第七章 大躍進の飢え
南の海の青さを、そしてすがすがしい風の記憶を、上海の空は容赦なく塗りつぶした。船が黄浦江の濁った流れを遡り、外灘の石造りの壮麗な建築群が見えてきた時、洪正の胸に込み上げたのは懐かしさではなく、むしろ巨大な迷宮に足を踏み入れるような圧迫感だった。空は、石炭を燃やす煙と、無数の人々の吐息とで、常に鉛色に淀んでいた。空気は湿り気を帯び、埃と、得体の知れない生活の匂いが混じり合って鼻をつく。海南島の、塩と花の香りに満ちた風とは、全く質の違う重さがそこにはあった。
十数年ぶりに踏んだ故郷の土。だが、洪正は、自分がこの街の異邦人であることを、すぐに悟らされた。彼が話す上海話は、どこか南の島の緩やかな訛りを引きずっており、街の人々の早口でまくし立てるような言葉の洪水の中で、ぎこちなく響いた。
張家の屋敷は、虹口区の古い路地「弄堂」の中にあった。石庫門と呼ばれる、西洋と中国の様式が混じり合った重厚な門構え。一歩足を踏み入れると、そこは薄暗く、ひんやりとした空気が支配する世界だった。陽光は、隣家との間にわずかに切り取られた「天井」から、細く差し込むだけ。壁には、長年の湿気でできた黒い染みが、まるで不気味な地図のように広がっていた。
出迎えた父、張守仁は、洪正の記憶にあるよりもずっと小さく、そして気難しげに見えた。彼は上海でも名の知れた仕立て職人であり、小さな工房を構え、数人の職人を雇う「小資産階級」だった。その顔には、新しい時代の支配者となった労働者階級への迎合と、かつての主人としてのプライドとが、奇妙な形で同居していた。
「……戻ったか」
父の言葉は、歓迎よりも、査定するような響きを持っていた。
そして、その視線が珍蓮と、彼女の腕に抱かれた楡生に向けられた時、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。
「こいつが……お前の嫁か」
珍蓮は、広東の田舎訛りで、たどたどしく挨拶した。その言葉を聞いた瞬間、父の眉間の皺が、さらに深くなった。
奥から、ゆらり、と現れたのは、母の趙玉蘭だった。彼女は、かつては名の知れた商家の令嬢だったという。その名残は、高価だが手入れの行き届いていないシルクの長衫や、不自然に小さな足元を隠す刺繍の施された靴に見て取れた。彼女の顔色は青白く、瞳はどこか虚ろで焦点が合わない。部屋の隅に置かれた寝台の脇には、甘く、そして退廃的な香りを放つ阿片の吸い殻が、無造作に捨てられていた。纏足――旧社会の悪習であるその小さな足で、彼女は新しい時代を歩むことなどできはしないのだ。
玉蘭は、珍蓮を一瞥すると、扇子で口元を隠し、鼻で笑った。
「まあ、南の蛮地の女ね。言葉も分からなければ、肌も黒い。それに、その手……まるで男のようだわ」
珍蓮の、市場の力仕事で節くれ立ち、日に焼けた手。それは、彼女が必死に生きてきた証だった。だが、この旧社会の亡霊のような女にとっては、ただの下賤の印でしかなかった。
その日から、珍蓮と楡生の、息の詰まるような日々が始まった。
この家では、彼女は嫁ではなく、新しく来た無給の使用人だった。言葉が通じないことをいいことに、玉蘭は彼女に朝から晩まで、際限なく仕事を言いつけた。洗濯、掃除、炊事。何一つ、気に入ることはなく、事あるごとに甲高い声で罵った。洪正の父も、そんな妻の振る舞いを黙認した。彼にとって、広東の田舎女である珍蓮は、張家の嫁として、あまりにも不釣り合いな存在だったのだ。
珍蓮は、泣かなかった。少なくとも、人前では。彼女は、海南島で泥にまみれても失わなかった誇りを、この薄暗い屋敷の中で、必死に守ろうとしていた。だが、夜、皆が寝静まった後、楡生を抱きしめながら、声も立てずに涙を流す日も少なくなかった。海南島の、あの大きな楡の木の下で交わした決断は、本当に正しかったのだろうか。この子の未来のためだと信じてやって来たこの場所は、本当に楽園だったのか。答えの出ない問いが、彼女の胸を締め付けた。
