第55話 真実が交差する時
「真澄?」
「……ぅん?」
微かに耳に届いた声に、真澄は反射的に身じろぎしたが、瞼は閉じたままだった。ベッドの端に座って身体を屈め、真澄の耳元で囁いていた清人は、小さく笑ってから再度話しかけてみる。
「気持ち良く寝ている所を悪いが、ちょっと起きてくれないか?」
「やぁ、ねむい……」
「真澄、今一時なんだが」
「何で夜中に起こすの? ほっといて」
段々覚醒してきたらしい真澄が、相変わらず目を閉じたまま怒った口調で言い返すと、清人は苦笑しながら訂正を入れた。
「夜じゃなくて昼の一時だ」
「ひるの…………、え!? 嘘! 寝過ごしたの? 仕事っ!?」
言われた内容を何気なく口にした瞬間、一気に眠気が吹っ飛んだらしい真澄が跳ね起きると、身体に掛けてあったタオルケットや毛布が滑り落ち、何も纏っていない真澄の身体が現れた。一瞬遅れてその事実と、声をかけてきた存在に気がついた真澄は、毛布を引き上げて全身を隠しつつ、壁際に後退して狼狽しきった声を上げる。
「おはよう。良く寝てたな」
「きっ、清人っ!? おはようって……」
クスクスと笑いながら声をかけてきた清人に、真澄は咄嗟に返す言葉が浮かばずに顔を赤くしながら狼狽えたが、清人は平然と状況説明をしてきた。
「安心しろ。浩一からメールで連絡があった。今日は風邪で休むと、会社に連絡を入れてくれたそうだ」
「え? あ、そ、そうなの……。清人が浩一に連絡してくれたの?」
安堵しながら何気なく尋ねた真澄だったが、後から尋ねた事を激しく後悔する羽目になった。
「そうじゃなくて、どうやら昨日清香を外出先から送ってきたあいつが、玄関の状態を見て状況を察したらしい」
「あいつって……、聡君の事? 玄関って何?」
「あの後すっかり忘れて、玄関に一式脱ぎ散らかしたままだったからな」
「…………っ!?」
苦笑いしながら告げた清人に、有無を言わさず脱がされた時の状況を思い出した真澄は、瞬時に顔を真っ赤に染めた。それを見た清人は、苦笑を深めながら説明を続ける。
「清香にはそれを見せない様にして、あいつがその場で浩一に連絡して清香を柏木家に送ってくれたそうだ。持つべきものは気の利く弟だな?」
笑いを堪えながら清人が同意を求めたが、真澄は胸元で毛布を抱えながら、がっくりとうなだれた。
「穴があったら入りたい……。今度聡君と顔を合わせる機会があったら、恥ずかしくて正視できない」
「別に構わないんじゃないか? あいつの顔なんか見ないで、俺の顔を見ていれば」
「あのね!」
しれっとして馬鹿な事を言ってのけた清人に真澄が思わず声を荒げたが、清人は淡々と話題を変えた。
「そんな事より、食事にするぞ。昨日の夕飯と今日の朝食を食べそびれたからな。流石に三食抜いたら親父が化けて出てきて、枕元で説教されかねない」
真顔で清人がそんな事を言った為、真澄は思わず小さく噴き出した。
「確かに叔父様は食事に関しては、職業のせいか色々厳しかったわね」
当時を思い返しながら楽しそうにクスクス笑う真澄を見て、何故か清人は顔に微妙な表情を浮かべながら押し黙る。
「…………」
「何?」
そんな清人の反応に異常を感じた真澄が不思議そうに問い掛けると、清人は気を取り直した様に口を開いた。
「……いや、何でも無い。食事の前に風呂に入ってくるなら沸かしてあるが、どうする?」
「あ、入りたいわ。それに……、一応会社に連絡を入れたいんだけど、私の携帯はどこかしら?」
「ああ、携帯はそこに置いてある。じゃあ着替えは脱衣場に置いておくから。準備は大体済んでいるから、三十分後に食事にしようか」
「分かったわ」
