第1話 白い花の恩人
「アッシュ、頑張るんだ。俺が絶対、助けてやるからな」
第一王子エドワードは、冷遇されていた12歳の弟、第二王子アシュレイを抱きかかえ、誰にも見られぬよう医師エルネスト公爵の屋敷へと駆けこむ。
焦点の合わない瞳、荒い息、震える指先――それは王妃派と側妃派の争いの余波、毒だった。
夜更けの扉を叩くと、現れたリークが眉をひそめた。
「……どうした、殿下」
「アシュレイが毒を飲んだ。母(王妃)の仕業だろう。……おそらく、この子の母(側妃)と同じ毒だ」
リークは頷き、急ぎ解毒の準備を始めた。
アシュレイは朦朧とした意識の中で、兄の声を聞いていた。
「この子の命を救ってくれ。頼む。……俺の弟なんだ」
王妃の息子が、側妃の息子を“弟”と呼ぶ――それは王城では滅多に聞かれない言葉だった。
……王城の争いの余波は、幼い王子の命を奪いかけた。
それから一週間――
アシュレイは生死をさまよったが、ようやく峠を越え回復に向かっていた。
エルネスト公爵リークの妻、エレナは水差しと小瓶を手に、アシュレイの枕元にやってくる。
「さあ、今日もにがーい薬を飲みましょうか」
アシュレイは顔をしかめながら身を起こす。
「この薬……いつまで飲まないとだめなの?」
「ご飯がいっぱい食べられるようになるまでよ。昨日より、ひと口多く食べられたでしょう?」
「うん……ちょっとだけ」
「それが大事なの。じゃあ、今日も一歩前進ね」
彼女が差し出す薬を受け取り、アシュレイは苦味を味わわないよう一気に口に含んだ。エレナが微笑んで見ている。
こんな風に、誰かに優しくされた記憶は、ほとんどなかった。
アシュレイの母は物心つく前に亡くなっている。
母がいたら、こんな感じなのかな?
その考えは、彼の中で小さな灯のように揺れていた。
部屋の扉が控えめに叩かれ、エドワードとリークが入ってくる。
「容態が落ち着いたって聞いてな。顔を見に来た」
「ご飯も少しずつ食べられるようになってるのよ」
エレナが水差しを置きながら言う。
そのとき、屋敷の奥から赤ちゃんの泣き声が響いた。
「あら、セレナね。ちょっと見てくるわね」
エレナは微笑み、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まると、兄弟と医師だけの空気が残る。
エドワードはアシュレイのそばに椅子を引き寄せ、静かに話し始めた。
「お前にはちゃんと話さないといけないと思ってな」
「……うん」
「まず……お前は毒を飲まされて、この状態になった。わかるか?」
「……うん。なんとなく、そうかなって思ってた」
「……守ってやれず、すまなかった」
謝らないでよ、兄上。
僕を大事に想ってくれてるの、わかってるよ…
アシュレイ小さくうなずいた。言葉にはできなかったが、お互いを思いやる気持ちは繋がっていた。
「しばらくはここで静養する。だが、それも三ヶ月が限界だ」
「この屋敷で身体を治し、毒への対処方法を学ぶんだ」
「……対処方法?」
「そう。万が一また何かあったとき、自分で気づいて、自分で動けるように」
「俺は公務で城を空けることが多い。だから――お前自身が、強くなるんだ。わかるな?」
アシュレイはエドワードをじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。
一月もすると、アシュレイは完全に回復し、午前はリークによる毒に対する対処法の講義が始まった。
「毒は、気づければ助かる。だからまず、違和感に気づく力をつけるんだ」
薬草の見分け方、舌で苦みを判別する訓練、初期症状を見逃さないための観察――王城では決して教えてもらえなかった、生きるための知恵ばかりだった。
午後になると、エレナがセレナを抱いて部屋に戻ってくる。
「お疲れさま。今日は、セレナもご機嫌よ」
アシュレイの顔を見ると、セレナはきゃっきゃっと笑った。
アシュレイはその小さな手をそっと指でつつき、思わず笑みがこぼれる。
「この子、ほんとに小さいね」
「ええ。でも、よく飲んで、よく泣いて、よく笑うのよ」
セレナは僕を見るとよく笑うんだよな。
エレナとセレナは、講義の緊張をすっかり溶かしてくれた。
講義のない午後、アシュレイは二人と一緒に庭へ出るのが好きだった。屋敷の庭には季節の花々が咲き、風が通るたびに香りが揺れた。