洪正もまた、苦悩していた。彼は、妻と息子が置かれた状況を、痛いほど理解していた。だが、彼もまた、「張家の息子」という見えない鎖に縛られていた。父、守仁は、工房の後継者として洪正に過酷な労働を課した。長年のブランクを埋めるためだと言って、他の職人たちよりも厳しい要求を突きつけ、時には何日も家に帰さず、工房に泊まり込ませて仕事をさせた。それは、父なりの期待の表れだったのかもしれない。だが、その結果、洪正は、最も守るべき家族が苦しんでいる時に、そばにいてやることができなかった。
そして、時代の歯車は、容赦なく狂い始める。
1958年。毛沢東の一声で、「大躍進」政策が始まった。それは、「15年でイギリスを追い越す」というスローガンの下に、国中が鉄鋼生産と食糧増産に熱狂的に突き進む、一種の集団ヒステリーだった。
街の至る所に、「土法高炉」と呼ばれる、レンガを積み上げただけの粗末な溶鉱炉が作られた。人々は、家の鍋釜、農具、果ては扉の蝶番まで、ありとあらゆる鉄製品を供出し、それを溶かして質の悪い鉄塊に変えた。洪正の工房からも、年代物のミシンやハサミが、「国家への貢献」という名の下に持ち去られていった。父の守仁は、悔しさに顔を歪めながらも、それに逆らうことはできなかった。「小資産階級」というレッテルは、この新しい社会では、いつ「反革命分子」に変わるとも知れない、危険な焼印だったからだ。
さらに深刻だったのは、食糧だった。農村では、人民公社が組織され、非現実的な増産目標が掲げられた。収穫された食料は、そのほとんどが国家に吸い上げられ、農民たちの手元には何も残らなかった。その結果、豊作を謳歌するプロパガンダの裏側で、中国史上最悪の、未曾有の大飢饉が静かに、しかし確実に広がっていった。
上海のような大都市でも、配給は日を追うごとに減っていった。人々は、草の根を掘り、木の皮を剥いで飢えをしのいだ。街には、栄養失調で顔を黄色く腫らした人々が、亡霊のようにさまよっていた。そんな状況でも、階級による格差は、厳然として存在した。党の幹部たちは、特権的なルートで食料を手に入れ、庶民の飢えを尻目に、満腹な日々を送っていた。
張家にも、飢えの影は、じわじわと忍び寄っていた。
食卓に上るのは、水で薄めた薄い粥と、わずかばかりの塩漬けの野菜だけ。そんな中でも、玉蘭は、自分の分の粥に隠れて白砂糖を入れ、珍蓮と楡生には、さらに薄められた上澄みだけを与えた。
「食い扶持ばかり増やして、何の役にも立たない」
それが、彼女の口癖だった。
ある日、楡生が、高熱を出して倒れた。飢えによる、典型的な栄養失調だった。珍蓮は、青ざめた顔で楡生を抱き、洪正に助けを求めた。洪正は、工房から飛んで帰ると、父に懇願した。
「父さん、頼む。闇市で、卵を一つ、買ってきてはくれないか。このままでは、楡生が死んでしまう」
父の守仁は、苦渋の表情で首を振った。
「馬鹿を言え。今、闇で卵一つ買うのに、いくらかかると思っている。そんな金はない。それに、見つかれば『投機倒把(不正投機)』の罪で、我々一家全員が吊るし上げられることになるんだぞ」
「ですが、父さん!」
「黙れ!」守仁は、声を荒げた。「たかが女子供一人のために、張家を危険に晒すわけにはいかん!」
その言葉は、冷たい刃となって洪正の心を突き刺した。これが、家族なのか。これが、楡生の未来のために選んだ道なのか。
その夜、洪正は、決断した。彼は、父の金庫から、なけなしの金を掴み出すと、闇に紛れて外へ飛び出した。恐怖に震えながら、闇市のブローカーと接触し、法外な値段で、たった一つの卵と、わずかばかりの米を手に入れた。
