プロローグ
ついに後日談開始です。
熊本の地震の前に書いたものなので転移ゲートの絡みで妙にタイムリーになってしまった描写があり、どうするか少し悩みましたが、過敏になるのもどうかと思ってそのまま掲載させていただきました。
ご了承いただけたらと思います。
「……春菜ちゃん、大丈夫?」
「……今になって、かなり緊張してきたよ……」
四月二十八日午前九時二十五分。約束の時間の五分前に到着し東家の前で車を降りた藤堂春菜と綾瀬天音は、宏達が出迎えの準備万端で待っている家を見ながらそんなやり取りをしていた。
余談ながら、東家は敷地面積四十坪ほどとそこそこの広さを持つ二階建ての一軒家だが、駐車スペースは一台分しかない。なので、天音は自身が運転してきた車を、クレジットカードのような見た目のカードに変え、財布に収めることで駐車違反を回避している。
この技術、コストの高さや悪用可能な範囲の広さから一切公表されていない、天音が独自に握っている技術だ。
「まあ、好きになった人のご両親と初めて顔を合わせるんだから、緊張するのはよく分かるけどね」
「ごめんなさい。時間押してるのに、こんな土壇場で怖気づいちゃって」
「まだ多少時間はあるから、大丈夫」
いつになく動揺している春菜に対し、髪の色を別にすれば春菜自身とも母親ともよく似た顔に苦笑を浮かべながら天音がそういう。
天音と春菜がよく似ているのもある意味当然で、天音と春菜の母雪菜は遺伝子学的には異父姉妹になる。
というのも、春菜の母方の家系は一卵性双生児が生まれやすく、しかも高確率で遺伝子の型が一致する。天音の母と雪菜の母もこのタイプの双子であり、天音と天音の双子の妹の美優、それから雪菜の三人も髪と瞳の色をそろえればそっくりな顔になっていた。
とはいえ、天音は二十世紀末に存在が確認された、遺伝子性毛髪色素異常という毛髪の色素がメラニン色素以外になる遺伝子病のおかげで、髪の色が青いというある意味圧倒的な個性を持つ。そのため、顔だちそのものはよく似ていても、春菜とも雪菜とも随分違う印象を受ける。初見でそっくりな顔をしていることに気が付く人間は、おそらくそれほどはいない。
なお、この遺伝子病、発見された当初から比べると発症率が年々増えているとはいえ、それでも百万人に一人ぐらいというかなり珍しい遺伝子病だ。
天音の存在とその希少性からいろいろ凄そうな印象を与える病気だが、実のところ患者の増加と長年の研究により、髪の毛の色素以外に特に健常者との違いもなく、色素異常を起こす遺伝子も必ずしも遺伝しないことが判明している。そのため、最近では珍獣を見るような眼で見られる以上の実害はなくなったが、この病気の患者として最初に発見された世代唯一の生き残りである天音は、それはもう色々といらぬ苦労をしてきている。
「まあ、とりあえず深呼吸して」
「う、うん」
天音に言われ、大きく深呼吸をする春菜。三度ほど深呼吸を繰り返したところで、ようやく気持ちが落ち着いてくる。
「ごめんなさい、もう大丈夫」
春菜の自己申告に、天音が念のためにその様子を確認する。本当に大丈夫だと判断して一つうなずくと、容赦なくインターホンを押す。
二十世紀末ごろからそれほど変わらぬチャイムの音と同時に、中で人があわただしく動く気配。数秒後、インターホンのスピーカーから、宏の母親と思われる中年ぐらいの女性の声が聞こえてきた。
『はい?』
「ご無沙汰しております。綾瀬です」
『は~い!』
ごく一般的なやり取りの後、すぐに玄関のドアが開く。中から出てきたのは、なんとなく当たりが柔らかそうな、愛嬌のあるごく普通の中年女性であった。その後ろには、宏もいる。
「いらっしゃい、春菜さん」
「おはよう、宏君。今日はよろしくね」
春菜が身構えているのと母親の顔に不審そうな表情が浮かびかかっているのを見て取った宏が、先手を打って春菜に挨拶をする。そんな宏の気遣いに気が付いた春菜が、嬉しそうに挨拶を返す。
