第2話 しおりとショール
初夏の風が王城の回廊を吹き抜ける頃、エドワードは執務室で書類に目を通していた。
扉の外から、控えめなノックの音が響く。
「陛下。アシュレイ殿下がお戻りになりました」
その声に、エドワードは手を止めた。
「通せ」
扉が静かに開く。旅装の男が一人、ふらりと入ってきた。背に弓、腰には剣。髪もひげも伸び、目は鋭くなっている。背は高くなり、肩幅もがっちりしていた。
長い旅で鍛えられたのか、筋肉の厚みが服越しにもわかる。
首から下げた革紐には、王家の紋章が刻まれた指輪が揺れていた。
けれど、エドワードはそれを見るまでもなく、すぐにわかった。
「……帰ってきたか」
「ああ」
エドワードは書類を閉じ、まっすぐアシュレイを見る。
「お前には山ほど仕事があるぞ。まずは埃を落としてこい」
「……わかった」
アシュレイは静かに扉を閉めて出ていった。
エドワードは、口元にわずかに笑みを浮かべた。
誰もいない執務室で、ひとりごとのように呟く。
「……おかえり、アッシュ」
この時エドワードは32歳、アシュレイは22歳、実に7年ぶりの再会だった。
15歳で国を出たアシュレイは、生きる意味を見失ったまま、ただ生き延びるためになんでもやった。行く先々で、"レイ"と名を偽り、獣狩りも、ならず者狩りも、海賊狩りも引き受けた。荷運びや護衛、密輸の手伝いもすれば、賞金稼ぎの真似事もした。寝床のために剣を抜き、日銭のために弓を引く。返り血を浴びたまま酒場に入り、乾いた喉を酒で流し込みながら、次の依頼を探した。裏切りも、脅しも、命を賭けた戦いも、必要とあらば迷わなかった。
ただ、時々、エレナの言葉を思い出すことがあった。
「……あの白い花、カラーっていうのよ。私の一番好きな花なの」
その花が咲く場所を探して、彼はまた歩き出す。
そんな生活を7年続け、アシュレイはある小国の、古びた港町の酒場でその知らせを聞いた。
「聞いたか?フェルミルナ国の王が変わったらしい」
「前の王と王妃が、裏でずいぶん悪事を働いてたらしくてな。新しい王が全部暴いて、裁いたんだと」
「名前は……たしか、エドワードとか言ったか?」
アシュレイは、手の動きを止めた。
器の中のスープが、静かに揺れていた。
――兄上が、王になった?
彼は、静かに席を立ち、外へ出る。
港の灯を見下ろしながら、彼は思った。
兄が、王家の罪を断ち切った。
あの人が、あの人のやり方で、過去に決着をつけたのだ。
それを聞いたとき、胸の奥がざわついた。
自分は――何をしていた?
剣を振るい、血を浴び、名を偽って生き延びてきた。
けれどそれは、ただ逃げていただけだったのではないか。
王家の名からも、兄からも、そして自分自身からも。
港の灯が揺れていた。
その光は、迷い続けた心を導くように見えた。
今度こそ、兄の役に立ちたい。
そう決めて、彼は帰還の道を選んだ。
王城に戻ってから数日後、アシュレイは白いカラーの花束を手に、エルネスト家の墓地を訪れた。
風は穏やかで、空は高く澄んでいた。
墓石の前に立つと、彼はそっと膝をつき、花を供える。
「……ただいま」
遅くなってごめん。
あの時、あなたがいてくれたから俺は生きられたのに。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、少女が立っていた。
歳のころは10歳くらいか。栗色の髪に、瑠璃色の瞳。
どこか懐かしい面影があった。
「お兄さん、だれ?」
その顔は、エレナによく似ていた。
「……セレナか?」
少女はきょとんとした顔で、首をかしげた。
「私を知ってるの?」
アシュレイは、ほんの少しだけ笑った。
「昔、君のお母さんに世話になった。君がまだ、ほんの小さいころだ」
セレナは少し考えてから、微笑んでいった。
「そうなんだ。じゃあ、おかえりなさい」
その言葉に、アシュレイの胸が暖かくなった。
帰ってきたんだな、俺は。
風が吹いて、墓前の白いカラーが揺れた。
まるで、エレナが「おかえりなさい」と言ってくれているようだった。
それから数年、騎士団長となったアシュレイは、今年も変わらず墓前を訪れた。
白いカラーの花束を手に、静かに膝をつく。
背後から足音が近づいてくる。
振り返ると、セレナが立っていた。
栗色の髪は背中まで伸び、瞳は少しだけ大人びていた。
エレナによく似てきていた。
「お兄さん、毎年きてくれてありがとう」
セレナはそう言って、手に持っていた小さな包みを差し出す。
「これ、しおり。カラーの花を描いたの」
「本当は押し花にしたかったんだけど、カラーって大きくて、うまくいかなくて……」
