二十五
ミズキがまだ出てこないと思ったのかリーンベルが立ち上がり、マスターのところへ近寄った。
「電話を貸していただけないかしら?」
申し出はすぐに承諾され、彼女は受話器を受け取った。そして、彼女が知っている唯一の電話番号を入力する。呼び出し音が流れるその間に、話すことを頭の中でまとめておいた。
「久しぶりね」
電話の相手は、無言のままだった。
「今回の件、お父様は怒っているかしら?」
肯定とも否定とも取れるような言葉が返ってくる。いつもと変わらない態度に、彼女はため息をついた。
沈黙。
せっかく話そうと思っていたことが、なかな思い出せない。どうしてこういうときに限って言葉は出てこないのだろう。
相手からの問いかけで、その沈黙は破られた。
「ええ、そうよ」リーンベルは言った。「お互いの姿を見るのは、何十年ぶりになるのかしら?」
リーンベルが可笑しそうに言うと、相手は小さな声で唸った。
「私、あの頃から全然変わっていないわ。でも、きっと、貴方はだいぶ変わっているのでしょうね」
返事はなかった。
「どう? 明日の夜、私のどこが変わってないか、貴方のどこが変わったか、確かめ合わない?」
電話の奥から、わざとらしい咳ばらいが聞こえてきた。
「ジョークよ。そういうところは、昔から変わらないわね」
否定の言葉が返ってきた。
「ところで、明日のことだけど」相手が口をはさむ。「ええ、そうよ、お願い。貴方の働きに期待しています」
後ろで扉が開く音がした。彼女は受話器を持ったまま振り返った。ミズキがアーネストの肩を借りてトイレから出てきた。
「ミズキさん、帰ってきたみたい」彼女は続ける。「それじゃあ、後はよろしくお願いします」
静かに受話器を置き、マスターに頭を下げる。
「おかえりなさい、ミズキさん」まだ口を押えたままのミズキに微笑みかけた。「どう? 少しは楽になった?」
「いえ、まだ気持ち悪い」
ミズキは首を横に振り答えた。
「どこかで休んだ方がいいんじゃないか?」
アーネストが声をかける。ミズキは黙ったまま頷いた。
ふらつきながら、ミズキが席に戻る。
その様子をリーンベルは一切表情を変えずに見つめていた。
ほんの一瞬だけミズキと目線が合う。まだ目の端に少しだけ涙をためていた。なにかに怯えるようなその目を見ながら、軽く微笑む。安心させるつもりの笑みだったが、ミズキは少し驚いたような表情を作り、すぐにリーンベルを視界の外へとやってしまった。
面白くない。いつものミズキの反応ではなかったからか、物足りない気がした。
何を怯える必要があるのだろう?
こうなることは十分に予測できるはずだったというのに……。
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「アーネストさん、ちょっといいかしら?」
二人は近くのホテルにチェックインした後、ミズキを寝かせていた。ベッドの隅に腰かけていたアーネスト。彼はリーンベルに呼ばれると、顔を床からこちらに向けた。無意識のうちか、彼の眉間には皺が寄っている。
「なんだ?」
「外で、少し話さない?」
そう言うとリーンベルは、アーネストの返事を聞かずに部屋の外へ出た。
彼は、ベッドで寝ているミズキを一瞥すると小さな溜息をついた。まだ疲れている様子のミズキは、ときどき何かにうなされながらも、ある程度穏やかに寝息を立てている。目にかかった髪を払ってやる。そして、今度は息を軽く吸い込んだ。
ミズキを起こさないようにアーネストは静かに立ち上がる。そして、リーンベルの後を追った。
「どう、ミズキさんの様子は?」
「大分落ち着いたらしい。静かに寝てるよ」
「そう」
「何かあったのか?」
その言葉に、リーンベルは驚く。表情に出ていたのかと一瞬思考を巡らせ、すぐに笑顔を作った。
「いいえ、何もないわ」
「いや、ミズキの事だ」
「え? あぁ・・・」言葉を詰まらせる。「そう」
「急にだったろう?」
「無理もないと思うわ。だって、あれだけの距離を一瞬で移動したもの。小さな火を操るより、たくさんの力を使ったのは間違いないわ」
「魔女の力か」
「ええ、肉体的にも、精神的にも疲労困憊、と言ったところでしょう」
実際は、リーンベルにはもう一つの心当たりがあった。ミズキは体調を崩す前に電話をしていた。そのせいではないかと考えている。もちろんそれは精神的なダメージだが、電話の相手が彼女の考えているとおりの相手なら、十分にあり得る話ではあった。
「ここで話すのも、他の方の迷惑になるでしょうし、場所を変えましょう」
ホテルの中にあるレストランで向かい合う二人。アーネストはコーヒー、リーンベルは紅茶を頼んでいた。
「アーネストさん、ミズキさんの目的。知っているわよね?」
「ああ。復讐、だろう」
「相手は?」
「第二王子」
「そう、そこまで知っているのね」
アーネストは頷くと、リーンベルから視線をそらせた。そして、コーヒーを一口だけ飲んだ。
「貴方、これからどうするつもりなの?」
リーンベルの問いに、彼の動きが止まった。
「俺は、ミズキについていくつもりだ」
「それがどういう意味か、理解している?」
首を傾げた。
「やっぱり、考えていなかったのね」
くすりと笑う。そして、すぐに硬い表情に変化させ、アーネストを真っ直ぐに見据えた。遅れて、彼の表情も硬くなった。
「このままだと貴方、この国では住めなくなるわ。ううん、もしかしたら、明日死ぬかもしれない」
「なぜ?」
「ミズキさんが復讐しようとしているのは、仮にも王子なのよ? その人と一緒にいる意味を考えてみて」
はっと、何かに気づいたアーネスト。
「お尋ね者に、なるでしょうね」
アーネストの表情が、さらに硬くなった。
「悪いことは言いません。もう、ミズキさんと別れた方がいい」
「ミズキはどうなる?」
その問いに、無表情だったリーンベルの眉が反応した。わずかな反応だったが、アーネストがそれを見逃すことはなかった。
「あの人は、そう、自分で何とかするでしょう」
言葉を紡ぎ出すが、途切れ途切れになってしまった。
「まだ時間はあります。明日の朝まで、よく考えなさい」
それだけを最後に言い残して、リーンベルはその場を去ろうとした。
「お前はいいのか?」
椅子から立ち上がり背を向けた時、アーネストの口から発せられた質問に、身体が硬直する。
「王族となにかしらの関係があるんじゃないのか?」
知ってか知らずか、そんな質問を投げつけるアーネスト。
「私は」振り返らずに続ける「私はいいのよ。別に彼が殺されたところで、何も影響はない」
彼女の口は笑みの形を作っていた。だがそれは、アーネストに見えるはずもなく、実際のところ彼女自身なんのために作った笑みか理解できなかった。




