそう簡単には評価を変えない、という事でもあるのだが。


「まあでも、展示の仕方や保管の良し悪しに文句をいう事はない訳じゃないけど」


「僕みたいな庶民が個人で持ってるんやったらともかく、美術館とかが保管とか展示ミスっとったら、そら文句言わなあかんやろ」


「そうなんだけど、これが意外とねえ……」


 春菜の言葉に、そういうものかと深く追及するのをやめる宏。


 これ以上は、自分のキャパシティを超えると判断したようだ。


「で、エルとアルチェムは、こういう芸術関係はどんな感じなん?」


「私は、神殿育ちだという事もあって、実は芸術というものにあまりなじみがありません」


「そうなんや。それは意外やな」


「神殿美術にはそれなりに詳しくはありますが、ウルス城に飾られているような壺や絵画に関しては、きれいだとは思ってもいいものなのかどうかはさっぱりだったりします」


「……神殿美術、ねえ……」


 エアリスの意外な言葉に、いまいちピンと来ないという感じの声を漏らす春菜。宏もあまりよく分かってはおらず、せいぜい「最後の晩餐」のような宗教画やマリア像などの彫刻と同じようなものだろう、という認識でしかない。


 実際にはアルフェミナをはじめとした神々が実際に評価を下しているので、それらとはまた微妙に違ったものではある。


 が、神々やそれに準ずる超越者が身近になったのが最近である宏や、元から身近ではあってもエアリスとは違った意味で近すぎる関係だった春菜では、そんなことに気が付けるわけがない。


「個人的にはお城の絵画よりは、東海道五十三次や富岳百景などの所謂錦絵や日本画と呼ばれるものの方が好きです」


「何となく、それは納得いく感じのチョイスかな」


 日本かぶれの外国人のようなエアリスの発言に、思わず笑顔になりながら春菜が言う。


 宏達に心身ともに色々と救われてきたからか、エアリスは前々から日本びいきなところが多分にある。


 それがどうにも日本に来るようになってから加速している節があり、いまや少なくとも蓉子たちよりは日本文化に精通している。


 それを考えると、日本かぶれの外国人のような、ではなく正真正銘日本かぶれの外国人そのものだといっても過言ではないだろう。


「アルチェムさんは、美術館とか興味ある?」


「……えっと、美術品とそうでないものの境界線がよく分かりません。綺麗かどうかとか上手い下手は分かっても、壺はあくまで壺だし、絵も同じぐらい上手だったら画家が描いたものと子供が描いたものとは違いが分からないので、画家が描いた方が価値があるといわれてもピンと来ないですし……」


「そのあたりは僕もよう分からんから安心し」


「実は、私もあんまり分かってないんだよね」


「えっと、お恥ずかしながら、私もそのあたりは全然……」


 アルチェムの意見に対し、車内の全員が自分もそうだと白状する。


 森の奥地に住むエルフ(田舎者)と世界最大の王国のお姫様が美術品に対して同じ感覚を持っている、というのもなかなか興味深い話だが、世界の壁を隔てた国に住むセレブな音楽一家の娘と一般庶民の男のカップルとも感覚が一致するというのは、かなり面白い話だろう。


「まあ、礼宮庭園の各種施設については人数分の年間フリーパスがあるし、分からなくても入館料を損した、みたいなことにはならないだろうから、ちょっと冷やかしに行くぐらいに思っておけばいいんじゃないかな?」


「せやな」


「あと、北斎と広重は日本絵画館の常設にいくつか展示してあるから、後でそっちも見に行こうか。富岳百景とか、礼宮家所蔵のフルセットが展示されてたはずだし」


「はい!」


 春菜の言葉に、嬉しそうに返事をするエアリス。アルチェムも訳が分からない作品が多い、という説明に、それはそれで楽しみなようだ。


 そんな話をしているうちに、礼宮庭園の一般向け駐車場に到着。新年度初頭の平日、それも午前中の微妙な時間帯という事もあり、ゲート近くの比較的いい場所に車を停めることができる。


