十九
『いつの間にか引き込まれてしまった深淵。
足掻いても、そこから逃れることはできない。
彼は気づくのだろうか。
自分の愚かさ、
自分の弱さに。 』
既に息は上がっている。ミズキは外見の通り、力もなければ体力もない。加えて、靴には鉄板を仕込んでいるため、普通の物より重い。体力は限界に近かった。
追手はこちらに来ているだろうか。いや、来てもらわなければ困る。アーネストでは、リーンベルを護りながら、戦うことなどできないだろう。まず、彼の場合、人に向かってトリガーを引けるかどうかすら、怪しいものがある。
ミズキは後ろを振り返った。街灯を壊しているせいで、暗くて何も見えない。だが、一瞬何か嫌な気配を感じた。
どうやら、こちらに来てくれたようだ。
意識していないのに、口角が上がる。
さて、この後はどうしたものか。
街の中を駆けながら、思考を巡らした。このまま、逃げ回っていても埒が明かない。相手がリーンベルを狙っているのなら、ずっと危険が付きまとうことになる。それならば、いっその事、 ここで迎え撃った方がいいかもしれないと思った。
ミズキは街灯を壊すのを止めて、自ら姿を晒した。
振り返り、暗闇に向かって銃を構える。吸い込まれそうな闇だった。
足音が聞こえていた。
「おや。君だけしかいないとは。してやられた、ということか・・・」
男の声。
ミズキは地面に向けて一発、銃を撃った。
「銃を下ろせ。君とやり合うつもりはない」
「姿を見せてください」
「わかった。今から、そちらに出よう」
驚くほど落ち着いた声だった。先ほどまでの嫌な感じもなくなった。どうやら嘘ではないらしい。ミズキを殺すのであれば、黙って闇に潜んだまま、トリガーを引けばいいのだから。
足音が徐々に近づいてくる。ミズキは暗闇を睨んだまま、じっとしていた。
「そう怖い顔をしない方がいい。可愛い顔が台無しだ」
姿を現したのは、背が高く非常に上品な身なりをした男だった。
片手には拳銃を持っているが、その手は下ろされたままだった。銃口をこちらに向ける気配もなかったので、ミズキも銃を下ろすことにした。
「僕は男です」
ミズキは男を睨んだまま言った。
「これは失敬。だが、女性だ、とも言っていないのだが」
ミズキの眉がピクリと上がった。反射的に銃を構えようとしたが、何とかそれをこらえる。それが分かったらしく、男は楽しそうに笑った。耳に着く、嫌な笑い声だった。上品なのは身なりだけか、とミズキは溜息をつく。
「なぜ、姿を現したのですか?」
「それは既に分かっているのでは?」
「目的はリーンベル・ローズヴェルトですか?」
また、嫌な笑い声。どうやら、イエスと言っているようだ。
「そう。確かに、彼女が俺の目的だ。だが、君とは内容が違うみたいだけどな」
ミズキは眉をひそめた。
「リーンベルを殺そうとする理由は?」
「殺す?」
男は高笑いした。どこまででも、耳に着く、嫌な笑いだ。いい加減、ミズキもうんざりしていた。
「俺は彼女を殺そうとは思っていない」
「・・・どういう意味ですか?」
「彼女の邪魔者を、排除するように命じられているのだよ」
「それはどういう」
「そのままの意味だ。彼女の封印書、だったかな? それの手助けをしろと、言われていたんだ」
どこか、引っかかる言い方だった。すぐに気が付いたミズキは「過去形ですか?」と返した。
「もう解雇されてしまった」
大げさに肩をすくめ、溜息をつく男。
「解雇された人間が、なぜリーンベルを?」
「個人的に、彼女に興味があったのだよ。特に、一週間に一度、女の血を飲むところとか」
「やはり、あの事件はリーンベルが起こした物でしたか。それに、飲んでいたとは・・・」
しかし、ミズキにはこの男がリーンベルを追っている理由が、それだけではないような気がしていた。男の目を見ればなんとなく、それが伝わってくる。彼はリーンベルに魅せられているのではないだろうか。