宏と春菜の仲睦まじそうなやり取りに驚きのあまり頭の中が真っ白になり、来客に対する挨拶も忘れて硬直する宏の母・美紗緒。完全にパニックになったまま、恐る恐る天音の方に視線を向ける。
天音がニコニコと満面の笑みを浮かべてうなずいたところで、ある意味において美紗緒の精神が限界を超えた。
「お父さん、お父さん! 大事件や!」
東家的に捨て置けない、ありえないと思っていた大事件。その発生に、初対面の人間がいることもまだ土曜日の朝早い時間帯であることも忘れて、思わず大声を出す美紗緒。
「こんな朝はよから大声出したら、近所迷惑やろ……」
妻のらしくない大声を聞いて奥から出てきた宏の父・孝輔が、怪訝な顔をしながら、これまた宏の父親らしいどことなく柔らかい口調でたしなめる。だが、そんな態度も、妻からの報告と、宏と春菜の実に気安い、仲睦まじい態度と雰囲気に一瞬で吹っ飛ぶ。
「宏が、宏が女の子と仲良うしとる!?」
「しかもあんな別嬪さんやで!?」
「どんな奇跡や!? それともなんかの罠か!?」
女の子に敵意を込めて睨まれるだけで吐いてガタガタ震えてパニックを起こしていた宏が、ものすごい美人でモテまくりそうな女性と仲良くやっている。しかも、よほどの節穴でもなければ、間違いなく女性の方が宏にぞっこんだと分かる態度で、である。
宏の両親がパニックを起こすのも、無理はない事であろう。
「おとん、おかん。お客さんの前やで。細かい話は中でしようや」
「せ、せやな」
「綾瀬教授が連れてくるぐらいやから大丈夫やとは思うけど、あの子が誰なんかはちゃんと説明してや」
「分かっとる」
今までの積み重ねによる不信感と天音に対する信頼、その狭間で揺れ動く両親を苦笑しながら宥める宏。春菜の事が重要なのは認めるが、朝っぱらから玄関先で近所迷惑も顧みずに騒ぐことではないのも事実だ。
とはいえ、東家ではこれまでに一度も春菜の名前は出ていない。仲良くなったのがフェアクロ世界に飛ばされてからなので当然ではあるが、それだけに春菜とどういう理由で仲良くなったのか、説明するのが実に難しい。
そのあたりの期待を込めて、懇願するような表情で天音に視線を向ける宏。宏の視線の意味を察し、同じように天音を見る春菜。二人の視線を受けて、天音が真剣な表情でうなずく。
結局、ややこしい問題はすべて天音に丸投げする宏と春菜であった。
「……そんなことが」
「はい。ですので、今日を含めた三連休は、私の研究室の方でご子息を預からせていただくことになります。その際に、せっかくの機会ですからもっと詳細にカウンセリングを行い、現状把握と新技術での治療についての検討を行いたいと考えています」
天音のもっともらしい説明を聞き、納得したようなしていないような表情でうなる父・孝輔。母・美紗緒もどことなく信用しきれていない様子を見せる。
「それは、願ってもない話なのですが……」
「……やっぱり、信用していただけませんか」
「いえ、全部信用できへん、っちゅうわけやないんです。はっきり言うと、預かっていただく、っちゅうんと新技術での治療を検討していただく、っちゅうんはええんです。むしろ、こっちからお願いしたいところです。ただ、その前の説明が何っちゅうか……」
そこまで言って、言葉を濁す孝輔。そのフォローをするように、美紗緒が口を開く。
「その、何っちゅうか、宏と春菜ちゃんの身に起こった、っちゅう話が、どうにも、全部嘘やないけど真実は語ってへん、っちゅう感じがしてしっくりけえへんのんです」
「そうそう。そういう感じですわ。やっとったゲームに外部からの侵入があってネットワークエラーの類が起こった、っちゅう辺りはともかく、その後がなんか……」
美紗緒の言葉に乗っかり、どこに引っかかりを覚えたのかを告げる孝輔。そんな両親の妙な鋭さに目を丸くする宏と、親という存在の凄さに小さくため息をつく春菜。それぞれの反応を見て、天音は自身が把握している範囲の事を全て告げることを決める。
「やっぱり、なんぞ話したらまずい事がありましたか……」