清人が指差した場所を眺め、自分の時計や携帯を確認した真澄は、清人の話に頷いて彼が部屋を出て行くのを見送った。そしてベッド上をもそもそと移動してサイドテーブルの携帯に手を伸ばしながら、小さく溜め息を吐き出す。
(清香ちゃんに見られなかったのは幸いだったけど。でも家に送って泊めて貰ったって事は、私達が何をしてたかは知られたってわけで……。しかも浩一達にも筒抜けなんだろうし……)
「恥ずかしくて死にそうだわ……」
思わず呟いた真澄だったが、何とか気を取り直して携帯の着信記録を確認し始めた。そして一通り確認を終えてから、職場の直通電話にかけるかどうか一瞬迷った末、現在時刻を確認しつつ係長の城崎の携帯にかけてみる。すると真澄が頭に入れていたスケジュール通り、商談などの時間では無かったらしい城崎が、五コール以内に応答した。
「はい、城崎です。課長、浩一課長から今日休まれる旨の連絡は貰っていましたが、体調はどうですか?」
無駄な話はせずに端的に伝えてきた城崎に、真澄は(城崎さんらしいわね)と小さく笑いながら答えた。
「ありがとう、大丈夫よ。それで今日仕事の方に支障は無かったか、気になって電話してみたんだけど」
「今のところ、特に問題はありません。先程課長の代理として青木製版に出向いて、商談を纏めた帰り道です。詳細については出社後にご報告します」
「ありがとう。明日は出社するつもりだから宜しく」
安堵しながら礼を述べた真澄だったが、ここで城崎が気遣わしげに声をかけてきた。
「……課長? 無理をなさらない方が良いのでは?」
「え? どうして?」
「随分声が掠れている様に聞こえますから。喉の炎症が相当酷かったのでは? 話すのが辛いならメールでも良かったのですが、そういう所は課長は生真面目過ぎますね」
溜め息混じりにそんな事を言われた真澄は、一人盛大に顔を引き攣らせた。
「……痛くは無いから、大丈夫よ」
自分でも声がかすれていると漠然と思ってはいたものの、改めて他人から指摘され、更にその理由に思い至って真澄はベッドの上でうずくまりたくなった。そんな真澄の心情など分かる筈も無い城崎が、冷静に言い聞かせてくる。
「今は、ではないんですか? 先週の勤務状態が問題あり過ぎでしたし、疲れが一気に出たんでしょう。念の為、もう一日位休まれてはどうですか?」
「いえ……、熱は無いし、明日は出るつもりだから」
「そうですか。それでは今日一日はゆっくり休んで下さい」
「ありがとう。それじゃあ失礼するわね」
「はい、お大事に」
そうして表面上は何も問題無く通話を終わらせた真澄は、精神的疲労感を覚えながら軽く頭を振った。
「……取り敢えず、お風呂に入ってこよう」
自分にそう言い聞かせながら、真澄は疲労感漂う全身をゆっくりと動かし、床に足を下ろしてドアに向かって歩き出した。
そして簡単に入浴を済ませ、言われた通り用意されていた清人のパジャマを身に着けてリビングに足を向けると、ちょうど清人がダイニングテーブルに食器を並べ終えた所だった。
「ああ、真澄。準備はできているから、そっちに座ってくれ」
「ええ」
いつもなら清香が座っている椅子を示された真澄が大人しく腰を下ろし、何回か袖を折り返し、ブカブカとはいかないまでも緩さを感じさせるその姿を眺めた清人が、向かいの椅子に座りながら苦笑して口にする。
「清香のだと丈が足りないかと思って俺のを出しておいたが、やっぱり肩幅とか袖の長さは駄目だったな。服は今下着も含めて乾燥中だから、ちょっとだけ我慢してくれ」
「分かったわ」
「それでは、いただきます」
「いただきます」