ミズキも経験したことがある、リーンベルの不思議な魅力。写真だけで吸い寄せられそうになったことを覚えている。
「君はなぜ、リーンベルを? 目的は一体?」
「僕は依頼で、リーンベルを探すように頼まれていただけです」
「なるほど、バウンティ・ハンターと言うやつか」
「便利屋です」
すかさず訂正する。
「依頼主は?」
「僕が言うと思いますか?」
「俺は、国王とジョセフという老人に頼まれていた」
一瞬、ミズキの目が揺れる。男はそれを見逃さなかった。
「どうやら、聞き覚えがあるようだな。それとも、依頼主が同じだったか?」
動揺を隠したつもりだったが、見抜かれてしまう。ミズキは聞こえないように舌打ちした。
「そうです。僕もジョセフから依頼を受けました」
ポケットの煙草を取り出し、火を点けた後に、ミズキは言った。
「リーンベルはなぜ血を飲む必要があるのですか?」
煙を吐き出す。
「なんだ、聞かされていないのか?」
「何を?」
「血を飲む理由。それは体の機能を維持するためだと聞いている」
「体の機能を維持? 彼女は一体・・・?」
「本当に何も聞かされていないようだな」
男は溜息にも似た笑い声を出した。
「彼女は三十年ほど前に、ある実験で生み出された人造人間だ。歳も取らない。何の目的があって作られたのかは、わからないがな」
人造人間。その言葉にミズキは自分の耳を疑った。
そんな物が存在するのか。一体どうやって。いや、ウエムラほどの頭脳を持った科学者が何人か集まれば、可能なのかもしれない・・・。
思考を巡らしていると、男が小さな声で笑った。
「その顔は、信じられない、という顔かな?」
その通りだった。実際にまだ、信じられない。
「俺も最初は信じられなかった。だが、彼女の容姿は、俺が初めて見た時からずっと変わっていない。それに写真も見たことがある。十年以上も前の物だ」
「信じるしか、ないようですね・・・」
男の言葉は、嘘のようには感じられなかった。
「リーンベルに興味があると言いましたね。ではなぜ、あなたはリーンベルが血を飲む邪魔をしたんですか?」
「彼女がどうなるか、見てみたかった。結局、君に阻まれてしまったけどね」
「純粋な興味?」
「ああ。その通り」
「ならば、どうです。ご一緒に?」
「どういうことだ?」
「僕たちと一緒に来れば、こそこそとする必要はない」
思考を巡らせた結果だった。リーンベルが人造人間だろうと、ミズキには関係ない。理由がどうあれ、ジョセフの所へ連れて行けばよいのだ。
この男を放置しても、また何かされかねない。それならば、リーンベルの安全を守るために、この男を利用する。そして、もし何か危険なことをしようとすれば、その時点で排除してしまえばいい。
それに、この男が国王と通じていたのであれば、それを利用して、第二王子への復讐を果たすこともできるかもしれない。
「なるほど、なかなかいい提案だ。俺はサイラス・マグリ。君は?」
正直、これほど素直に話に乗ってくるとは思っていなかったミズキは、少し動揺した。
―――――――――――――――――――
二人でホテルに戻っている時だった。不意にサイラスが口を開く。
「ところで、その赤髪。君は魔女かい?」
その言葉に、ミズキの足が止まった。『魔女』という言葉に、憎悪にも似た感情が、吹き出しそうになる。
「男でも、『魔女』と呼ぶのは不思議だがね・・・。この国で魔女がいない理由は知っているよ。数年前に、魔女狩りが行われただろう? 村を一つ、壊滅させたはずだ。俺も、その部隊に所属していた。部隊を率いていたのは、この国の第二王子だったが、ジョセフはその時の指揮官だったかな?」
指の間に挟んでいた煙草が、ぽとりと地面に落ちた。
「あれはよかった。女子供の悲鳴が――――」
振り向きざまに、サイラスの足に向けて一発、銃を撃った。至近距離から撃った弾丸は外れるはずもなく、彼の左の太ももに命中する。
