七
結果から先に言うと、青年アーネスト・エトワールの言葉に嘘はなかった。
彼の母は、病の床に臥していた。
ミズキがそっと近づくと目だけをうっすらと開けた。
「すみません。起こしてしまいました」
頭を下げる。
「どなたかしら?」
弱々しい声で彼女は言った。
「アーネスト君の友人です」
隣のアーネストが険しい表情をする。それを横目で見たミズキは、彼女に見えないようにアーネストの腿を抓った。
「何を!?」
「話を僕に合わせてください」
小声で言った。
「まあ、アーネストにこんなに可愛らしいお友達が・・・。アーネスト、なぜ今まで紹介してくれなかったの?」
「母さん。こいつこんな顔はしているけど男だよ」
彼女は「まあ・・・」、と目を見開く。
ミズキは笑顔で返した。
「初めまして、サエバ・ミズキと申します」
「アーネストの母です。すみません、ベッドの上からで・・・。今、飲み物を」
彼女はベッドから起き上がろうとするが、苦痛で顔をしかめる。そして、大きく咳き込む。アーネストが駆け寄った。
「大丈夫です。どうぞ、お構いなく」
「すみません・・・。アーネスト、何か飲み物をお出ししなさい」
アーネストは無言で、隣の部屋に向かった。
ミズキは煙草が吸いたくなってきた。普段なら、そこにいる人に断りを入れてから吸うのだが、今は病人の前。さすがに我慢することにした。
それに、吸いたいときに吸えなくても、何の問題もなかった。
「あの子が、迷惑を掛けたりはしていませんか?」
「ええ、何も。それどころか、彼にはいつもお世話になっています」
ミズキは微笑んだ。
もちろん、会ったのが今日初めてで、突然襲ってきたことは伏せておく。
「私が言うのも何ですが、あの子は口が悪いからよく誤解されがちですが、根はとてもいい子なんです。私も――――――」
話している途中で彼女は、また大きくせき込んだ。その様子をミズキはじっと見ている。咳が止んでから、ミズキは口を開いた。
「失礼ですが。病気の方は・・・」
「数週間前にかかったのだと思います。熱と、咳が少しあるだけです。放っておけば治ると思います」
苦しそうにしながらも、彼女は笑顔で答えた。
「少し?それにしては、ずいぶん苦しそうに見えます。それに、彼も気付いていますよ」
ミズキの言葉に、彼女の顔が伏せられる。しまった、と思った時には、既に遅かった。
ある程度の自覚は彼女にもあるようだ。恐らく、息子に迷惑をかけまいとしているのだろう。
「すみません。余計な口を利いてしまいました。アーネスト君を手伝ってきます」
そう言って、ミズキは隣の部屋へ移動した。
―――――――――――――――――――
「ずいぶん酷いようですね・・・」
後ろから声を掛けられたアーネストが振り返る。ミズキが壁にもたれていた。煙草を指先で弄んでいる。
「ここでは吸うなよ」
「別に、吸おうと思って持っているわけではありません」
ミズキはポケットに煙草を戻した。実はほんの少しだけ、裁縫針で紙を刺した時にできる穴ほど僅かな気持ちだったが、煙草を吸いたいと思っていた。
「それで、酷いって?」
「病気の進行が酷いということです。放っておけば、一か月も経たずに死んでしまうでしょう」
アーネストの顔に絶望の色が浮かぶ。ミズキはそれを視界に入れないように、わざと顔を背けた。
他人のネガティブな顔を見ても気持ちの良い物ではない。
思ったことをすぐに言ってしまうこの癖のせいで、後悔したことは何度もある。そろそろ直すように努力しようか、と考えミズキだった。
「とりあえず、あなたの言っていたことが嘘ではないことがわかりました。公園での一件は見逃します」
壁から離れながら、ミズキは言った。
「よくもこの状況でそんなことを!」
アーネストはミズキに掴み掛った。ミズキは何の抵抗もなく、アーネストに捕らえられる。そして、そのままの勢いで壁に叩きつけられた。
普段のミズキには、あまり見られない行動だ。体も小さく、力もないミズキにとって、戦闘時に体の大きな相手に捕らえられるということは、即ち死を意味する。そうならないため、相手の行動を逸速く読み、常に先手を取る。それが、ミズキの戦闘スタイルのはずだった。
アーネストが憤怒の形相でミズキを睨んでいた。対するミズキは焦りも何も感じさせない、全くの無表情だった。
「アーネスト。君は自分がやっていることの意味を理解していますか?」
「五月蝿い。今からでも遅くはないんだ。お前を殺して、金を奪う」
「僕を殺して、お母さんにはなんと説明するつもりですか?」
「そんなこと、後からでも考えられる」
襟を掴んでいたアーネストの手が素早くミズキの首に当てられた。今回も避けようと思えば避けられる速さだったが、ミズキは何の抵抗もしない。
アーネストの行動をただ冷静に見つめていた。
首を絞める力が強くなり、息ができなくなる。徐々に苦しくなり始めた。目の前は暗くなって、意識が朦朧とする。
人生で二度目に味わう死の淵だった。
一度目は、それが『死』である、という認識さえできなかった。
痛いという感覚すら消え失せ、考えることを放棄した。
ただただ目の前で起こっている惨劇を見つめ、受け入れることしかできなかった。
そう、あの頃は力がなかったのだ。
力さえあれば、あの状況を覆せたかもしれない。
過去に対する不確定な希望的観測。
では、今は力がある?
今もない?
必要ない?
仕方ない?
そんなはずはない。
だとしても、この状況を回避したところで、いったい何になる?
どうせ、一度死んでいる。
二度目に死んだって、どうってことはないのではないか?
ようやく死ねるのだ。
ようやく彼女の下へ行けるのだ。
馬鹿げた、愚かな、つまらない目的のために生きなくてすむ。
喜ばしいことではないのか。
彼女は怒るだろうか?
いや、きっと笑って許してくれるだろう。
彼女はそういう子だった。
完全に意識がなくなる直前、アーネストが首を絞めていた手を放した。
ミズキはその場に倒れこみ、盛大に咳き込みながら、体が求めるままに酸素を吸った。
「やはり、君には無理だった」
ミズキは独り言のように呟いた。
「でも、僕は殺してほしかったかもしれない」
寂しそうに続けたミズキは、呼吸を整えてから立ち上がった。
アーネストはその場に手で顔を覆い、泣き崩れてしまった。
ミズキは無言のまま、服の乱れを正す。その間もずっと目だけはアーネストを見ていた。
「母親を助けたいですか?」
ミズキは優しく問いかけた。
アーネストは泣きながら頷く。
「ならば、僕に依頼しなさい。知っている医者の中で、一番腕のいい医者を紹介しろと」
アーネストの顔が上げられた。
その目がミズキに問いかける。「できるのか」と・・・。
「僕は便利屋です」
ミズキは静かに微笑んだ。