そして二人で礼儀正しく手を合わせて食べ始めたが、カルボナーラを一口食べた真澄は、思わず溜め息を吐きたくなった。
(う……、やっぱり美味しい。美味しい物を食べられるのは嬉しいんだけど、私レベルの手料理を食べてなんて、益々言い出し難くて……)
続けてミネストローネや水菜のサラダにも手を付けた真澄が、益々そんな思いを強くしていると、そんな真澄を眺めていた清人から、幾分心配そうな声がかけられた。
「真澄? 口に合わないか? 今日はあり合わせの物で作ってしまったから……。何か買ってくるか?」
そんな事を真顔で言われた真澄は、慌てて首を振って弁解した。
「いえ、そうじゃないの! 美味しいわよ? 美味しいからちょっと気まずくて……」
「何だそれは?」
「まあ、ちょっと色々」
「ふぅん?」
納得しかねる顔付きながら、清人はその事についてそれ以上追及するのは差し控えた。すると代わりに真澄が、相手の反応を窺いながら控え目に言い出す。
「それよりも……、本当に私で良いの?」
「はぁ? この期に及んで、何を言いだす気だ?」
心底呆れた様に食事の手を止めて自分を凝視してきた清人に対し、真澄は幾分気まずさを感じながら思うところを一気に口にした。
「だって……、以前叔母様に凄く良く似た女性と付き合ってたし、今でも叔母様の事が好きなんでしょう? 確かに私は叔母様と感じが似てるかもしれないけど、やっぱり後から叔母様似の女性の方が良いとか言われたらどうしようかと」
「ちょっと待て、真澄」
「何?」
自分の話を遮られた真澄が不思議そうに問い返すと、清人は片手で額を押さえながら困惑した声で言い出した。
「何か今、色々突っ込みどころ満載の事を言われた気がするんだが……、一つずつ確認させてくれ。香澄さん似の女性と付き合ってたって言うのは?」
「叔母様達が亡くなった年の冬に、一緒にホテル街に入って行くのを見たんだけど」
そう言われた清人は、一瞬考えてから小さくひとりごちた。
「……ああ、あれか」
「あれ?」
清人の言いように真澄は軽く顔をしかめたが、それを見た清人は僅かに視線を逸らしながらボソッと感想を述べた。
「うん、まあ、弁解はしない。しないが……、あれは失敗だった」
「何が、どう失敗だったって言うわけ?」
幾分目つきを険しくしながら問いを重ねた真澄に、清人が神妙に答える。
「そもそもの前提が間違ってる。香澄さんにも似てたかもしれないが、真澄に似てたから付き合ってみたんだ」
「え?」
「さっき自分で口にしただろう。自分と香澄さんが似てるって」
「それは……、確かに言ったけど。あの……」
当惑した声を出した真澄に、清人は幾分開き直った様に話を続けた。
「あの頃は、ちょっとヤケになってて。真澄に似た感じの女だったから付き合ってみたものの、中身は全然違ってたから。結局一ヶ月で別れた」
「…………」
正直にそう告げた途端、テーブルの向こうから無言のまま冷たい視線を向けられた清人は閉口した。
「真澄が言いたい事は大体分かるから、できれば口にしないでくれるとありがたいんだが……」
「それなら、他の私と似ていない人達は?」
冷静に突っ込みを入れた真澄に対し、清人が呻く様に答える。
「それは……、なまじ見た目が似てるから、違う所があると落胆も大きいわけで、見た目に拘らないで色々試してみようかと」
「今、頭の中で考えている事を、口に出しても良いかしら?」
僅かに顔を引き攣らせつつ、皮肉っぽく問いかけた真澄に、清人は早々に白旗を上げた。
「出来れば勘弁してくれ……。俺は相手が真澄限定で、打たれ弱いんだ」
「全く……」
