二十九
闇の中、手探りで彼女を探す。名前を叫びながら。
走って、叫んで、転んで。
それでも、彼は探すことをやめなかった。そこに彼女がいることを信じて、彼女に伝えなければならないことを胸の奥に抱きながら、探し続けていた。
闇は深く、寸分先も見えない。ただ、目の前にある一筋の光を目指して彼は走った。
もうどれくらいの時間が経ったかわからない。長い間走り続けて、彼女の名を叫び続けて満身創痍だった。声はもうでない。足も徐々に遅くなっている。
地獄のように感じた。見えるところにいるはずなのに、彼女のいないこの世界。
いや、現実では、彼は本当の地獄を見ていた。彼女は世界からいなくなった。殺された。でも身体だけは手を伸ばさずとも届く距離にある。なのにそれは彼女であって彼女自身ではない。
ふと立ち止まり、振り返る。そこに彼女がいた。光とは反対の場所に彼女が立っていた。
彼女の口が動き、彼の名を呼んだ。
涙が頬を伝った。
彼は彼女の名を口にした。
ミズキ、と。
今まで枯れていたはずなのに、驚くほどなめらかで鮮やかな発音。様々な感情が、その一言に込められていた。自分で口にした彼女の名前に反応して涙が溢れる。彼はもう一度、彼女を呼んだ。
彼女は微笑んだ。赤い髪が揺れる。彼はその髪に触れ、彼女の頬に触れた。
そっと口づけて、好きだよ、と囁く。
彼女は何かを言いたそうな表情をしていた。
彼は首を横に振り、その言葉を制する。
夢の世界が崩れる音がした。
崩れゆく世界の中で、彼は最後にもう一度彼女の名前を呼んだ。
下腹部の鈍い痛み。
それとともに目が覚めた。
激しい揺れ。
男の荒い息。
顔にかかる。
突き上げるような鈍痛。
男が動く度に、
何度も何度も身体を襲う、
声にできないほどの痛み。
なにが起こっているか、確かめる必要はなかった。
ああ、まただ。
また、守ることができなかった。
また、汚されてしまった。
ごめんね、ミズキ。
冷めきった液体が、瞳から零れていった。
―――――――――――――――――――
ミズキは一糸まとわぬ姿で腕を縛られており、部屋の壁にもたれか掛かるようにして放置されていた。胸を隠すために巻いていた布も外されていて、小振りな乳房が露わになっていた。そして男であると頑なに語り続けていたミズキには、男性である証がどこにもなかった。誰がどう見ても、女性の身体であった。
下腹部にはまだ鈍い痛みが残っている。
ひどい痛み。
そしてなによりも気持ち悪く、吐きそうな気分だった。
縛られた腕が何とか抜けないかと、いろいろな方向に引っ張ってみたが、どうにもならなかった。
あたりを確認すると、そこには様々な機械や装置がおいてある。どうやら、どこかの実験施設のようで、近くの机の上にミズキの着ていた服と銃が置かれていた。
「起きたか」
若い男の声。ミズキの動きに気づいたようだ。
「ずいぶん前から起きていた」
ミズキは抑揚のない声で返した。
「なんだ、起きていたのか。犯されている最中か? 叫び声どころか、何の反応もなかった」
「反応する必要がどこに?」
ミズキが睨むと、男は笑って返した。いやらし視線が、ミズキの裸の身体を舐め回す。不快に思ったミズキは、動く範囲で自分の胸と秘所を隠した。
刈り上げにした金髪。深い海の底を思わせる瞳。鼻は筋が通っており非常に高く、唇は薄いが横に広い。忘れたくとも忘れられない、忘れるはずもない顔。この男こそ、ミズキの復讐相手。この国の第二王子であった。
「おもしろい女だな」
男は煙草に火をつけながら言った。
女という言葉を、ミズキは否定しようとしない。
「それに、今回が初めてじゃない」煙を吐き出して、男は続ける。「これで二度目だ」
「覚えていたのか」
「ああ、覚えているさ。お前のことをこの国で見つけたときは正直驚いたさ。俺を殺そうと嗅ぎ回っている便利屋がいると聞いて、どんな奴かと顔を見てみれば三年前に殺したはずの女だ。驚かずにいられるか? ちょうど父がリーンベルを連れ戻そうと探していると聞いて、お前に探させるようにジョセフに言った。するとまんまと引っかかったお前がここにやってきたというわけさ。すべて仕組まれていると知らずにな」
ミズキは無言で彼を睨みつけた。
「だが、俺は確かにお前の頭を撃ったはずだ。どうやって生き延びた?」男は手でミズキの顎を上げる。「まあ、どうでもいいことだ」
「お前が、軍隊を率いて魔女の村を滅ぼしたとき、一人だけ黒髪の男がいたことを覚えているか?」
ミズキは低い声で言った。男はミズキの目を数秒間見つめて、そして口を開いた。
「ああ、いたな、そういえば。俺が手足を切り落とした奴だな」
ミズキが歯ぎしりをする。
「お前が俺に犯されている間、ずっと名前を呼んでいたな。お前の名前を思い出したぞ」確か、と顎に手をやる。「サエバ・ミズキだったか? 東洋系の名前だな。男の方も東洋人だったか?」
何の反応もないミズキに、男は鼻を鳴らした。
「男の方は、そう、そうだ。男の名は、セナ・ミチル……」
その名を聞いた瞬間、今まで男を睨んでいたミズキの表情がゆるみ、微笑みに変わった。
「僕は、お前を殺す為にここに来た」
口元をゆるめたまま、ミズキはそう告げた。男は側に置いてあった銃を手に取り、銃をミズキの額に当てる。
「ミチルの敵討ちか?」