「いえ。別に知られるとまずい話ではないんです。ただ単純に、正直に話しても信用してもらえない類の話だったので、とりあえず無難なストーリーに置き換えて話しただけです。問題があるから隠そうとしたとか、お二人を騙そうとしたとか、そういう事情ではありません。それに、本当の話はもっと荒唐無稽なだけで、内容的にそんなに大きな違いもありませんし、ね」
「内容がもっと荒唐無稽になって、正直に話しても信用されん可能性があるっちゅうと、うちの息子は異世界にでも飛ばされました?」
「はい。東宏君は昨日、ゲームをしている最中に起こったいくつかのトラブルが重なった結果、ものの見事に異世界に飛ばされ、向こうで運よく合流できた春菜ちゃん達と一緒に頑張って日本に自力で戻ってきました。その過程で肉体的にいろいろ変化があったので、そのあたりをどうするかゴールデンウイーク前半の三連休の間に全部解決する必要が出ています」
半ば冗談のつもり、というより冗談であってほしいという願望を込めて孝輔が口にした言葉を、天音があっさり肯定する。あまりにあっさり肯定され、反応できずに硬直する宏の両親。
「ただ、私の立場から申し上げますと、既に終わってしまったことで、この後やらなければいけないことも同じですので、今となってはどちらであっても変わらないと考えています。また、理由がどうであれ、宏君が主観時間で一年以上、春菜ちゃんや他の仲間と一緒に頑張っていくつものトラブルを乗り越えてきたこと自体は厳然たる事実です。私の事はいくら疑っていただいてもかまいませんが、それだけは認めてあげてください」
「……いえ。綾瀬教授が事実を教えてくださってるんは、分かります。内容的にそんな嘘ついても何の意味もありませんし、この場で冗談でそういうことを言う人やない、っちゅうんはようわかってますし」
「それに、息子の変わり具合見とったら、はっきり言うて救助の当てがない環境に送り込まれて乗り越えてきた、っちゅう方がしっくりきます。私も主人も、それが分かる程度には息子を見てきたつもりです」
「ただ、しっくりは来るけど、どないしても常識っちゅう奴のせいで受け入れ辛いんですわ」
「ちゅうかな、おとん。こんな話、自分で経験してへん人間が普通にあっさり受け入れたら、そっちの方が頭疑うで」
常識が邪魔していることを正直に告げる父に、思わず突っ込みを入れてしまう宏。自分の事なのに身も蓋もない事を言う宏に、その場にいる全員が思わず苦笑する。
「とりあえず、そのうち間ぁ見て証拠になりそうなもん見せるから、今は無理に納得せんでもええで」
「納得してへん訳やないで。単に、常識で考えて、ええ歳こいたおっさんがこんな話真に受けてええんか、っちゅう悩みがあるだけやで」
「そこはもう、綾瀬教授の実績を信じた、っちゅうことでええやん」
「せやなあ」
宏の言葉にうなずく孝輔。正直な話、天音なら異世界とやらを観測する手段や行き来する手段を持っていても、誰一人本当の意味では疑わないだろう。何しろ公にされていないだけで、すでに日帰り旅行で助手と数名で外宇宙に行ってこっそり拠点を作って帰ってくるという偉業を達成しているのだ。今更異世界に行けます、と言ったぐらいでは驚くことはあっても疑う理由が薄い。
一見して温厚で常識的な女性である綾瀬天音だが、その発明品はいつでも世界を完全に変革できるものばかりだ。身も蓋もない事を言うなら、天音の実績は宏の完全上位互換である。
それを使って事を起こさないところが常識的だ、と判断されているのは皮肉だが、裏を返せばそう言われてしまうぐらいにはマッドな物を作りまくっているのである。
それらの大半が身の安全を守るための手段になっているあたり、温厚ではあっても普通の感性はしていない感じではあるが。
「っちゅうことやから、うちらの身の上に起こったことはそれで終わりにして、さっさと今後の話に移ろうや」
「せやな。しかし、宏にこんな綺麗で優しくて気立てのええ彼女ができるとはなあ……」
「おとん、おとん。おかんと姉ちゃん以外で一番信頼できる女の子なんは否定せえへんけど、別段彼女っちゅうわけやないで」
