九
目の前が赤い。
何もかもが赤い。
何の赤?
血の赤。
どうしてこんなことになってしまった?
何かが聞こえる。
女の悲鳴。
彼女の悲鳴。
助けなくては。
でも、体が動かない。
既に、腕も、足も、体と離れていた。
動けないのだった。
彼女が目の前に来た。
連れてこられた。
あの男に、彼女は服を剝がれ。
男に凌辱される。
男は言う。
見ているか?
楽しいか?
それとも。
もう死んでいるのか?
男は笑っていた。
既に何も考えていなかった。
目の前の惨劇を受け入れていた。
痛いという感覚すら、既に消え失せていた。
彼女の目はこちらに向けられている。
泣いている。
助けを求めている。
ゴメンね。
体が動かないんだ。
だから、仕方ない。
君を助けることはできない。
本当にゴメンね。
男は最後に、彼女の眉間に穴をあけて帰って行った。
赤が彼女の眉間から流れる。
彼女の目は恐怖で見開かれたままだった。
それを見ていた。
すべてを見ていた。
すべてを受け入れた。
何もできなかった。
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ミズキが目を覚ますと、アーネストが顔を覗き込んでいた。
ゆっくりと起き上がったミズキがアーネストの顔を抓る。
「なぜ、僕の寝顔を覗き込んでいるのですか?」
「お前がずいぶんとうなされていたから、心配して見にきたんだ」
「うなされていた? 僕が?」
額に触れると、汗が手に付いた。さっきまで寝ていたベッドを見ると、大量の寝汗を掻いていたことがわかる。
明らかに、あの夢のせいだった。
「それにしても、あんたは本当に男なのか? なんというか、寝顔とかすごく女のようだった」
「余計なことを言わないでください。何度も言っているように、僕は男です」
アーネストに渡されたタオルで顔を拭く。少し水で濡らしていたようで、ひんやりとして気持ちよかった。
今日は、あの少年たちと出会って三日目。出会った公園で聞き込み調査の結果を聞く約束の日だった。
「アーネスト。今、何時ですか?」
「12時40分」
アーネストが時計を見ながら答える。
「12時40分!?」
ミズキは声を上げた。
少年たちと待ち合わせをした時間は13時。あと20分しかない。今すぐ準備をしてここを出なければ間に合わなかった。
ミズキはすぐに新しい服を鞄から取出し、上着を脱ごうとした。だが、背後に違和感があった。アーネストが見ていたのだ。
「男の着替えなんか見ていて、楽しいですか?」
「そんな訳あるか!」
アーネストが足早にその場を去る。それを見届けてからミズキは、いつもの黒いコートに着替えた。
鏡を見て、身だしなみを確認する。あとはいつも通り、髪をゴムで束ねるだけ。
髪をゴムで束ねようとしたが、ゴムが見つからない。
「僕の髪留めのゴムを知りませんか?」
アーネストに聞いたが返事は「知らない」の一言だった。
既に時間に余裕はなかった。仕方なく髪を束ねるのは諦め、鞄の中にでも紛れ込んだのだろう、と決めつけたミズキは、アーネストの家を後にしようとする。
「ミズキ。調査結果は?」
「帰ってきたら聞きます」
それだけを言って、ミズキは待ち合わせ場所の公園に急ぐ。肩まで伸ばした赤毛が、風で靡いていた。
アーネストの母は昨日の晩、ウエムラ達と一緒に日本国へ向かった。治療費はウエムラを脅し、半額にさせた上でミズキの全額負担という話に落ち着き、その見返りにミズキがアーネストに求めたことが、この街周辺の調査だった。
調査内容は、リーンベル・ローズヴェルトの写真(少年達に渡した物もそうだが、今回の調査のためにアーネストに渡した写真はコピーである)を街の人に見せ、どこかで見たことがないかを聞く。そして、もう一つは、おかしな事件や噂を見聞きしなかったかを街の人に聞いて回らせた。
事件や噂のことを聞いて回らせたのは、リーンベル・ローズヴェルトの特異性と依頼主であるジョセフ老人の態度を考慮してのことだった。
二十年近く容姿が変わらない。そして、人探しに、主に戦闘を仕事とするバウンティ・ハンター(ミズキ自身は便利屋と言って譲らない)を雇った。この二点から、何か事件が絡んでいてもおかしくはないと踏んだからであった。