家に帰り、珍蓮がその卵で滋養のある粥を作って楡生に与えると、楡生の熱は、数日後に奇跡的に下がった。だが、洪正の行動は、父の知るところとなった。
「この親不孝者が!」
守仁は、激昂し、洪正を殴りつけた。「お前は、この家を破滅させる気か!」
洪正は、殴られるまま、一言も反論しなかった。唇から流れる血の味を感じながら、彼は、この歪んだ社会と、家族という名の牢獄に、深い絶望を感じていた。
南国の、すがすがしい風が恋しかった。憎しみ合いながらも、どこかに人間の情けがあった、あの海南島の日々が。新しい社会、人民のための国という言葉を、あれほど信じて疑わなかった自分は、何と愚かだったのだろう。
階級闘争は、外の世界だけでなく、この小さな張家の中にも、根深く巣食っていた。小資産階級の主人である父。その妻で、没落した商人階級のプライドにしがみつき、阿片に逃避する母。そして、無産階級の田舎女として、搾取される嫁、珍蓮。洪正自身は、その全ての階級の狭間で、引き裂かれていた。
大躍進の飢えと、階級闘争の狂気。紅い星の下で始まった新しい人生は、三人が夢見たものとは、あまりにもかけ離れていた。それは、希望の幕開けなどではなく、果てしなく続く、暗く、長いトンネルの入り口に過ぎなかった。上海の淀んだ空の下で、洪正と珍蓮は、ただ互いの存在だけを頼りに、息を潜めて生きるしかなかった。楡生の寝顔を見つめるたびに、二人の胸には、鋭い痛みが走る。この子を、本当に幸せにできるのだろうか。その問いに、答えをくれる者は、どこにもいなかった。
だが、どれほど長く、暗いトンネルにも、どこかに小さな光の亀裂は存在するのかもしれない。その光は、予期せぬ方角から、まるで密やかな奇跡のように、張家にもたらされた。
それは、楡生の熱が下がってから数週間後の、ある蒸し暑い午後のことだった。家の石庫門を、控えめに叩く音がした。珍蓮が警戒しながら扉を開けると、そこに立っていたのは、身なりの貧しい、日焼けした顔に行商人の狡猾さと人の好さをない交ぜにしたような表情を浮かべた中年男だった。男は、誰何する珍蓮には目もくれず、洪正の父、守仁の名を告げた。
守仁が訝しげに男の前に立つと、男は素早く周囲を見回し、懐から油紙で包まれた小さな荷物を差し出した。
「香港の、張徳宝様からです」
小声でそう告げると、男は足早に雑踏の中へと消えていった。
張徳宝。それは、守仁の弟、つまり洪正の叔父の名だった。彼は、解放前にイギリス領の香港へ渡り、そこで貿易商として成功したと風の噂に聞いていた。共産党政権下では、海外、特に資本主義の牙城である香港に親族がいることは、「海外関係」として政治的な弱みとなりかねず、張家では彼の名を口にすることさえ憚られていた。
守仁は、まるで熱い鉄にでも触れたかのように、慌てて荷物を家の中に運び込むと、震える手でその包みを開いた。中から現れたのは、ブリキの缶が三つ。一つは、赤と金の派手なラベルが貼られた牛肉の干し肉。もう一つは、可愛らしい赤ん坊の絵が描かれた練乳。そして最後の一つは、色鮮やかな果物が描かれたフルーツカクテルの缶詰だった。
薄暗い部屋の中に、その缶詰は、まるで別世界の宝物のように、鈍い光を放っていた。飢えに慣れきった家族は、言葉もなく、そのブリキの塊を凝視した。それは、ただの食料ではなかった。豊かな世界からの便りであり、忘れかけていた「美味いもの」という記憶の結晶であり、そして何よりも、血の繋がった者からの、危険を冒して届けられた情愛の証だった。
「……徳宝の奴め」
守仁の口から、掠れた声が漏れた。その声には、政治的な恐怖を上回る、弟への複雑な感謝の念が滲んでいた。
