十七
「ミズキさん。ご飯、食べないんですか?」
「ええ。僕はお腹すいてないので」
そう言うとミズキは、ぬるくなったコーヒーを啜った。リーンベルは心配そうにミズキを覗き込む。
「でも、少しは食べた方がいいのではないかしら?」
「リーンベル。放っておけ、ミズキは喫茶店ではコーヒーしか頼まないんだ」
アーネストが横から口をはさむ。
「まあ、そうなのですか?」
ミズキは軽く頷いた。
「こいつと一緒に行動するようになって、何度か一緒に店に入ったが、いつもコーヒーだけだったよ」
「僕が何を頼もうと勝手でしょう?」
「まあ、それもそうだな」
ミズキはポケットから煙草を取り出して火を点けた。その様子をリーンベルが凝視している。
「もう、体の方は大丈夫なのか?」
「大丈夫でないように見えますか?」
「いや・・・」
確かにホテルに帰ってきた当初は、血まみれだったミズキだが、シャワーを浴びた後にはすべての血が消えており、頬にあるかすり傷のようなもの以外、怪我はなかった。どうやら、「五パーセント程度」と言っていたのは、嘘ではないらしい。
「ところで、リーンベル。そのリュックサックの中には何が入っているんですか?」
ミズキは、リーンベルの隣に置いてある大きなリュックサックを指さした。
「これですか? 本が入っています」
「一冊だけ?」
「ええ」
「もしよかったら。読ませていただけませんか? 僕も本が好きなんです」
「申し訳ありませんが、それはできません」
「どうして?」
ミズキはリーンベルを怖がらせないように、極力優しく聞いた。
「・・・・・・」
リーンベルは沈黙したまま、アーネストの袖を引っ張った。アーネストは驚き、ミズキは溜息をつく。
「アーネスト。君と言う人は・・・」
「違う、俺は何もしていない!」
「わかりました。読ませてくれなくてもいいです。内容だけでも少し教えてくれませんか?」
「それくらいなら・・・」と言ったリーンベルは、リュックサックの中から古ぼけた本を取り出した。かなり分厚い本だ。日本国の『広辞苑』と同じか、それ以上の分厚さだと、ミズキは思った。
「これは、封印書です」
「封印書?」
「ええ。危険な、物や魔物を封じるための方法が書かれた本。私はこの封印書に書いてあることをやりなさいと、言われていたの」
「誰に?」
「・・・・・・」
リーンベルはまた口を閉じ、下を向いた。
「なあ、ミズキ。あんなことがあった後なんだ。気になるのはわかるが、もう少し気を使ってやってもいいんじゃないか?」
「君は、甘いな」
ミズキはそう言って、コーヒーを飲み干した。
「本は好きですか?」
ミズキが聞いた。
「ええ。大好き。今まで、たくさんの本を読んできたわ」
恐らく、気を使ってやっているのだろうと、アーネストは思う。
「どんな本が好きですか?」
「物語が好き。あ、でも、論文も好きね。あと・・・そう、辞書も捨てがたいわね」
「辞書?」
「ええ、この国の物だけではなく、外国の本も好き。いろいろな言葉を知ることができるわ。ミズキさんって、日本国の人よね?」
「ええ、そうですが。何か?」
「私、『国語辞典』も読んだことがあります」
「へぇ、珍しいな。俺なんて、物語すらまともに読んだことないのに」
アーネストが感心する。
「そこ、感心するところが違いますよ」
ミズキが言う。
「どうして?」
不思議そうな顔をするアーネストに、ミズキは耳打ちする。
「さまざまな国の辞書を読める、と言うことは、その国の言葉を理解できる、ということです。彼女、凄い語学力を持っています。それに論文を理解できるのも凄い。とんでもなく頭が良いようですね」
「そうなのか」とアーネストは呟く。
リーンベルは楽しそうに、今まで読んできた論文の話をする。ミズキは何とか話に付いて行けたが、アーネストに至っては目を回していた。