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「あ、お兄ちゃん」
少年と少女が公園のベンチに座っていた。少女がミズキに手を振った。ミズキもそれに応じ、手を振りかえした。
「ごめんね。時間に遅れて」
「ううん、僕たちもさっき、着いた所」
「それじゃあ。どんな話が聞けたか、僕に教えてくれる?」
正直な話、ミズキはあまり期待していなかった。子供たちの働きに期待していなかったのではない。この街に何らかの情報があることを期待していなかった。
だが、ミズキの期待はいい方向に裏切られることになる。
少年たちの聞き込みによると、どうやら、一週間ほど前の話だが、この街で写真とよく似た少女を見たという人が複数いた。その少女は、大きな革製の鞄を背負っており、髪は腰に届くほどの金髪だったという。彼女は何の目的もなく旅をしているようで、北の街にはどう行けばいいのかを聞いていたらしい。それ以降は誰も彼女を見かけなくなったという。
有力な情報に、ミズキの口角が意識してもいないのに少しだけ上がる。
「ありがとう。助かったよ」
ミズキは二人の頭を順番に撫でた。
「お礼に、これを・・・」
ミズキは二人に紙袋を差し出した。
「これは?」
少女が不思議そうな顔で、ミズキと紙袋を交互に見る。
「食糧だよ。ほとんどが保存食だから、日持ちする。ちゃんと、一日に食べる量を考えるんだよ」
そう言い残してミズキは公園を後にした。
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「アーネスト、僕です。帰りました」
返事がない。
「アーネスト?」
ミズキは家の中を探して回った。
アーネストの母が寝ていた部屋にも、ミズキが泊まった部屋にもアーネストの姿はない。さすがに、一度も案内されていない部屋に入るのは気が引ける。
仕方なくミズキは、アーネストが現れるまで、泊まっていた部屋にいることにした。
今日には、もう次の街へ出発する予定だ。思わぬ収穫があったせいもある。善は急げ、という言葉が確かあったはずだ。
いくら待ってもアーネストは現れない。ミズキは溜息をつきながら、ポケットから煙草を取り出し、オイルライタで火を点けた。
ベッドに座り、煙草をふかしながら、窓から覗く青空を見つめる。
雲一つない青空。
あの時とは大違い。
あの時の空は土砂降だった。
赤い空だった。
今は違う。
違う空を見ている。
それに違うのは、
空だけではない。
思考を巡らせていると、側頭部に軽い衝撃を受けた。力を全く入れていなかったミズキはそのままベッドに倒れ込む。
「ここは禁煙だ」
アーネストだった。ミズキはベッドに倒れたまま、アーネストを睨む。
「アーネスト。どこへ行っていたのですか?」
「それより早く、煙草の火を消せ」
ミズキはもう一度だけ煙草を吸い、ベッドから起き上がったあと、わざとアーネストに向かって煙を吐く。アーネストは咳き込んだ。
そして、まだ長かった煙草を窓から外に捨てた。
「いったい、その荷物は何ですか?」
アーネストの足元には、大きな荷物袋が置いてあった。ミズキはそれを見て目を細める。
「あんた、人を探して旅をしているんだろう?」
「ええ、旅というより、仕事ですが」
アーネストが何を言おうとしているのかは、既に予想がついていた。そして、それに対しての反応もミズキは決めていた。
「俺も連れて行ってくれ」
「断ります」
即答だった。
きっぱりと、できるだけ拒絶の意志が伝わるように返したつもりだった。
しかし、アーネストはまだ諦めていない。
「あんたは母の命の恩人だ。それに、治療費まで全額払ってくれた。何か手伝いがしたい」
「その件なら、もう既に調査をしてもらいました。それに今後、あなたに手伝ってもらうようなことは何もない」
「でも、それでは俺の気が収まらない」
「危険な仕事です」
「そんなことは、百も承知だ」
ミズキは溜息をついた。どうやら、梃子でも動かせそうにない。
「わかりました。好きにしてください。但し、条件があります」
ここに戻ってくる途中に買った、髪留めのゴムで髪を束ねる。アーネストが不思議そうにミズキを見る。
「絶対に僕の見ている所で死なないでくださいね。後味が悪いですから」
ミズキは小さな顔を傾けながら微笑んだ。