「なあ、宏。春菜ちゃんが嫌がってるんやったらともかく、どう見てもそうやないやん。春菜ちゃんが本気で宏も嫌がってないくせにそんな贅沢言うん、お母さんは許さんで」
「贅沢て……」
これを逃せば、いろんな意味で宏に次などない。そんな焦りもあって、宏の主張を半ば強引に蹴散らそうとする孝輔と美紗緒。そんな異常なまでに必死な両親の姿に、思わず絶句する宏。
確かに、これだけ春菜から好き好きオーラを浴びせられながら、それでもまだ友達だと主張するのは間違いなく贅沢だろう。女性恐怖症という背景がなければ、恐らくあちらこちらから(半ば以上冗談ではあろうが)やっかみ交じりのつるし上げが始まるであろうことは想像に難くない。
だが、これまでの実績を横においてビジュアルや性格だけに焦点を置いた場合、たかが宏ごときが春菜の彼氏であると主張するのは、それはそれでものすごく贅沢な話ではある。春菜の態度がここまであからさまでなければ、いや、これだけあからさまであるからこそ、ダサいヘタレの癖に何を思い上がっているのか、と全力で叩かれること請け合いだろう。
そのあたりの認識があるだけに、宏としては何とも言い難い部分がある。
「あの、小父様、小母様。その話はそれぐらいで……」
あまりに先走ったことを言い出す宏の両親を、困ったような表情で一生懸命宥めようとする春菜。おっとりした口調故にそうは感じないが、これでもかなり慌てている。
春菜相手であればそういう話をしても大丈夫、と見切り、さらに春菜の気持ちも踏まえた上で宏にそう畳みかけるあたり、さすが両親だけあってよく見ていると感心するしかない所ではある。あるのだが、黙って見過ごせることでもない。
日本に戻ってきて初めて直接顔を合わせることや、その初めての場で宏の両親とも顔合わせする事に浮かれ、うかつにも本心をダダ漏れにしてしまった春菜だが、実のところあまりこの展開はありがたいものではないのだ。
「なんやのん、春菜ちゃん。そんだけダダ漏れやのに、えらい奥手やん」
「あまりこういう外堀を埋めるやり方は申し訳が立たない相手がいる、っていうのもありますが、それ以上にまだ、私自身宏君とこのまま仲を深めてしまって、まだ完治していない彼の負担にならないのか、っていう部分に自信がありません……」
「あ~、そっか。せやなあ」
外堀を埋めるような流れがありがたくない理由を正直に告げ、気持ちはありがたいのだが、と頭を下げる春菜。その理由のうち前半をわざとスルーした上で後半の部分に理解を示し、感謝と感心が入り混じった言葉を漏らす美紗緒。だが、すぐに違う問題に気が付く。
「ただ、それやったらちょっと、気になることがあるんよ」
「気になること、ですか?」
「せやで。うちの子をそんなに好きになってくれたんは親として物凄くありがたいし、そこを心配してくれるとかいくら感謝してもしきれんぐらいやけど、春菜ちゃんは宏と同じクラスやんな?」
「はい」
「春菜ちゃんが頑張って隠そうとしてくれる、っちゅうんは信用するけど、まず間違いなくばれるで。春菜ちゃん絶対モテるはずやから、よう見とる人間も多いやろうしな」
美紗緒の指摘に、孝輔も大きくうなずく。天音は何も言わないが、恐らく同じ意見であろう。
「私も、あまり接点がない人相手ならともかく、友達や親戚、家族なんかには一発で見抜かれるだろうな、とは思っています」
「それやったら、無理に隠そうとせんでもええやん」
「春菜ちゃんのそのあたりについても、これからする今後の話に含まれています」
このまま見守っていると、話がいつまでたっても終わらない。そう判断した天音が、横から口を挟む。
やや強引ながらも天音が横から割り込んだことで、宏の両親も春菜をつつくのをやめて今後の話に意識を切り替える。その様子に、誰にも気づかれないように小さく、だが深く安堵のため息を漏らす春菜。