「だから、絵にしたの。白だと紙と同じ色になっちゃうから、黄色にしてみたんだけど」
その言葉に、アシュレイはふと庭の光景を思い出した。
エルネスト家の花壇には、白いカラーのほかにも、黄色や淡い桃色のカラーが咲いていた。
アシュレイは、受け取ったしおりを見つめた。
少し厚みのある紙の上に、繊細な筆致で描かれた黄色いカラーが、静かに咲いている。
――俺に描いてくれたのか。俺のために……
「……ありがとう」
アシュレイは胸の奥が、じんわりと温かくなった。
エレナと過ごした日々のぬくもりが、ふと蘇った。
氷狼討伐隊の隊長として任命が下ったのは、冬の終わりだった。
かつて村を氷の山に変えたというその魔獣が、再び姿を現したのだ。
任期は三年。北辺境伯領に拠点を置き、冷気を操る魔獣・氷狼の群れを追う日々が始まる。
任命式のあと、広間では祝宴が催されていた。隊員や貴族たちが集い、杯を交わしながら新たな任務の成功を祈っていた。
兄王から聞かされていたことを、アシュレイはふと思い出す。
今回の隊長任命を陰で推したのは、第2王子の側近ユリウスだ。切れ者で、油断すれば痛い目を見るぞ、とも忠告されていた。
その席で、ユリウスがアシュレイに歩み寄ってきた。
「任務拝命、ご健闘を祈ります」
「……お前の仕込みだろう?」
アシュレイは目を細め、皮肉を込めて返した。
ユリウスは薄く笑みを浮かべる。
「殿下ならば、大丈夫ですよ」
「国に役立てるよう、精一杯やってくるよ」
「それに……国のために栄誉を取れば、セレナ嬢もイチコロですよ」
「……なぜ、知ってる?」
アシュレイは驚いた。
ユリウスは肩をすくめ、余裕の笑みを崩さない。
落ち着け、俺。
こいつに悟られてはならん。弱みを見せてはいけない。
アシュレイは何でもないふりを装い、静かに言った。
「ただの墓参りだ」
平静を装ったはずなのに、胸の奥に小さなざわめきが残った。
セレナは12歳も年下だ。ユリウスはいったい何を言っているのだ。
これは、兄ごころのようなものだ。――そう、自分に言い聞かせる。
けれど、セレナのしおりは、どこへ行くにも、無意識に持ち歩いていた。
王都の巡回中、ふと目に留まった店先に揺れる淡い黄色のショールが、目に焼きついた。
肩にかければ、風にふわりと揺れるだろう。
――今のセレナに、似合いそうだ。
「……もうすぐ、14歳か」
墓前で出会ったあの日から、もう4年。
少女は、少しずつ女性らしくなっていた。
任務が終わるまで、王都には戻ってこれない。
会えなくなる前に、どうしても渡しておきたくなり、
春の気配がまだ薄い午前、アシュレイはエルネスト家の門を静かに叩いた。
玄関先に現れたのは、淡いクリーム色のドレスをまとったセレナだった。
アシュレイの姿を見つけると、目を瞬かせ、小さく微笑む。
「……お兄さん、会いに来てくれたの?」
「ああ。少し、話せるか」
セレナは頷いて、彼を応接間へ案内した。
アシュレイは、包みを差し出す。
「前に、しおりをくれただろう。あのお礼だ」
セレナは驚いたように目を見開き、そっと包みを開けた。
淡い黄色のショールが、春の陽だまりのように広がった。
「……きれい」
セレナは、少しだけ頬を染めて笑った。
「朝晩はまだ冷えるからな」
セレナは少し考えるように目を伏せ、
「お兄さん、ありがとう。ちょっと待ってて」
と言うと、応接間を出ていった。
ほどなく戻ってきた彼女の手には、小さな包みが握られていた。
「お父様から聞いたの。討伐隊のこと……だから、これを渡したかったの」
「あの、これ……もらってもらえますか?」
アシュレイは目を細めた。
「……俺のこと、知っていたのか」
セレナは頷いた。
包みの中には、丁寧に刺繍されたハンカチが入っていた。
月桂樹の枝が弧を描き、その中心に、黄色のカラーが咲いていた。
アシュレイは、しばらくそれを見つめていた。
――俺のために、刺繍してくれたのか……
胸の奥が、静かに熱くなる。
そして、ふと口を開いた。
「……ありがとう」
「……大事にするよ」
アシュレイはハンカチを懐にしまい、立ち上がった。
「しばらく、墓参りには来られない」
セレナは、静かに微笑んだ。
「お母さまは、そんなこと気にしないわ。
誰が来たかより、どう思ってくれてるかのほうが、きっと大事だから。
無事に帰ってきてくれれば、それでいいの」
アシュレイは、言葉を失ったまま、彼女の顔を見つめた。
その瞳には、揺るぎない優しさが宿っていた。
「……そうだな」
互いの贈り物が、言葉にならない想いを、そっと交差させていた。