心底困った様な声で訴えられた真澄は、呆れてその事に対する追及を止めて食事を再開した。しかし清人が別件について確認を入れてくる。
「ところで、今でも香澄さんが好きとか言ってたが、一体何の事だ?」
不思議そうにそう問い掛けられた真澄は、些か腹立たしく思いながらその理由を説明した。
「今更誤魔化す気? 手帳カバーの折り返しに、叔母様と二人で写ってる写真を挟んであるでしょう? 昔はパスケースに入れてたし」
「あれを見たのか?」
少し驚いた表情になった清人に対し、真澄はきつめの視線を向けた。
「勝手に見たのは悪かったけど、昔も今も後生大事に持ってるのに、変な言い逃れしないでよ? 勿論清人の初恋の人が叔母様だって、清香ちゃんから聞いて知ってるし」
「清香、あれほど口止めしたのに……」
「清香ちゃんに責任転嫁しないで」
思わず溜め息を吐いた清人を、真澄が軽く窘めた。すると再度溜め息を吐きながら、清人がゆっくりと立ち上がる。
「そんな事はしないさ。ちょっと待っててくれ」
そう言って壁際に移動した清人は、いつも置いてあるリビングボードの上から手帳を取り上げ、テーブルに戻って真澄の前にそれを置いた。
「ほら、中身を良く確認してくれれば分かるから」
そう言って元の様に椅子に座った清人に、真澄が当惑した視線を向ける。
「何? 表の折り返しは家族写真で、裏の折り返しは例の写真でしょう?」
そう言いながらも素直に手帳に手を伸ばし、表紙を捲った真澄に、清人は説明を追加した。
「実は裏の方には、下にもう一枚入ってるんだ」
「下に? あら? 重なってて気がつかなかったわ。確かにもう一枚挟んであって……」
問題のツーショット写真を引き出して見た真澄は、その下の写真の存在に気がつき、全体を引っ張り出してみた。そしてポニーテールにしている事から、高校時代の自分の写真と分かるそれを認め、無言で固まる。
それからゆっくりと顔を上げ、不自然に自分から視線を逸らしている清人に向かって、静かに問い掛けた。
「ちょっと待って。どうしてここに私の写真が入ってるわけ? しかもこれ、高校の頃の写真よね?」
「……それを俺に言わせるのか?」
そっぽを向いたまま、低い声で拗ねた様に言い返した清人に、真澄は思わず声を荒げた。
「だって! どうして隠してるのよ!」
「親父や香澄さんに見つかったら、確実にからかわれるだろうが。カモフラージュの為に香澄さんとの写真を上に入れておいたから、何となく癖になって今でもそのままなんだ」
面白くなさそうに弁解した清人を、真澄は本気で叱りつけた。
「信っじられない! シスコンならシスコンらしく、清香ちゃんとのツーショット写真を挟んでおきなさいよ! ずっと変な誤解してたでしょうがっ!?」
「まさかそんな誤解をしてるとは思ってなかったんだ! 確かに香澄さんの事は今でも好きだが、それはあくまでも家族としてであって! この写真は偶々香澄さん自身が気に入ってた一枚だったから、何となくこれで隠そうと思って」
「分かっていたつもりだったけどね! シスコンの上マザコンだって事は!」
腹立ち紛れにそう叫んだ真澄は、次の瞬間フォークを掴んだまま激しく脱力した。
(何なの? 一人で十何年も気にして悩んでたって言うのに、蓋を開けてみればこの事実。素直に尋ねてみれば良かったわ)
そんな事を考えながらがっくりとうなだれていた真澄に、清人から恐縮気味の声がかけられた。
「その……、だな、真澄?」
「何?」
「真澄の方こそ、本当に俺で構わないのか?」
真剣な顔でそう問われた真澄は、その顔に僅かに怒りの表情を浮かべた。
「……殴っても良い?」
静かにそう言い返された清人は、気合いを入れ直して話し出す。