言われるまでもなく、春菜は自分が気持ちをダダ漏れにした場合、特に学校において宏が背負うリスクをちゃんと認識している。まだここなら宏のホームであり、両親も踏み込んで大丈夫な範囲というのも理解しているのでまだましだが、学校ではそうもいかない。
とはいえ、この件に関しては、春菜は自身の自制心や感情の制御能力を一切信用していない。誰もが見てわかるほどダダ漏れにはしないつもりだが、宏の両親に告げたように、ずっと一緒に行動してきた身内や親友たち相手に隠し通せるとは欠片も思えない。
そして今回の件で最大の問題は、リスクや負担が全て宏にかかってしまう事である。
春菜が勝手に好きになったというのにそれは、申し訳ないどころの騒ぎではない。なので、出来るだけ早い段階で親友たちをどうにか抱き込んだ上で、下手なプレッシャーをかけずに見守ってもらう体制を作り上げたいと思っている。
思ってはいるのだが、自分の気持ちすらどうにもできないのに、他人の心までコントロールすることなど不可能だ。なので、宏に余計なプレッシャーをかける部外者に対しては、もはや敵認定も辞さない覚悟はしている。
なお、宏に取ってもらう態度は当然、現在の気を許している友人のままのつもりだ。一緒に行動していた日本人メンバーやエアリス、アルチェム辺りならまだしも、それ以外の家族ではない女性相手に対してはまだ女性恐怖症が完治しているとは言えない宏の場合、ヘタレて友人扱いに逃げた、と思われた方が圧倒的にリスクが低いのは間違いない。
何しろ、春菜のいろんな意味で輝かしい経歴を考えれば、ヘタレ男がビビッて踏み込めなくて日和っても誰も不思議に思わないのだから。
そんなことを頭の片隅で考えながら、今日から二泊三日で行う検査や治験について、天音の説明に耳を傾ける春菜。連休明けの事も重要だが、この三連休で終わらせなければならないことは、それ以上に重要である。
「つまり、明日の朝から明後日の昼頃までは、宏と直接連絡とるんは無理や、っちゅうことですか?」
今日これからは研究室に移動して各種検査を行い、明日から明後日の昼までは外部から隔離された新型システムを用いて、宏達が連休明け直ぐに現在の日本に適応できるようリハビリとカウンセリングを行う。そんな内容の予定を聞かされ、真っ先に孝輔が気にしたのはそこであった。
ちなみに天音は、表向きの内容である、女性恐怖症に対しもう一段階上の治療を行うことについても、やるとすればどんな内容で行う予定だったかを一緒に説明している。
実のところ、新型システムで宏の症状をさらに軽く出来ないか頑張ってみる、というのは、東家が関東に引っ越して直ぐぐらいの頃から既に計画があった。
今の今まで計画を実行に移さなかったのは、事が人の心にかかわることだけに、主治医による経過観察の内容を踏まえながら多数の専門家と慎重に治療内容を検討していたからである。
「はい。申し訳ありませんが、そうなります。その間の事については、全面的に私が責任を持ちますので、どうかご了承ください」
「なんかあったら、すぐに連絡はもらえるんですよね?」
「もちろんです。持てる手段全てを動員して、すぐにこちらにいらしていただけるよう準備しています」
そう言いながら、東家に全面的に有利な誓約書を差し出す天音。免責事項は天災と東家が妨害行為を行ったときのみという、普通有り得ない誓約書を見て、孝輔の顔に戸惑いが浮かぶ。
「……これ、ホンマにええんですか?」
「それが、私の覚悟だと思ってください」
「……分かりました。先生を信じます」
しばしの黙考の末、そう決心をして誓約書に署名する孝輔。仮にもしもの事があったとして、こんなものがなくても天音相手に訴訟だのなんだのを起こすつもりは一切ないが、こういう書類が必要となる天音の立場も理解できるのだ。
「なんか余計な話で長なってまいましたけど、この後時間大丈夫です?」
「そうですね。まだちょっと時間に余裕はありますけど、そろそろ移動したほうがいいかもしれませんね。荷物とかは、大丈夫でしょうか?」
「それは、昨日息子に話聞いた時点で準備してあるんで大丈夫です。息子はこっちで送っていった方がええですか?」