「ここ、気持ちいいよね」
「ええ。セレナも、外の空気が好きみたい」
セレナはエレナの腕の中で、きょろきょろと目を動かしながら、小さな手をぱたぱたと揺らしている。
アシュレイはその様子に思わず笑みを浮かべ、芝の上に腰を下ろした。
エレナが庭の一角に咲く白い花を指さす。
「……あの白い花、カラーっていうのよ。私の一番好きな花なの」
すっと伸びた茎に、静かな白い花が咲いている。白いカラーを中心に黄色や薄いピンクのカラーも並んで咲いていた。派手ではないけれど、どこか凛としていて、目を引く。
アシュレイは首をかしげて尋ねた。
「なんで好きなの?」
「静かで、でも芯が強い感じがするから。悲しい時も、嬉しい時も、そばにいてくれる花なの」
その白さが、エレナの横顔と重なって見えた。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
エレナの傍で過ごす日々は、まるで夢のように穏やかで、気づけば三か月が経っていた。
そして、王城へ戻る朝が、とうとう訪れた。
空はどこまでも澄みわたり、庭の白いカラーはまだ咲いていた。風に揺れるたび、静かに見送るように首を振っている。荷馬車の準備が整い、エドワードとリークが屋敷の前で待っている。
アシュレイは、最後にもう一度だけ振り返った。
エレナは眠っているセレナを抱いて立っていた。
「……また、来てもいい?」
アシュレイは、うつむきながら尋ねた。
エレナは微笑んで、そっと頷いた。
「ええ。いつでも帰っていらっしゃい。セレナも、きっと喜ぶわ」
アシュレイはほっとしたように笑い、一礼すると、もう不安のない顔で馬車へと向かった。
王城に戻ったアシュレイを見て、人々は少し驚いた。
かつてのおどおどした少年は、言葉を選び、目を見て話すようになっていた。
幾度かの毒の混入にも自ら気づき、冷静に対処できるようになっていた。試練を乗り越えるごとに自身もつき、兄を頼らずとも自分の言葉で収めることもあった。
そして、月に一度、彼はひとりで馬に乗り、屋敷を訪ねた。
エレナは変わらず庭にいて、セレナは歩けるようになっていた。
「おかえりなさい、アシュレイ殿下」
「ただいま。……セレナ、大きくなったね」
セレナはトコトコとアシュレイの方へ歩み寄り、笑顔を見せる。
その小さな足取りが、胸の奥をやわらかく満たしていく。
この穏やかな時間を過ごせるのなら、どんな試練だって乗り越えられる。
アシュレイはそんな気持ちを抱いていた。
しかし、その穏やかな日々は突然終わりを告げた。
アシュレイが15歳になった年、王都に疫病が広がった。
ちょうどその頃、エレナは二人目の赤子――ミレナを産んだばかりだった。
産後の彼女を、容赦なく疫病の魔の手が襲う。
アシュレイが駆けつけたとき、エレナはもう目を開けることはなかった。
エレナの葬儀の日、セレナは椅子に座り、ただ前を見つめていた。
泣きもせず、笑いもせず、幼い顔から表情が消えていた。
その傍らで、父リークはミレナを抱きしめていた。
声もなく、ただ強く抱き寄せるその姿に、深い悲しみが滲んでいた。
王城に戻っても、アシュレイの心は空っぽだった。
毒も陰謀も、相変わらず彼を狙う。いつまでたっても刺客は現れ、心のよりどころだった人はもういない。兄にこれ以上、負担をかけたくもなかった。
心の奥では、答えのない問いが渦巻く。
――自分は、何のために生きているんだろうか。
ある夜、アシュレイはエドワードの執務室を訪ねた。
「兄上……俺、国を出ようと思う」
「……理由は?」
「俺は、何のために生きるのか、わからなくなった。ここにいても、誰も変わらない。
だから――誰も知らない場所で、自分と向き合いたいんだ」
エドワードはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「わかった。……だが、ひとつだけ覚えていてくれ。
お前がどこへ行こうと、何があろうと――俺は、いつだってお前の兄だ」
その言葉のあと、彼は机の引き出しから小さな箱を取り出した。
中には、王家の紋章が刻まれた指輪が収められていた。
「これを持っていけ。身分を証明するものだ。
必要なときに見せれば、王族として通れるはずだ」
「……ありがとう」
アシュレイは黙って受け取り、指先でそっと紋章をなぞった。