「その……、俺は年下だし。見た目はあまり親父に似て無いし。いや、勿論、甲斐性は負けていないつもりだが」
「ちょっと待って。どうしてそこに叔父様が出てくるわけ?」
真澄にしてみればいきなり清吾の名前が出て来て戸惑ったのだが、清人は真顔で続けた。
「好きなんだろう? 親父の事」
そこで真澄は、呆れかえった声を上げる。
「はぁ? 何を根拠にそんな事を言ってるわけ?」
「何をって……。あの厳つい顔付きの親父に不自然な位懐いてたし、来る時間をこっそりずらして二人きりで会ってたし、その時何やら貰って凄く嬉しそうにしていたし、親父みたいな人と結婚できて香澄さんが羨ましいみたいな発言を良くしてたし、親父が死んだ時に号泣してたし、何となく親父と感じが似てた内藤支社長と仲が良かったし」
「やっぱり殴らせて。一発……、いいえ、十発は殴らないと気が済まないかもしれないけど」
ダラダラと根拠らしき物を述べる清人の話を遮り、真澄が握り締めた両手をプルプルと震わせながら凄むと、清人が本気で戸惑っている様な声で、控え目に確認を入れた。
「……違うのか?」
「大違いよっ!! 確かに内藤支社長に関しては、叔父様に感じが似てたから親しみを感じてたし、向こうもそれは分かっていたみたいで仕事上で良いお付き合いが出来てたけどそれだけだし、叔父様に対してもあくまで叔母様の配偶者って位置付けで、恋愛感情なんて皆無だったわよ!」
テーブルを力一杯叩いて怒鳴った真澄だったが、清人はまだ納得しかねる顔付きで問い掛けた。
「しかし……、確かにこっそり親父から何か貰ってたよな?」
「ええ、貰ったわよ! 叔父様の手書きのレシピ集を! 悪い?」
「いや、悪くは無いが……、どうしてそんな物をこっそり貰う必要があるんだ? 普通に手渡ししても良いだろう?」
清人が怪訝な表情のまま素朴な疑問を呈すると、真澄は瞬時に羞恥と怒りで顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「……っ!! 全部清人の好きな料理のレシピを書いて貰ったのよ!」
「俺の好物? 一体どうして」
「大学の合格祝いを叔父様達にやって貰った時、清人の発案だろうと思ったから、何か清人のお祝い事の機会があったら、その時は私がそれを作ってご馳走しようと思ったの。変に期待されたり冷やかされたりすると恥ずかしいから、誰にも内緒にしておいて下さいと叔父様にお願いしたのよ!」
しかしそれを聞いても、清人は小さく首を捻って新たな疑問を口にした。
「真澄? あの時から、もう十五年以上経過しているが、別に祝い事とかにご馳走して貰って無いよな?」
その冷静な指摘に、真澄が喚き立てる。
「悪かったわね! だって料理と相性が悪くて、なかなか上達しなかったのよ! 料理学校を三校出入り禁止になったし、叔父様達が亡くなって以降、一時期気楽に訪ねるって雰囲気でも無くなってたし!」
「それは確かにそうだが……」
そこで清人が神妙な顔付きで頷き、それを見た真澄は漸く平常心を取り戻した。そしてボソボソと付け加える。
「この前持参したあれは、このままだとひょっとしたら一生ご馳走なんかできないかもしれないと思ったから、清人が一人で悶々としているのを慰めようって言うのを口実にして、比較的簡単に作れる物を自己満足で作ったのよ。海外勤務になったら、作ろうと思っても作れなくなると思ったから……」
そこで会話が途切れて室内に沈黙が漂ったが、それを清人の静かな声が断ち切った。
「その……、真澄。最後に一つ確認して良いか?」
「何?」
「王子様って誰の事だ?」