―――――――――――――――――――
リーンベルの話がようやく終わり、それと同時に、ミズキは煙草に火を点けた。また、リーンベルがその様子を凝視している。
「ねえ、ミズキさん?」
「はい」
「煙草を一本いただけないかしら? 私、煙草を吸ってみたいわ」
煙草の箱に手を伸ばすが、ミズキがさっとポケットの中にしまった。
「駄目です。煙草は体に悪い」
「じゃあ、何故、貴方は今も吸っているの?」
「どうしてでしょうか。早く死にたいからかもしれません」
リーンベルの問いに、ミズキは笑いながら答えた。
「まあ、私をからかうのね?」
リーンベルは顔を少し膨らませた。
「いいえ、からかうだなんて、とんでもない。実際に煙草一本で、人の寿命は五分縮むと言われています」
「じゃあ、一回、煙を吸いこむだけ。お願い」
両手を顔の前で合わせ、彼女は首を傾げる。どうやら、彼女は合掌の意味を知っている様だ。これも、本で読んだのだろうか。
ミズキは、そんなことを考えながら、まだ半分も吸っていない煙草の火を揉み消した。
「あっ!」
リーンベルは声を上げる。
「駄目です」
ミズキは微笑みながら言った。
―――――――――――――――――――
「ミズキ。こんなところでゆっくりしていて大丈夫なのか?」
アーネストは不安そうな顔をミズキに向けた。
「ええ、大丈夫です。もう、追手の心配はありません」
「どうしてそう言い切れる?」
「帰ってきたときの、僕の状態を忘れましたか?」
帰ってきたときのミズキの状態。血まみれになって、帰ってきたミズキ。だが、自分の血は五パーセント程度しか含まれていない、と言っていた。
つまり、追手を殺した。血まみれになるような殺し方をした、ということだ。できれば、そんなことは想像したくなかった。
「なんて顔をしているんですか? 冗談ですよ」
ふっとミズキが笑う。
「からかうのはよせ」
リーンベルはずっと二人の様子を見ていた。
「二人とも、仲がよろしいのね」
首を横に傾けながら言う。
「別に、僕はそう思っていませんが・・・」
「俺だって思っていないさ」
二人はお互いを横目で見ながら言った。
「あら、そうかしら? 少なくともアーネストさんは、ミズキさんのことを、好きでいるようだけれど」
「アーネスト、君という男は・・・」
ミズキが呆れた顔で、アーネストを睨んだ。心なしか、さっきよりもアーネストとの距離が離れている。
「そんな訳ないだろう! おい、リーンベル!」
「あら、違うの? ホテルに戻った時、私の事なんか気にかけず、ミズキさんの心配ばかりしていたくせに・・・」
「それはそうだが、言葉が足りていない」
ああ、とリーンベルは頷く。
「ごめんなさい、言葉が足りなかったわ。友人としての『好き』よ」
「なるほど。そういうことですか」
「当たり前だろう」
アーネストは溜息をついた。
意外と彼女はトラブルメーカーなのかもしれない。
「もう、止めましょう。こんな不毛な会話は」
ミズキが無表情で言った。リーンベルは二人を見ながら、くすくすと笑っていた。
―――――――――――――――――――
「ところでリーンベル。あなたに聞きたいことがあります」
リーンベルは不思議そうな顔で、ミズキを見た。
「あの時、何があったのか。できるだけ、詳しく教えてください」
ミズキは無表情だった。
「あの時・・・」
俯いたリーンベルの身体が次第に震えだす。彼女は自分の体を抱き、震えを抑えようとした。
「ミズキ。追手が来ないのなら、それは別の機会でも、いいんじゃないのか?」
アーネストが心配そうに口をはさんだが、ミズキはそれをすぐに否定した。
「いいえ。確かに、追手は来ませんが、必要なことです。リーンベル、話してくれますね?」
ミズキの厳しい口調に、リーンベルは肩を震わせた。そして力なく頷いた。
