二十四
ふわふわとした浮遊感がミズキを包む。
水の中を漂う感じ。
どこかで感じたことのあるような心地よさ。
目は閉じているせいで、周りは真っ暗だ。
目を開けると、どんな風景が広がっているのだろう。
気になって、一度は開こうと思った瞼だったが、直前でやめることにした。
目を開けたら、この心地よい浮遊感がなくなってしまうような気がしたのだ。
もう少しだけ、この不思議な感覚を味わっていたい。
どこで感じたのだろう?
思考を巡らせ、記憶を探るが、該当するような物は数少なかった。でも、それを与えてくれたのは、過去に二人だけ。
片方は違うと確信を持って言える。なぜなら、それがすぐに別のものに変わったから。
だから、その人は違う。
温かく、包まれるような、自分のすべてを許容してくれる。
そんな感覚。
出会ってから最後の時までずっと、変わらずにそれを与えてくれたのは、たった一人。
その人物の名前を、無意識のうちに口にしていた。
唇に触れる。
そう、この口が、その名を呟いたのだ。
不意に懐かしさで胸がいっぱいになる。同時に焦燥感がミズキを襲った。
喉が乾く。徐々に奥の方から、締め付けられるような感覚が這い上がってきた。
目はずっと閉じたままなのに、涙が溜まってくる。
目頭からこぼれ落ちる瞬間、ミズキは目を開いた。
見たことのある景色。
何が起こったのか、ミズキにはよくわからなかった。
「戻ってきている?」
リーンベルの表情を窺う。彼女は何を意味しているのか分からない笑みを浮かべていた。首を傾げ、口角だけを少し上げている。普通に見れば、魅力的な笑みかもしれないが、どこか壊れてしまいそうな、そんな感じがした。
「思い描いた場所と同じだった?」
リーンベルが聞いた。
「ええ、寸分違いません。僕は、この場所を思い浮かべました」
「流石ミズキさんね。やっぱり、純血の魔女は違うわ」
笑みを崩さずにそう言った。眉間に皺を寄せて俯く。何か言いたそうな、そんな表情で地面を見つめていた。
「違う、僕じゃない」
小さな呟き。アーネストにもリーンベルにも届かないほど小さな声。誰にも届かないその声は、ミズキ自身の中で何度も響いていた。
「ここがミズキの住んでいた街なのか」
アーネストの声に、ミズキが顔を上げる。彼はミズキの顔は見ずに、後ろに向いてしまった。
ミズキは背を向けアーネストに声をかけようとはしなかった。降り立った場所がここなら、後ろに何があるかをミズキは知っていたからだ。
「ところで」アーネストが言葉を詰まらせる。「この瓦礫の山は何だ?」
「元僕の家です」
「本当に?」
「本当に」
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「ええ、そうです。明日、そちらに彼女を連れて伺います」ミズキはそこで一度言葉を切った。「城に入る許可を……」
電話の相手は、ジョセフ・A・アークライト。リーンベルの捜索を依頼してきた人物だ。ミズキの行きつけの喫茶店で電話を借りている。
電話の向こうから、かすれた笑い声が聞こえてきた。意外な反応に、ミズキは驚かされた。そして異常なほど早く答えが返ってきた。
リーンベルを探す過程で、彼女が王族の関係者であると悟られることを予測していたのだろうか。
相手に気づかれぬよう、ほっと息をついたミズキ。とりあえず城に入る口実ができた。潜入する手段は考えずにすみそうだ。
隣でアーネストが腕を組んで待っている。
ミズキが自分の思い通りに事が進んでいることを伝えようとウインクしたが、彼には伝わらなかったようだ。眉を寄せて、首を傾げた。その間の抜けたような態度に、ミズキは危うく吹き出しそうになった。
「あと、王への謁見も」
呼吸を整えたあと、本題を切り出した。そして、その申し出もあっさりと承諾された。数秒と待たずに、反応が返ってきたのだ。さすがにミズキも気味の悪さを感じずにはいられなかった。
気分が悪い。
思い通りに物事が進んでいるのに、素直に喜ぶことができない。
時間を指定して、ミズキは電話を切った。
「どうだった?」アーネストが聞いた。
「気持ち悪い」
「え・・・?」
「吐きそうだ」
ミズキは口を押さえてうつむいた。
「大丈夫?」
リーンベルは座席に座ったまま問いかけた。
「大丈夫じゃない」
ちらりと彼女を見て言った。視線が、気持ち悪い。自分が何を考えているのか、すべてを見通されそうな視線だった。
アーネストがミズキを支えトイレへと運ぶ。
「外で待っている」
彼が言い終わらないうちに、ミズキは胃の中のものを吐き出し始めた。
この気持ち悪さは何なのだろう。
電話でしか話していないはずなのに、表情まで読みとられているような気がした。
自分のすべてを見透かされた様な気がしたのだ。
手の上で転がされている、そんな感じ。
向こうはどこまで自分のことを知っているのだろう?
ミズキを訪ねてきたときには、既に感づかれていたのだろうか?
それとも、
まだ、何も知らないまま?
何度か繰り返し吐いたせいで吐き気は収まった。だが、ミズキは自ら喉に手を入れ、文字通り胃の中が空になるまで繰り返し吐いた。
涙が滲み、吐き出すものが液体のみになっても、繰り返す。
胃酸の苦みが口いっぱいに広がった。
それでもまだ、気持ち悪い。
不気味で、
不自然で、
憂鬱。
逃げ出したい衝動に駆られた。
ミズキの脳内では、小さな音ではあったが、確実に警報が鳴り続けていた。