「……は? 一体、何の事を言ってるの?」
すこぶる真剣な表情で問い掛けられた真澄が、その意味する所が分からずに当惑すると、清人は幾分言いにくそうに言葉を継いだ。
「実は……、俺は、熱海で真澄が泥酔してた時にプロポーズしたんだが、あっさり断られたんだ」
そんな驚愕の事実を知らされた真澄は、本気で悲鳴を上げた。
「えぇ!? ちょっと何よそれ! そんな記憶、皆無なんだけど!? それ以前に、泥酔してる時にプロポーズってなんなのよ!?」
「それは、まあ勢いと言うか何と言うか……。とにかく、その時の断り文句が『結婚相手は王子様じゃないと嫌』とか何とかで。その王子様って言うのが、流石に親父とか内藤支社長では無いとは思っていたんだが……」
そんな事をしみじみと述べた清人に、ここで真澄が再度怒りを爆発させた。
「当たり前でしょうがっ!! 何寝ぼけた事言ってるの、本気で怒るわよ!? 後にも先にも私の王子様は、清人でしかありえないんですからねっ!!」
「……ああ、うん。分かった。良く分かったから」
「どうしてこんな恥ずかしい事を言わせるのよ! 本当に信じられない!」
「すまん。しかし、参ったな……」
憤慨する真澄の前で、清人は片手で口を覆いながら斜め下に視線を下ろす。そして小声で呟いた言葉に、真澄が反応した。
「どうして清人が困るのよ。恥ずかしいのは私なんだけど?」
不思議そうに尋ねた真澄をチラリと見やった清人は、再び俯き加減でボソリと呟く。
「食べて着替えを済ませたら、送って行くつもりだったのに……。そんな可愛い事を言われたら、手放せないじゃないか」
「……え?」
そこで真澄が、清人の顔を注意深く眺めてみると、手で隠れている口元は分からないながら、その場所はうっすらと赤くなり、耳に至ってははっきりとその色調の変化が確認できた。それを見て真澄も恥ずかしさがぶり返し、顔を益々赤くして黙り込む。しかしそのまま固まっているわけにもいかず、何とか気を取り直した清人が、冷静に真澄に話し掛ける。
「……とにかく、食べておこうか。これ以上空腹だったら間違い無く倒れる」
「そうね」
そんな清人の言葉の正当性を認めた真澄は、自身も何とか赤面しているのを抑えて食事を再開したのだった。
「浩一、今四時だが……。仕事中にかけてくるなんて珍しいな。そんなに暇なのか?」
清人の携帯にかけた浩一は、応答があったと思ったら、開口一番のんびりとした口調でそんな事を言われた為、顔を引き攣らせつつ盛大に文句を言った。
「お前な……。俺が朝から何回メールを送ったり、電話をかけたと思ってるんだ! 悉くシカトしやがって、ふざけるな!」
「そう怒るなよ。それで、用件は何だ?」
「……取り敢えず姉さんに変わってくれ」
溜め息混じりに要求した浩一だったが、何故か清人はそれに難色を示した。
「真澄? 真澄は今、ちょっと手が離せない状態だから、話があれば俺から伝えておくが」
それを聞いた浩一は(真澄って……、今までと違ってあっさり呼び捨てかよ。だけど手が離せないって……、風呂かトイレにでも入っているのか?)と一瞬考えたが、すぐに意識を切り替えて話を進める事にした。
「それならお前に聞くが、今夜姉さんを連れて、家に顔を見せに来るんだろうな」
「今夜か? ……悪いが、それはちょっと無理だな。明日の夜に出向くから、社長や会長にそう伝えておいてくれ」
しかし飄々と切って捨てられてしまい、浩一が流石に声を荒げる。
「ふざけるな! お前じゃ話にならん。とっとと姉さんを出せ!」
「仕方がないな……、真澄。愛しの弟からの電話だから、ちょっと出てくれ」