 葉桜になりかけではあるがまだ花が残っている桜を愛でながら、ゆっくり美術館に向かって歩くこと二十分強。


 美術館の建物が見えてきたところで、入り口前にある見覚えのないオブジェを目にした宏達の足が止まる。


「……何や、あのオブジェ……」


「……あんなの、あったっけ?」


「僕が知るかいな……」


 あまりに微妙なデザインのオブジェに、宏と春菜がうめくようにコメントする。


「……ヒロシ様、私にはあれ、ポメの顔をしたオクトガルに見えるのですが……」


「……それ言われたらそういう風にしか見えんで……」


「……だよね……」


「……あの、ヒロシさん、ハルナさん。私にはポメの頭部に蜘蛛の足が生えてるように見えるんですけど……」


「……あ~、そうも見えるかも……」


 初見では何とも形容しがたい、だがエアリスやアルチェムが言ったように、ポメの頭部に何やらいろんなものが生えているという表現をすればそうとしか見えなくなる類のオブジェに、なんとなく遠い目をしたくなる宏達。


「……これ、今回の特別展がものすごく不安になってくる前振りだよね……」


「……せやな……」


 春菜の言葉に、全面的に同意せざるを得ない宏。


 結局、この時の展示品は全般的に半端に知っているものに見えるものばかりで、全く理解できない方がマシという勢いで精神的な何かをがりがりと削られていく宏達。


 それでも一度入ったのだからと律儀に最後まで見た結果、他の来館者に比べて派手に疲弊した状態で出る羽目になり、澪と合流したときにはすっかりグロッキーになっていた。


「……師匠、春姉。なんだかすさまじく疲れてるみたいだけど、一体どんな内容だった?」


「……正直、今回の美術館は大失敗やった気分やで……」


「……いくら不可抗力でも、やっぱり一人だけ仲間外れにするような事したら駄目だよね……」


 澪の内容に対する問いかけに、直接的な答えを返さない宏と春菜。その反応に、ますます不安が募る澪。


「……そんなにすごかった?」


「……そうですね。多分、私達でなければ大したことはなかったのでしょうけど……」


「……多分、見ないと分からないとは思いますが、仲間外れ的な状態にしたミオさんに今からわざわざ時間を割いてもらってあれを見ろというのは……」


 エアリスとアルチェムの言葉に怖いもの見たさ的な好奇心が膨れ上がりつつ、だが今からそれを見るというのもちょっと、という気分で悩む澪。


 それを察した宏が、何やら写真を投影しながら澪に声をかける。


「……とりあえずの前振りやけど、これ、美術館の前に期間限定で設置されとるオブジェやねんわ」


「……なにこれ?」


「……後で知ったテーマは『自由への渇望』らしいんやけど、澪には何に見える?」


「ポメ顔の名状しがたい多脚生物?」


「……まあ、そんなところやろうな。ちなみにエルはポメ顔のオクトガルっちゅう評価で、アルチェムはポメ顔の蜘蛛っちゅうとったか」


「……あ~……」


 宏の説明に、なんとなく納得の声を上げる澪。


「で、まあ、こんな感じのどっかで見たような何かを邪悪な感じに魔改造してさらに変なエフェクトかけるタイプの画像処理した、っちゅう感じの絵とか彫刻とかオブジェとかが山ほど展示されとってなあ……」


「……それ、広報ページとかに載ってなかったの?」


「一番有名な目玉作品ぐらいしか、写真は載せてないからね。で、そういう作品に限って、ピンポイントで普通というかちゃんと芸術作品に見える感じだったから……」


 春菜が口にした事情に、それもそうかとうなずく澪。


「まあ、今日のところは適当になんかおやつ食べて、軽く冷かして回って帰ろっか」


「ん」


 時間的にも精神的にも、博物館だの植物園だのという気分ではなくなったこともあり、とりあえず無料ゾーンを適当にうろうろして回ることにする一同。


 誰も意識はしていないが、結局二度目のデートも失敗に終わる宏達であった。

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