十五
『異国の地。
異端者たちの、
叫び声。
自由を叫ぶ、
叫び声。
どこに届く?
届かない。
いずれ届く?
届かない。
それでも叫ぶ。
それはなぜ? 』
「加奈子君。どうして、この研究所が、ばれちゃったんだろうね?」
「清隆さん。今はそんなことどうでもいいから、手伝っていただけませんか?」
「嫌だよ。オジサン、喧嘩弱いし。加奈子君の方が強いだろう?」
加奈子は扉を押さえつけながら、植村を睨んだ。彼女の白衣は既に血で赤く染まっていた。彼女の血ではない。襲撃者や、研究所にいた同志たちの血だった。それとは対照的に、植村の白衣はいつもの様に薄汚れているだけ。逃げることに専念しているからだった。
警報が騒がしく鳴り響く中、植村は真っ白な髪を掻き揚げながら、悠長に煙草を吸っていた。加奈子は扉にロックをかけ、バリケードの何重にも築きあげていた。
「内通者でもいたのかな?」
植村は静かに呟く。だが、表情からはまったく焦りを感じさせない。
「エトワールさんを運び込んだときに、見つかったのかもしれません」
「ああ、冴羽が押し付けてきたあの患者か。まあ、手術も終わって、国に帰してあげたし、彼女の心配はいらないだろう」
「話が反れています・・・」
加奈子は溜息をつきながら言った。既に弾の尽きた拳銃をその場に捨て、デスクの一番下の引き出しからサブマシンガンを二丁取り出す。その片方を植村に投げた。
「僕、銃なんて使ったことないんだけど?」
「銃口を撃ちたい対象に向け、トリガを引くだけです」
「へぇ、こんなふうに?」
そう言うと植村は、加奈子の胸に銃を突きつけた。加奈子は全く表情を変えない。
「ええ、そんなふうに」
「トリガを引けば、君は死ぬ?」
「ええ、死にますね」
「撃ってもいいかな?」
「ええ、どうぞ。あなたの望むままに」
加奈子は微笑んだ。そして、両手を広げる。どこか悲しそうな微笑みに、植村は唇を噛んだ。
「すまない。冗談だ」
植村は加奈子を抱き寄せた。加奈子は広げた手を植村の腰に回す。力いっぱい抱きしめあった。植村の白衣に、加奈子が浴びた返り血が付く。
二人は離れて、数秒間見つめ合った。
二人の距離は再び徐々に近づく。植村は少し腰を曲げ、加奈子は少し背伸びをした。息が触れ合う距離になると、お互いに目を閉じた。
唇が触れ合う。
ああ、何ということだろう。
口づけという行為だけで、自分はこの男に愛されていると感じられる。
ただ、行為だけのはずなのに・・・。
いや、行為だからこそ、伝わるのだろうか。
言葉では伝わらない。
そんなものがあるのだ。
その逆も、また然り。
だが、今は言葉より、行為の方が嬉しかった。
私が私であれる。
そんな場所は彼の傍しかない。
そう感じさせてくれる。
今、この瞬間が、とてもとても幸せ。
二人はゆっくりと離れる。
すぐに背を向け、新しい煙草を吸い始めた植村に、加奈子は微笑んだ。
「ありがとうございました」
「何が?」
植村は背を向けたまま聞く。
加奈子は一瞬言葉に詰まり、植村には見えないとわかっていながら、もう一度微笑んだ。
簡単なことなのにすぐに言えない。実を言うと恥ずかしかったのだ。
不思議だ。なぜか、付き合い始めた時のことを、少し思い出してしまう。
初めてのキスのような気持ちだった。
「キス。嬉しかったです」
「そうかい。それはよかった」
そっけなく答えた植村だが、それは照れ隠しのためだと言うことを、加奈子は知っている。キスの後、植村は必ず背を向けるのだ。一度だけ、その顔を覗いたことがある。テールランプの様に真っ赤だった。
加奈子はそんな植村が愛おしくてたまらない。研究に没頭する彼も、笑えないジョークを言う彼も好きだったが、キスをした後の彼が加奈子は一番好きだった。
植村は煙を深く吸い込み、溜息とともに吐き出した。そして、加奈子の方へ向く。
既にさっきのことは、すべて忘れ去った顔だった。加奈子は少し寂しさを感じたが、思考を切り替え、無表情で植村の目を見返した。
「現状報告を・・・」
「はい。――――襲撃してきたのは、装備から、日本国の特殊部隊と見て間違いありません。現在、Cブロックまで制圧されました。連絡が取れている所員は、十数名です。他のブロックで応戦しているようですが、いつまで持つか、時間の問題かと・・・」
「そうか」と呟いた植村は、靴底で煙草の火を消した。