何やら電話の向こうで、すぐ側の誰かに話し掛ける様に言い出した清人の声に、浩一の怒り度が増した。
「何だと? 姉さんが側に居たのか? それならどうしてさっさと電話を代わらないんだ!?」
「何やら、俺が真澄を苛めているかもしれんと心配しているみたいだから、声を聞かせてやってくれ。頼む」
そんな苦笑いの清人の声が伝わって来たが、それ以外の人物の声は未だに聞こえず、浩一は苛立たしげに問い掛けた。
「清人!? おい、姉さんはそこに居るんだろうな?」
「人聞きの悪い……、勿論居るぞ? なあ、真澄?」
「…っ、も、もう駄目ぇぇっ! 早く電話を切ってよ、馬鹿ぁぁっ!!」
「姉さん、どうかしたのか!?」
いきなり電話口で泣き叫ぶ真澄の声が聞こえ、浩一は慌てて問い掛けた。しかしその浩一の声を無視して、電話の向こうで切羽詰まった感の真澄と、余裕綽々の清人のやり取りが続く。
「ちょっと、やっ……、この状況で、何平然と電話してるのよ!」
「俺は片手と耳と口は空いてるから、話すのに支障は無いんだが?」
「やぁっ……、ちょっと、もう、どうでも良いから、取り敢えず離れて! この変態っ!」
「酷いな……、俺はこんなに真澄に尽くしてるのに」
「……おい、清人。お前今、どこで話してるんだ?」
二人のやり取りで大方の状況を察してしまった浩一だが、顔を強張らせながら一応問い掛けた。しかし相変わらず浩一を無視しながら、二人の会話が続く。
「もう嫌ぁぁぁっ!! 浩一に丸聞こえじゃない! 帰っても恥ずかしくて顔を正視できないじゃないの!」
「大声出してるのは真澄なんだが……。まあ弟でも、真澄がじっくり男の顔を眺めるのは気に入らないから、ちょうど良いかな?」
「最っ低! ……っあ、ちょっとそこは、やぁぁっ!!」
「そうか、最低と言われてしまったら、仕切り直しだな」
「そんなのは良いからっ!! いい加減離してぇぇっ!」
「ああ、浩一。悪いが立て込んでるから切るぞ? ついでに真澄は、明日も会社は休みにしておいてくれ。明日の夜八時には家に送って行くから。それじゃあな」
「あ、おい、ちょっと待て清人!! 人の話を聞け、この色魔の大馬鹿野郎がっ!!」
言うだけ言ってあっさりと通話を終わらせた清人を、浩一は思わず口汚く罵った。そして急いで再度かけ直したが、固定電話も二人の携帯も電源が落とされており、浩一の顔が見事に引き攣る。そこで更に浩一の動揺を煽る声がかけられた。
「浩一? 私はお前に、真澄に帰って来る様に言った後、彼に家に出向く様に伝えた上で私に電話を代わる様に言いつけた筈だが、どうなったんだ?」
わざわざ確認を入れなくても、今までの自分の発言を聞いていればおおよその事情は察せられる内容を問われ、浩一は頭痛を覚えながら少し離れた場所に座っている父親をゆっくりと振り返った。
勤務中に社長室への呼び出しを受け、未だ連絡を寄越さない娘に帰って来る様に伝えろと言われた浩一は、その場で電話をしてみればこの有り様で、寧ろ出てくれない方が良かったと本気でうなだれる。そんな浩一の気を重くする様に、こめかみに青筋を浮かべた雄一郎から、地を這う如き声が発せられた。
「人の娘を軟禁して、帰宅させんとは良い度胸だな……」
「その……、明日の夜には家に送って来るそうですから。できれば穏便にお願いします」
そう懇願した浩一に、雄一郎は素っ気なく告げ、追い払う様に片手を振ってみせる。
「それは向こうの出方次第だ。もう帰って良いぞ」
「……それでは失礼します」
これ以上何を言っても無駄だと察した浩一は、大人しく一礼して引き下がったが、翌日の事を思って社長室から退室した瞬間、深い溜め息を吐いたのだった。