「お前も、あの場にいたのか・・・?」
太ももを撃たれた痛みで、地面を転がりながら叫び声を上げるサイラス。ミズキは冷たい目で彼を見下ろしながら聞いた。
「畜生! 魔女め!」
サイラスは銃を取り出そうとする。その手をミズキが撃った。サイラスの手ははじけ飛び、指がなくなる。また叫び声を上げた。
「魔女め! 魔女め! 殺してやる! 魔女狩りの時のように!」
呪詛の言葉が、ミズキに向かって吐かれる。それが急に恐ろしくなり、ミズキはまた、トリガーを引いていた。
―――――――――――――――――――
トリガーを引き続けた。何度も、何度も何度も何度も。
サイラスがもう息をしていないことなど、お構いなしだった。とにかく、この男が生きていた、存在していた、という事実すべてを消し去りたかった。そのためにまず、肉体を消してしまおうと考えている様だった。
一発。もう一発と、弾丸がサイラスに当たるたびに、ビクンビクンと体を痙攣させている。ミズキにはそれが恐ろしくてたまらなかった。起き上がってまた、あの呪詛に満ちた言葉を、自分に向けてはなってくるのではないかと思えて、仕方がなかった。
弾倉の弾が尽きても、すぐにリロードを行い、絶やす間もなく次弾を撃ち続ける。腕が徐々に痺れてきており、照準が定まっていなかった。数発に一発がサイラスに当たらず、地面に当たっていた。
それでも、ミズキは撃ち続けることを止めなかった。
最後の弾を撃ち終わった時、そこはあまりにも酷い惨状が広がっていた。既に誰だかわからないほど、穴が開いたサイラス。男か女かすらわからないほど、死体は損傷している。大量の返り血がミズキに付着していた。
いつの間にか、息遣いが荒くなっている。
「ちくしょう・・・!」
一人、地面に膝をつき、闇に向かって呟いた。
ふらりと立ち上がったミズキは、顔についた返り血を拭った。
既に感情のコントロールは終わっている。
まだ、やらねばならないことがある。
リーンベルに血が必要だと言うことはわかった。その血を集めなければならない。
それに、ジョセフ。あの男が国につながっているとは思いもしなかった。それに、魔女狩りの当事者だったとは。
サイラスを殺してしまった今、ジョセフを利用して、第二王子に近づくことはできないかと考える。もちろん、その後にジョセフも殺してしまわなければならない。
気が付けば涙が流れている。それでも、ミズキにはただの水分が、目から流れているだけのように思えた。
ミズキは闇の中、おぼつかない足取りで歩き始めた。
明け方になると、そこら中の家に明かりがともった。
どういうことだ、と疲れで鈍った頭を回転させた。恐らく、今までの事件が深夜に起こっていたから、明け方ならば危険はないと、判断しているのだろう。
安易な考えだ、とミズキは口を緩める。
ここにも一人、犯罪者がいるというのに・・・。
まだ、それほど明るくはない。顔を見分けるには、かなり近づかなければわからないだろう。
物陰に隠れ、息を潜める。
寒さで指がかじかんできた。今までは、そんなこと、少しも気にならなかったのに。きっと、緊張から解放されたからだろう。
手に息を吐き、擦り合わせる。ポケットから手袋を取り出し、それを両手にはめた。
玄関のドアが開き、女性が顔を覗かせる。辺りを何度か確認して、外に誰もいないのがわかると、女性は家の外に出てきた。
暗くてよくわからなかったのだが、女性、というのは少し違うかもしれない。まだ、少女と言った方がいいだろう。
後ろからそっと近づいたミズキは、薬物を含ませたハンカチを女性の口に当てた。
一瞬うめき声を上げた女性は、すぐに体の力が抜けたように、その場に倒れた。女性を床に寝かせたミズキは、ポケットから注射器を取り出す。
まさか、ウエムラから借りていた物が、こんなところで役に立つとは、思ってもみなかった。
「少しだけ、もらうよ」
彼は少しだけ微笑みながら言った。