「送り迎えに関しましては、私が責任をもって行う予定です。ただ、向こうへの移動は今からすぐに終わるので送っていただく、というのは恐らく難しいと思いますが、終わってからお迎えに来ていただくのは問題ありません」
「すぐに終わる、と言いますと?」
「本日は携帯用ゲートを用意していますので、移動そのものは一瞬で終わります。準備も含めても一分もかかりませんが、一応安全のためにお庭かガレージを使わせていただくことになります」
天音のその言葉に、そういえばという顔をする宏の両親。避難用などごく一部の用途を除き、転移ゲートは現在、どこの国でも設置や使用に規制がかかっている。そのために存在を忘れがちになるが、澪の移動のようにそれが最善の方法である場合や、天音がごく個人的に影響が少ない範囲でこっそり使う分にはお目こぼしされているのだ。
余談ながら、澪の移動に転移ゲートを使うようなケースに関しては、全国の病院をゲートでつないで、重体患者や緊急手術が必要な患者を最も適切な治療が受けられる病院へすぐに搬送できる体制を作ろうと、医師会と厚生労働省が現在極秘裏に話を進めている。
極秘に進める羽目になっているのは、避難用ゲートの設置の時に、散々反対運動によるトラブルが発生したその経験からである。事が病院だけに、表立って進めてそういうトラブルで患者に被害が出ては困るのだ。
なお、避難用ゲートに関しては、大きめの災害のときにかなりの威力を発揮した結果、今ではどこの自治体の避難場所にも普通に設置されるようになっている。
最後まで無茶苦茶な理屈をわめいていた反対派も相当数いたが、効果を発揮した実例に勝てるはずもない。反対だったわけではなく運用の仕方などについて慎重だった人間はともかく、何が何でも反対と言い続けていた人間は最終的に、人でなし扱いされて表舞台から姿を消している。
「何でしたら、お二人も一緒にどうですか?」
「興味はありますけど、一応法的に規制かかっとりますし、まだ言い訳が効きそうな宏はともかくうちらはやめといた方がええと思うんで……」
「そうですか。では、お庭かガレージをお借りしますね」
「分かりました。宏、忘れもんはないやんな?」
「大丈夫や。あったとしてもまあ、どうとでもなるしな」
父の質問にそう答え、準備してあった旅行鞄を手に庭へと出る宏。
東家の庭は、プランターや鉢植えを並べ、洗濯物を干した上で折り畳みのテーブルと椅子を出して座れる程度の、ささやかだが十分に庭だと言い切れる程度の広さがあるスペースだ。やろうと思えばコンロを出してバーベキューを楽しむことぐらいはできる、と書けば、大体の広さは理解できるだろうか。
そのスペースに、小さな石ころのようなものを人が二人ぐらい並んで通れる程度の間隔で置く天音。そのまま何やら端末を操作したと思うと、すぐにゲートが開いて向こう側に天音の研究室が現れる。
「ほな、行ってくるわ」
「おう。頑張りや」
「春菜ちゃんも、宏の事頼むな。この子の事でなんかあったら、何でも言うてな」
「はい、ありがとうございます」
宏の両親からそんな激励を受け、頭を一つ下げてゲートをくぐる宏と春菜。研究室の奥に移動したのを見届けたところで、天音が振り返って最後の挨拶をする。
「それでは三日間、責任をもってお預かりします」
「宏の事、よろしくお願いします」
「お任せください」
そんなあいさつを済ませ、研究室に移動してすぐにゲートを閉じる天音。お目こぼししてもらえる範囲ではあるが、あまり長々と開いているとややこしい事になるのだ。
あっという間にゲートが消えるのを見ていた孝輔と美紗緒が、天音が置いた石ころのような端末がどうなったかがふと気になって視線を足元に移す。
その瞬間、淡い光を発して端末が消える。
「……あれ、使い捨てなんか普通に教授のもとに転移したんか、どっちやと思う?」
「……端末っちゅうにはものすごいチャチかったから使い捨てかもしれんけど、教授の事やから回収しとる可能性も結構高いしなあ……」