その日の夕食は、何ヶ月ぶりかで、人間らしいものとなった。珍蓮が、守仁の妻である玉蘭に指図されながらも、缶切りで慎重に干し肉の缶を開ける。塩気とスパイスの、強烈で芳醇な香りが部屋に満ちた瞬間、家族全員の喉が、ごくりと鳴った。薄い粥の中に、細かく刻まれた干し肉が数切れずつ入れられる。楡生の粥には、特別に、甘い練乳がほんの少しだけ垂らされた。
楡生は、その甘美な味に目を丸くし、夢中で匙を口に運んだ。その満ち足りた表情を見て、珍蓮の胸には温かいものが込み上げた。洪正も、父も、母も、誰もが黙って、しかし噛みしめるようにしてその粥を啜った。食事の間、あれほどいがみ合っていた家族の間に、言葉のない、一種の連帯感が生まれていた。食べ物が、人間の心にこれほどの影響を与えるものかと、洪正は改めて思った。
それから、その奇跡の便りは、数ヶ月に一度、不定期に届けられるようになった。行商人の男は、いつも違う時間に、違う服装で現れ、決まって「張徳宝様から」とだけ告げて荷物を置いていった。それは、常に危険と隣り合わせの、細く、頼りない命綱だった。
香港からの支援は、張家の生活に、物理的な栄養だけでなく、精神的な潤いをもたらした。缶詰が届いた夜だけは、家の中に、普段は決して聞かれることのない穏やかな会話が生まれた。守仁は、珍しく昔話をし、弟である徳宝の子供の頃の腕白ぶりを、少しだけ誇らしげに語った。阿片に心を蝕まれていた玉蘭でさえ、フルーツカクテルのシロップの甘さに、遠い昔の少女時代を思い出すのか、虚ろな目に一瞬だけ、正気の光を宿すことがあった。
最も大きな変化は、珍蓮と楡生に対する、家族の態度の変化だった。
練乳の甘さを知った楡生は、玉蘭のそばに寄っていくことが増えた。彼は、祖母の虚ろな目に何の偏見も持たず、ただ「奶奶、甘いの」と無邪気にねだった。最初は鬱陶しげに彼を払いのけていた玉蘭だったが、ある日、誰にも見られていないと思い、隠していた練乳の缶から、ほんの少しだけ指ですくって楡生の口に入れてやった。その瞬間、楡生が見せた満面の笑みに、彼女の氷のような心が、ほんの少しだけ溶けたように見えた。
守仁もまた、楡生を見る目が変わってきた。香港からの支援は、弟がこの張家の血筋を、そしてその跡を継ぐべき楡生の存在を、気にかけている証拠に他ならなかった。彼は、この飢饉の時代を生き延び、張家の血を未来に繋ぐという、一族の長としての責任を、改めて感じ始めていた。時折、彼は楡生を膝に乗せ、仕立ての古い見本帳をめくりながら、「これはな、お前の曾祖父さんの代からの柄なんだぞ」と、ぶっきらぼうに話して聞かせるようになった。
もちろん、それですべてが解決したわけではなかった。珍蓮は相変わらずよそ者であり、玉蘭の気まぐれないびりに耐える日々は続いた。だが、そこには以前のような、出口のない絶望だけではない、何か微妙な変化が確かにあった。香港からの缶詰は、家族という共同体を、飢えと不信感による崩壊からかろうじてつなぎ止める、甘く、そして貴重な接着剤の役割を果たしていたのだ。
洪正は、そんな家族の姿を、複雑な思いで見つめていた。一缶の干し肉が、人間の尊厳をわずかに取り戻させ、一匙の練乳が、凍てついた心を少しだけ溶かす。人間の絆とは、なんと脆く、そして同時に、なんと滑稽で愛おしいものだろうか。
この暗く淀んだ上海の空の下でも、人は生きている。いがみ合い、蔑み合いながらも、血という見えない糸で結ばれ、海の向こうから届くささやかな善意にすがりつきながら、必死で生きている。それは、海南島の太陽の下で夢見た理想郷とはほど遠い、泥臭く、矛盾に満ちた現実だった。だが、その現実の中にこそ、一筋の光は、確かに存在していた。洪正は、その小さな光を頼りに、この果てしないトンネルを、家族と共に歩いていくしかないのだと、改めて心に誓うのだった。