「残念だ。非常に残念だよ。みんな優秀な人材だった。それがこんなところで、死んでしまうなんて。・・・今から助けに行くことは可能か?」
「可能です。ですが、よく考えてください。彼らは何のために戦っているか。貴方の頭脳を護るためです。助けに行って、もしあなたが死ねば、同志たちの死は無駄になります。ここは逃げるべきです」
「・・・・・・」
一瞬険しい表情を見せた植村だが、力なく首を縦に振った。
「どうして国は私たちの邪魔ばかりするのだ? 私はただ、研究がしたいだけ。自分の理論が正しいのか確かめたいだけなのだ・・・」
植村は顔を手で覆い、天井を見た。加奈子はそんな植村に、なんの声をかけることもできなかった。
植村の研究は日本国、いや世界のどの国でも許されることはないだろう。得られるものはとてつもなく大きいが、倫理的に違反している物が多いのだ。そのため、彼は身をひそめて活動している。しかし、他国からの体裁を、必要以上に気にする日本国は、植村のような異端者を許しはしない。国中を探し回り、始末しようとしてくる。過去に植村のような考えを持った同志たちも、ことごとく抹殺されてきた。
「また、一からやり直しか」
「やり直せるだけマシです。彼も頑張っているんですよ?」
「復讐を果たすためだけに、ね。だが、君の言うとおりかもしれない。生きていれば、何度でもやり直しがきく事もある」
加奈子は、バリケードを作った反対側のドアを開けた。敵の姿は見えない。深呼吸して廊下に飛び出した。後ろを植村が付いて歩く。
飛び出してきた敵に銃弾を浴びせながら、加奈子は植村とともに研究所を脱出するため前進した。
―――――――――――――――――――
「そう言えば、冴羽の奴。『あの子』には出会えたのだろうか?」
不意に植村が口を開いた。
加奈子は壁を背にして、敵に向かって弾幕を張っているところだった。
「加奈子君?」
「聞いてます。今、話しかけないで――――っ、弾切れ!?」
最後の弾倉が空になり、加奈子は舌打ちした。
「残念だけど、僕の方もだ」
「この辺りに、銃を隠している所はありますか?」
「いや、ないね・・・」
二人の声は、攻撃手段がなくなったと言うのに、少しの焦りも感じさせない。
「絶体絶命。万事休すか」
植村は腹話術の人形の様な、渇いた笑みを浮かべた。加奈子は溜息をつきながら植村を見た。
「まだ手はあります。ライタを貸していただけますか?」
「何に使うんだ?」
加奈子は速くよこせと言わんばかりに、手を差し出す。
「『魔法』です」
加奈子の言葉に、植村は目を丸くした。今回の襲撃の中で、植村が一番驚いた瞬間だったかもしれない。
「あれ? 加奈子君、魔女の血を引いてたっけ?」
「ええ。ただし、遠縁なので血は薄いです。髪が黒いのもたぶん、そのせいです」
「初耳だな」
「聞かれませんでしたから」
ライタを受け取りながら言う。
「それに、知られたら、夫婦喧嘩の時に使えないでしょう?」
彼女はくすりと笑った。植村もつられて笑う。
「制御が難しいので、少し離れていてください」
加奈子はライタの火を点け、目を閉じる。禍々しい空気が彼女を包む。ライタの火は徐々に大きくなり、加奈子が敵に向かってそれを振った。
炎は巨大な鞭となり、通路に隠れていた襲撃者たちを次々に無力化していく。そして数回、加奈子が腕を振ったところで、ライタにひびが入り、粉々に砕け散った。
さっきまで聞こえていた多数の銃声は一つも聞こえず、その代わりに、いつの間にか作動してたスプリンクラーの水の音が、廊下に響いていた。
力が抜けたように、その場に倒れ込む加奈子を、植村はそっと抱き寄せた。彼女は目を閉じ、眠ったように呼吸している。
魔女の力は、血が濃いほど、強くなる。そして、体への負担も小さくなる。加奈子は遠縁に魔女がいると言った。魔女の血が薄い彼女にとって、今の魔法はかなりの負担を強いただろう。
「君は強いな。私なんかとは大違いだ・・・」
植村は加奈子の頭を撫でながら呟く。
「君がいなければ、既に私はこの世にいないだろうね。でも、君がもし、誰かに殺されそうになったら、その時は、――――」
植村は息を深く吸い込んだ。
「――――その時は、せめて私の手で、君に止めをさせてくれ」
そう呟いた植村は、目を閉じている加奈子に、そっとキスをした。
唇を離し、加奈子を見つめていると、彼女がくすりと微笑んだ。
「それ、プロポーズの時と同じ言葉ですよ?」