目の前で不思議な消えかたをした端末についてそう問いかけてくる孝輔に、何とも言い難い表情で自分の考えを告げる美紗緒。
やはり宏の家族だけあってか、一時的とはいえ別れのシーンのはずなのに、変にしまらない終わり方をするのであった。
「さて、次の予定までにちょっと時間があるから、今のうちに聞きたいこととかあったら説明するよ?」
「ほな、遠慮なく。綾瀬教授って、やっぱり僕らの同類ですか?」
「人間じゃない、って意味なら同類。寿命とか老化とか肉体が消滅したらどうなるかとか、そのあたりも今の宏君や春菜ちゃんと同じだよ。ただし、分類が神になるかって言われると、どうなんだろうね」
「やっぱその辺、なんぞややこしい定義とかあるんですか?」
「あるといえばあるし、どうでもいいといえばどうでもいい感じ。変な言い方だけど、神様か仏様かなんて違い、自分が信仰してなきゃどっちでもいいことだよね? 私たちが共有してる定義って、そのレベルなんだ」
「なるほど」
世間話でもするようなレベルで、あっさりと自身の正体や本質について説明する天音。その天音の説明を聞き、ひどく納得したようにうなずく宏。春菜も興味深そうな表情を浮かべている。
身内であるはずの、しかも人間ではないことを一応知っているはずの春菜がこの態度なのは、まさに天音が説明したとおり、神様か仏様かなんて春菜にとってどうでもいい事実だったということに他ならない。
が、完全な部外者からすれば、一応そこは気にしろよと突っ込みたくなる事柄だろう。
「ちなみに、私も高校に入るまでは、性質っていう意味では普通の人間だったんだ。その頃にいろいろあってこうなっちゃったけど」
「っちゅうことは、今までの功績は人間やめたことの影響が大きい、っちゅうことですか?」
「まったくないわけじゃないけど、ほとんど関係ない感じ。人間やめた時にいろんなことの原理とか製法とかが簡単にわかるようになったけど、人間やめる前から自力で80年代後半のパソコンのCPUぐらいなら作れなくもなかったし。それにそもそも、分かってるって事と実行するって事は別問題だし。そういうのは、ものづくりをしてる東君だったらよく分かると思うんだけど、どうかな?」
「そうですね。やり方わかるっちゅうんと実際にやるっちゅうんの間には、大体思ってるよりデカい溝があるもんですわ」
「まあ、それ以前にそもそもの話、私の発明品とか、ほとんどは部品レベルでは外注だったり市販品の購入だったりだから、その時点で私だけの力でどうにかしたとは言えないし」
天音のその話を聞いて、むしろ間違いなくそっちの方がすごいと思ってしまう宏と春菜。部品レベルで外注や市販品、ということは、組み立てさえ何とかすればいくらでも量産できる、ということだ。
その時点で、フェアクロ世界で宏がやったことなど鼻で笑える。結局宏は、日本に帰ってくるまでの間には、自分無しで高度な製品を量産できる体制を作り上げることは出来ていないのだから。
せいぜい、作り方と機材があれば誰でも作れる発酵の絡まない調味料ぐらいで、需要が多い高レベルポーションは、最後まで量産ベースに乗せるところに至らなかった。
その気になれば外注だけで核融合炉だろうが転移ゲートだろうがなんでも量産できる天音の方が、技術者としては圧倒的に上なのは間違いない。
しかも厄介なことに、やろうと思えば天音は、アフリカの未開の地などでも同じことができる。相手がある程度言うことを聞いてくれるのであれば、という前提条件があるが、そこをクリアすればその土地でできることの組み合わせで、加速度的に文明や技術を発展させることができるのだ。
その分、危険人物度合いもけた違いに上なので、求められる自重の度合いも宏とは比較にもならないのだが。
「後、もう一つ注釈を入れておくと、私は自衛のための最小限を除いて、権能をほぼ全て封印かけて使えなくしてるの。地球で暮らしてる分には、あっても何の役にも立たないしね」
「うちらもその方が?」