「いいや、ミズキの復讐さ。僕が、セナ・ミチルだ」
男の表情が驚愕の色に染まる。
「ミチルは黒髪の男だったはずだ。それにあの時、四肢を切断して殺した。いや、殺したのはお前も同じか」
「死んでなどいないさ」
「一体どうやって?」
「どうやったと思う?」ミズキの顔は狂気に歪んだ。「ミズキは身体が生きていた。僕は脳が生きていた」
束の間の沈黙。その後、男が驚いたように目を見開いた。
「脳を入れ替えたのか。お前の脳を、ミズキの身体に。危険すぎる。誰がそんな狂ったことを」
「ウエムラですよ。彼が僕を実験台にしたんだ」
ミズキは吐き捨てるように言った。
「なるほど、あの男ほどの頭脳があれば、いくらでも方法は考えられるな」
「そういうことです。頼んでもいないのにね。でも、彼のおかげでここまで来られたから、今は感謝するべきなのかもしれませんね」
「くだらないな。こんなところにこなければ、静かに暮らせたかもしれないのに。どうだ、お前の今の状況、敵に捕まり、縛られ、犯され、そして殺される。いや、実験台がいいか?」
「殺せばいいさ。ただ、その前に……」
「その前に?」
「僕にも煙草を一本」
「最後の一本か。いいだろう」
男は銃をその場に置き、煙草をミズキにくわえさせた。そして、ライターの火をつけ、煙草に近づける。
ゆらりとゆれるライターの火。
ミズキはじっと火を見つめていた。
煙草に火がついた瞬間、小さな火は大きな炎へと変わった。
男は驚きライターから後へ飛び退く。床へ落ちてもライターの炎は消えることはなく、男を追いかけようとする。だが、すぐに引き返しミズキの腕を縛っていた縄を焼ききった。
すぐに立ち上がるが、魔法を使ったせいで呼吸が乱れ足下がふらつく。
銃が視界に入った。
すぐに銃に飛びつこうとしたが、手を伸ばしたところを男に思い切り踏みつけられた。痛みに顔が歪む。
男の足を殴ろうとしたが、足を上げて避けられもう一度、今度は踵で手を踏みつけられた。
激痛に声を上げてしまう。
男は手を踏んだまま銃を手に取りミズキの頭に突きつけた。
「魔女め……!」
侮蔑の込めた目でミズキを見つめる。ミズキはゆっくりと瞼を閉じ、唇を噛んだ。噛みきった唇からは血が流れ、口の中に鉄の味が広がる。諦めきった表情だった。
銃声が聞こえた。それは、男の持った銃から放たれたものではなく、どこか近くから聞こえたものだった。ミズキも男も、銃声に驚き耳を傾ける。
一人ではない、二人以上の人間の走る足音。
片方は軽い。子供くらいの足音だろうか。
近づく足音。
音の聞こえる方向に二人ともが向いた。
直後、ドアが勢いよく弾くように開き、アーネストとリーンベルが飛び込んできた。
アーネストとミズキの視線が交差する。
状況からするべきことを一瞬で理解したアーネストは、スピードを一切緩めずに男の腹にタックルする。
アーネストのタックルをまともに受けた男は後ろへ弾け飛ぶ。
受け身を取り体制をすぐに立て直した男は、アーネストに銃を向けた。だが、アーネストが銃を構える方が早かった。
「やめろ、アーネスト! 撃つな!」
ミズキの悲鳴にも近い叫び声。
それと同時に銃弾が放たれた。
銃弾は吸い込まれるように飛んでいき、男の額に穴を開けた。
後頭部から血と脳漿が飛び散り床を汚す。
男は目を見開いたまま、ミズキの目の前に倒れ込んだ。
額に穴が開き、血が流れている。
ふらつく足で男の死体に歩み寄り頬と首に触れる。温もりはあった。しかし、脈はすでになかった。
もとより、死んでいることは一目見るだけで十分に理解できた。
「なぜ撃った! なぜだ! なぜ僕に殺させなかった!! 答えろ! アーネスト!答えろ!!」
アーネストに詰め寄り、彼の胸を何度も叩く。彼は無言のまま顔を伏せていた。ミズキの叩く力がだんだんと弱くなり、徐々に嗚咽が混ざり始める。
「ミズキさん落ち着いて。まず、服を」
リーンベルが服をミズキの肩に掛ける。それを掴み、ミズキはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「撃たなければ、俺が殺されていた。撃つときはためらうな。お前が教えたことだ」それに、と続ける。「お前に殺させたくなかった。これは、最初から決めていたことだ」
顔を上げたミズキは涙を流していた。他人に見せる、初めての涙だった。その表情は悲しみで緩みきっており、ミズキの涙が止まる様子もなかった。なぜ、とだけ問う視線がアーネストに突き刺さる。そして、またすぐに顔を伏せた。
荒くなった呼吸をゆっくり整え、何度か深呼吸をする。
「すみません。少し、取り乱してしまいました」
涙を拭い立ち上がったミズキは、もう泣いてはいなかった。ついさっきまで緩んでいた表情も、いつも通りの堅さを取り戻していた。
「ミズキ。お前の、その身体は……」
アーネストはミズキの身体から視線をそらせる。
「話は後です」
服を着ながらミズキはそう答えた。
「そうね。すぐにここを離れないと、お父様が気づいて追っ手を仕向けているかもしれません」
「やっかいですね。外に出るまで、銃弾が持つか」
「ああ、大丈夫よ、ミズキさん。私に任せてちょうだい」
愛らしい笑みとは裏腹に、リーンベルの声には一切の感情が込められていなかった。