「あの時、私は、あのお姉さんと話をしていました。いつだったかしら? お姉さんの、顔が恐怖で歪んだの。私は何があったのかわからなくなって、とにかくお姉さんを落ち着かせようとして、近づいたわ。でも、彼女は後ずさりした。そして――――」
「撃たれたのか?」
アーネストが小さな声で聞いた。
彼女は小さく頷く。
「突然のことで、驚いて。後ろを見ると男の人が・・・」
そこまで言って、リーンベルは顔を手で覆って泣き出してしまった。声こそは殺しているが、ミズキには肩の震えでわかった。
「彼は、あなたを追っているようでした。何か心当たりはありますか?」
彼女は俯いたまま、首を横に振った。
「いいえ。何も・・・」
その時、僅かにアーネストの中に引っかかるものがあった。ミズキが依頼で、リーンベルを探していると伝えたとき。彼女は何かを呟いた。何を言ったかまではわからなかったが、何か思い当たる節がなければ、あのタイミングで呟くことは、普通ではないだろう。
「そうですか・・・。では、最後にもう一つ」と、ミズキは煙草の火を消した。
「僕はある依頼で、あなたを探していました。依頼主の所まで、連れて行く必要があります」
リーンベルは涙を拭い、ミズキを見た。
「私にその必要はありません」
強い拒否の言葉だった。二人の間に流れた不穏な空気に、アーネストは息を飲む。
しばらく沈黙が続いた。
ふっと息を漏らすリーンベル。
「わかりました。あなたに付いて行きます。そうでもしないと、縛り上げてでも、連れて行かれそう。但し――――」と、彼女は目を閉じた。
「私にも成さねばならないことがあります。それが終わってからでもよろしいですか?」
「成さねばならないこと?」
「お父様から、申しつけられているのです。封印書に書いてある、素材を収集して来いと」
「なるほど。それは、すぐに終わりますか?」
「ええ、この街の近くに、鉱山があるでしょう。そこにある、鉱石が最後の素材なんです」
「わかりました。協力しましょう。僕も穏便に事を済ませたい」
「よかった。ミズキさんなら、そう言ってくれると信じていました」
リーンベルは微笑んだ。
「出会ったばかりなのに?」
ミズキも微笑む。
「ええ。出会ったばかりなのに、不思議ね」
アーネストは胸をなでおろしていた。
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「そうとなれば、早速、準備をしましょう。明日には出発しますよ」
ミズキは椅子から立ち上がりながら言った。
「もう少し、ゆっくりしてもいいのでは?」
「言い忘れていましたが、僕には時間があまりないんです。期限までに、あなたを連れて行かなければならない」
「その期限は?」
「あと、一か月」
「まあ、それは急がなければいけませんね」
席を立ち、料金の支払いに行ったミズキのポケットから、一枚の写真が落ちた。リーンベルがそれを拾い、じっと見る。それは、ミズキと黒髪の少年が笑顔で写っている写真だった。
アーネストがそれを覗き込む。
「なんだ、ミズキ。お前、こんな顔もできるんじゃないか」
その写真に写っているミズキは、いつものような笑顔――――意識して作った笑顔ではなく、心からの笑顔の様に見えた。
「勝手に人の写真を見ないでください」
リーンベルの手から写真を取り上げる。
「お友達ですか?」
「ええ。古い友人です。もう、亡くなってしまいましたが・・・」
「あ、すみません。その・・・」
「いえ、気を遣わなくても大丈夫。それに、亡くなっていると言っても、半分は生きていますし」
アーネストには、その言葉の意味が全く分からなかった。
「あの頃はよかったな」
そう呟いて、微笑んだミズキ。
どこか寂しげな、その笑顔は、やはり作られたものにしか見えなかった。