三十一
コーヒーの香りが鼻腔を刺激する。良い香りだ。一番好きな香り。彼女の淹れるコーヒーが起床の合図となる。
ベッドから起きあがり、カーテンを開ける。彼は朝日を浴びながら、大きなあくびをした。
部屋を出てキッチンへ向かう。そこには赤髪を後ろで一つに束ね、朝食の準備をする彼女の姿があった。
「おはよう」
彼女は彼に気づき、笑顔で声をかける。彼も同じように微笑みを返した。いつもは既に椅子に座っている彼女の両親の姿が今日はない。仕事で朝早くに家を出ると言っていたのを思い出した。
「ああ、そうだ」彼女が何かを思い出したかの様に振り返った。「お父さんとお母さんが、今日一緒にいられなくてごめんって」
「ああ、大丈夫。父さんも母さんも忙しいのは知っているし」
彼女の両親は、幼くして親から捨てられた彼を引き取って今まで育ててくれた。彼女たちは、血の繋がりはなかったが家族同然のように扱ってくれた人たちだった。
「それと、これを貴方に渡してほしいって」
綺麗に包装された小さな箱を彼が受け取る。
「これは?」
彼は不思議そうな顔をして聞いた。すると彼女は悪戯っぽく微笑む。開けてからのお楽しみ、ということだろう。彼はできるだけ破れないように丁寧に包装を剥がす。姿を現したのは真っ白な箱。
彼女の表情を伺うと、早くと急かさんばかりの表情を浮かべている。
箱に手をかけ、慎重に蓋を外す。中に入っている物が姿をのぞかせた瞬間、彼は驚きの声を上げた。
箱の中身は、彼がずっと欲しがっていたカメラだった。
「すごい。どこでこれを? 高価な物だったろう?」
「お礼は、お父さんとお母さんに言ってあげて」
彼は何度も頷き、そしてカメラを大切そうに抱いた。
「せっかくだし、二人で写真を撮らない?」
「でも、シャッターを切る人がいないよ?」
「大丈夫、どこかにタイマーがあるはずだから」
それを聞くと、彼女は家の外へ飛び出した。彼女の様子で、彼以上にカメラに興奮していることがわかる。この国ではカメラですらかなり高価な物だった。写真を撮ること自体初めてなのだろう。
彼も後に続き、家の外へ出る。
「変じゃないかな?」
突然の彼女質問に反応が遅れる。それが服装のことだと気づいた彼は小さく頷いた。すると、彼女は照れくさそうに笑った。
カメラを三脚にセットし、焦点を合わせる。タイマーをセットすると、彼女が彼を呼んだ。彼女の元まで走る。
軽く深呼吸。そして、口を開いた。
「もし君が良かったらだけど、僕と――――」
「あ、もう少しだよ」
ずっと心にしまっていた言葉を伝えようとしたが、初めての写真で少し興奮気味の彼女に言葉を遮られる。彼は苦笑いしながらも、彼女の方を向いた。彼女は無邪気な微笑みを浮かべ彼を見つめている。そして小さく、彼にだけ聞こえる声でつぶやいた。
「ハッピーバースデイ、ミチル」
シャッターの音が鳴った。