「とも言い難いんだよね。こればっかりは、ちゃんと検査をして判断したほうがいいし。ただ、東君は不完全なものとはいえもう自分の世界を作っちゃってるから、封印するといろいろ不具合が出てくる可能性が高いよ。まあ、やろうと思えば簡単にできるけど」
天音の言葉に、無理か、という表情を浮かべる宏。邪神も仕留め終えた今、正直神だなんだというのは日常生活において、邪魔にこそなれ役に立つことはほとんどないのだ。
それに、趣味のものづくりに、プラス方向とはいえおかしな影響が出るのも困る。なんというか、純粋に楽しくないのだ。
「まあ、そもそもの話、封印するって言ったところで、一番問題になる肉体の強度とか老化しないとかそういう部分はどうにもならないし。私だって、ほとんど人間と変わらないところまで封印かけて権能を抑え込んでるけど、それでも核弾頭の直撃ぐらいじゃ火傷一つしない感じだし」
「頑張ってそのぐらいかあ……」
「うん、そのぐらい。東君どころか、相対的に脆い春菜ちゃんでも、多分それより弱くはならないよ」
日常生活における絶望的な情報を、実に軽い調子で教えてくれる天音。その台詞に、色々嫌な予感を覚える宏と春菜。
「後、封印かけるかけないに関係なく、東君も春菜ちゃんも権能を使いこなすための研修は受けてもらうことになってるし。特に春菜ちゃんは、補助具使ってもオンオフしかできないその因果律かく乱体質は、すぐにでも最低限の制御ができるように訓練しなきゃいけない類の物だし」
「……やっぱり、そうなるんだ」
「うん。詳しい研修内容はこの後の検査で決めることになるけど、これに関しては決定事項。ちなみに、担当教官は私の時と同じ人。春菜ちゃんも知ってる、若葉荘の管理人さんね」
「……うわあ……」
「日程はこっちの時間軸で一日半だけど、最低ラインを突破できるまで体感時間の方では一年でも二年でも研修は続くから、がんばってね」
「……私、今初めて女神になんかなっちゃったことを後悔してるよ」
全身でどんよりしたものを背負う春菜の様子に、非常に不安が募ってくる宏。その教官という人物がどういう人なのかが気になり、思わず天音と春菜に質問してしまう。
「その人、そんなに怖い人なん?」
「怖くはないよ。ねえ、春菜ちゃん?」
「うん、怖くはないよ。ただ、いろんな意味でとんでもない人だから、ね。あの人にずっとしごかれる、っていうと、怖い怖くないに関係なく心が折れそうで……」
「なんやそら……」
聞けば聞くほど、不安しかなくなってくる説明に、宏の方もどんどんテンションが下がってくる。いずれ必要となってくることなのは分かるが、せめてそういう人をあてがうのはやめてほしい。
「でもまあ、春菜ちゃんに一つ朗報があるとすれば……」
「あるとすれば?」
「受験勉強と人外として今の日本になじむための勉強、っていう名目で、東君と二人だけで過ごす時間が確実にあること、かな」
「……宏君には申し訳ないんだけど、それだけで頑張れる気がしてきたよ……」
「……なんか、研修よりむしろ、それで気合が入る春菜さんの方に不安を感じるんやけど……」
天音のそそのかすようなセリフに、どうにか希望を見つけて立ち直る春菜。それで立ち直った春菜に、申し訳ないながらもドン引きするものを感じてしまう宏。
そんな始まる前の不安をよそに、教官の男性と割とあっさり仲良くなった宏は案外楽しく研修をこなして、春菜を微妙にへこませるのであった。
天音さんは、経験と実績の差でどうしても春菜さんたちより力関係が上になりがちです。やっぱり親世代ってのはそういうものなので。
なお、宏たちの教官を担当した男性は、作者の創作に出てくる神様云々では一番古いキャラで、出せば確実に宏たちを食うのが分かっているあくの強いキャラなので、こちらで登場させる予定は一切ございません。
天音さんにしてもそれ以外の親世代にしても、基本的これ以降は名前以外必要最小限の出番しかありませんのでご安心を。
あくまでメインは、春菜さんが空回りしたりいじられたり明後日の方向に奮闘したり、ですので。





