二十六
車に乗るのはずいぶんと久しぶりの事だった。ウエムラの研究所にいたころ、車で移動することは何度かあったが、この国に来てからは車に乗ることはなかった。それに、座席が向かい合わせになった車に乗るのはミズキの人生初だった。
久しぶりの車内から見る風景。変わっていく景色。ハイスピードで目の前にある物体が流れていく。
速い、とミズキは呟いていた。
何に対して言ったのだろう。
車?
今までの過程?
それとも他の何か?
そんなことを考えている自分が少し可笑しく、一人で景色を眺めながら微笑んだ。それが何であるにしろ、もうすぐ終わる事だ。考える必要など最初からなかった。
アーネストは、車に乗るのは初めてだろうか。どこか落ち着きがなく、いろいろなところに視線を向けている。
リーンベルは何度か乗ったことがありそうだ。いつもの無表情のまま、真っ直ぐに前だけを向いている。そこに誰かいるかのように、ずっと視線の位置を変えていない。
「サエバ様には、感謝しても感謝し切れません。ずっと行方が分からなかった彼女を、こうして連れ戻してくれたのですから」
向かいの席に座ったジョセフが深々と頭を下げる。
「ええ、ずいぶんと骨が折れましたよ。なんの手がかりもないまま、二ヶ月が過ぎたときは、もう駄目かと思いました」
ミズキは軽く微笑んだ。
目が合い、お互いの視線が交錯する。二人とも笑顔を崩さない。しかし、どこか歪んだ笑顔。端から見れば気持ちの悪い光景かもしれないと、ミズキは思った。
アーネストはホテルを出てから、ずっとなにも話そうとはしなかった。リーンベルも同じで口を閉ざしたままなにも言わない。彼女の場合、ミズキが話しかけてもまるで聞こえていないかのように反応がなかった。
ようやく目的を遂げることができると思うと、今更ではあるが緊張で手が震える。でも、悪い気はしなかった。
もう少し、もう少しの我慢ですべての片が付く。
そう、何もかも、すべて終わるのだ。
四人は木と鉄で作られた大きな門の前で車を降りた。ジョセフが門番の一人に近づき、何かを話している。その間に、煙草に火をつけてミズキは待っていた。
そして、ジョセフがこちらへ向くと同時に、門番が二人掛かりで門を開き始めた。こちらへ来るように促しているのがわかる。
「ねえ、ミズキさん」
リーンベルがミズキの服の裾を引っ張った。
「どうかしましたか?」
「最後に一つだけお願いしていい?」
「ええ、僕に叶えられることなら何でも」
その答えに、そっと微笑むリーンベル。
「煙草を一本くださらない?」
ミズキは一瞬きょとんとして、それから自分が吸っていた、残りの長さが三分の一ほどになった煙草を差し出した。
「いいのか? あれほど駄目だと言っていたのに」
アーネストが聞いた。
「最後ですからね」
ミズキは素っ気なく答えた。
見よう見まねで煙草の煙を深く吸い込むリーンベル。そして、慣れない紫煙に激しくせき込んだ。
「美味しくない。ミズキさん、これ美味しくないわ」
リーンベルは涙目になりながらも、ミズキに向かって微笑んだ。ミズキは口角を斜めに上げ、笑みに見える形を作る。
「ねえ、リーンベル。僕のお願いを聞いてくれませんか?」
「ええ、私にできることなら何でも」
ミズキの手が彼女の肩に触れ、二人の顔が徐々に近づいていく。
ミズキの唇がリーンベルの耳元へ
そして
何かを
小さく
呟いた
ミズキの笑み。
アーネストには聞こえていない。
リーンベルにとって、とても簡単でとても大きな願い。ミズキにとって、とても困難でとても小さな願い。
だけど、それは彼女に大きな衝撃を与えた。そして、それは既に心に決めていた。
ミズキがリーンベルから離れた時、彼女は目を見開き両手で口を覆っていた。
「ミズキさん、貴方は……!」
瞳が揺れているのが見える。ミズキは穏やかな笑みを浮かべていた。
「そう……もう、決めたことなのね。わかりました。その願い、私が聞き届けましょう」
もう、彼女の瞳は揺れていなかった。
変わりに、どこか渇いた笑みを浮かべていた。