第二部 激動の青春 ― 紅い星の下で(1950年代~1978年) 第六章 張家の息子
時の流れは、南の島においては、まるで濃密な蜂蜜の中を沈んでいく気泡のように、緩慢で、しかし止めようがなかった。美佐子を乗せた引き揚げ船が水平線の彼方に消えてから、二度目の雨季が海南島を濡らし、そして乾季の強烈な陽光が、赤土の道を乾かしていた。1948年の夏、青木楡生――今や張楡生としてこの島に根を張り始めた赤子は、二歳になったばかりだった。
彼の世界は、優しさと、確かな温もりに満ちていた。朝、目を覚ませば、隣には母となった陳珍蓮の寝顔がある。仕事に出かける父、張洪正の節くれだった大きな手が、自分の頭を撫でてくれる。言葉は急速に増え、広東語の響きの中に、時折、彼だけが知る日本語の断片が混じった。
「爸爸!」
夕暮れ時、仕立ての仕事から戻る洪正の姿をいち早く見つけ、よちよちと覚束ない足取りで駆け寄っていくのが、楡生の日課だった。洪正はその小さな体を軽々と抱き上げ、日に焼けた頬に自分の頬を寄せる。血の繋がりなどという、形而上の概念を吹き飛ばしてしまうほどの、紛れもない父と子の情愛が、そこにはあった。
「媽媽、芒果……」
台所で夕餉の支度をする珍蓮の足元にまとわりつき、甘い果実をねだる。珍蓮は、その愛らしい要求に、心からの笑みを浮かべて応えた。かつて美佐子に向けた嫉妬の炎は、この小さな命を育む母性の聖なる炎へと、完全に姿を変えていた。彼女にとって、楡生は腹を痛めずして得た、何よりも尊い宝物だった。
三人の暮らしは、貧しくとも満ち足りていた。洪正の仕立ての腕は確かで、国民党の役人や兵士たちからの注文が絶えず、生活は安定していた。彼らの小さな家は、楡生の屈託のない笑い声と、規則正しいミシンの音、そして珍蓮が口ずさむ素朴な歌声に満たされ、まるで嵐の海に浮かぶ、小さな穏やかな島のようだった。
だが、その島の外では、中国大陸全土を揺るがす地殻変動が、最終局面を迎えていた。
ラジオから流れるニュースは、日増しに戦況の激しさを伝えていた。共産党の紅い軍隊が、国民党軍を破竹の勢いで駆逐していく。北から南へ、都市が次々と「解放」されていく報が届くたび、島の空気は目に見えて変わっていった。威張り散らしていた国民党の役人たちの顔から余裕が消え、逃亡の準備を始める者も現れた。島の中国人たちの間では、新しい時代への期待と、未知の支配者への不安が、奇妙な熱気となって渦巻いていた。
そして1949年の10月1日。運命の日が訪れた。
北京の天安門楼上から、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したという報が、数日遅れで海南島にも届いた。新しい国の誕生。人民が主となる国。その知らせは、長年の戦乱に疲弊した人々の心に、一筋の強烈な光を投げかけた。同時に、それは敗者たちの終わりをも意味していた。
解放軍の海南島上陸が時間の問題となったある日、郭大尉が、憔悴しきった顔で洪正の家を訪れた。彼は、国民党政府と共に台湾へ退去するのだという。
「洪正、私と共に台湾へ来い」郭大尉は、洪正の手を固く握りしめた。「この島に残れば、お前は我々国民党に協力した者として、どんな目に遭うか分からんぞ。共産党は、我々のような『反動分子』を許しはしない」
その誘いは、洪正の安全を心から案じる、友としての最後の善意だった。
洪正は、静かに首を振った。
「大尉、ご厚情は、生涯忘れません。ですが、私には……ここで待たねばならぬ人がいるのです」
彼の脳裏には、泣きながら船に乗っていった美佐子の姿と、楡の木の下で交わした無言の約束が、鮮やかに蘇っていた。この場所を離れるわけにはいかない。
「そうか……」郭大尉は、深くため息をついた。「お前の義理堅さは知っている。だが、時代は変わったのだ。どうか、生き延びてくれ。君のような誠実な人間こそ、新しい時代に必要なのだから」
二人は、言葉少なげに別れの杯を交わした。数日後、郭大尉を乗せた最後の軍艦が港を離れていくのを、洪正は丘の上から黙って見送った。一つの時代が、確かに終わったのだ。
郭大尉が去り、島が解放軍の手に落ちて間もなく、洪正のもとに、何年ぶりかとなる故郷からの報せが届いた。上海にいる父からの手紙だった。届けに来たのは、広州に住む遠縁の親族で、父の頼みを受け、わざわざこの南の果ての島まで探しに来てくれたのだという。
洪正は、震える手で封を切った。父の、力強い筆跡が目に飛び込んでくる。
『洪正へ。
息災か。長きにわたる戦乱は、ついに終わった。我らが毛主席は、北京に新しい中国を打ち立てられた。これからは、我々人民が国の主人となる、輝かしい時代だ。お前も、いつまでも南の島で流れ者暮らしをしていてはならん。張家の長男として、故郷上海に戻り、この新しい国作りに貢献するのだ。それが、息子としてのお前の務めである』
手紙を読み進める洪正の顔が、こわばっていく。
『親族の者から、お前が子を育てていると聞いた。結構なことだ。新しい中国では、全国的な戸籍調査が始まっている。戸籍は、人間の根だ。今、手続きをすれば、あの子を正式にお前の息子として、上海の戸籍に入れることができる。上海の戸籍があれば、将来、良い学校にも行ける。国営の工場で、安定した仕事にも就けるだろう。お前は、あの子に、海南島の片田舎で、根無し草のままの一生を送らせるつもりか。この父の言葉が、分かるな。これは、あの子の未来のためだ。すぐに、支度をして帰ってきなさい』
手紙が、洪正の手の中で重くなった。それは、父の命令であると同時に、抗いがたい道理の重みを持っていた。
張家の息子――その言葉が、二重の意味で洪正の胸に突き刺さった。
一つは、父の子としての自分。張家の長男として、父の期待に応え、故郷に帰るべきではないのか。
そしてもう一つは、楡生の父としての自分。この子を「張家の息子」として、より良い未来を与えてやるのが、父としての責任ではないのか。
その夜、洪正は眠れなかった。ランプの灯りの下で、父の手紙を何度も何度も読み返す。彼の心は、二つの巨大な約束の間で、引き裂かれそうになっていた。
一方の天秤には、美佐子との約束がある。「この楡の木の下で、あなたを待っています」。そう言ったではないか。彼女がもし、何年かして、命がけでこの島に戻ってきた時、自分たちがここにいなかったら? 彼女は、どんなに絶望するだろう。それは、許されない裏切りではないのか。
しかし、もう一方の天秤には、楡生の未来が乗っていた。このまま海南島で暮らせば、楡生は、日本人と中国人の間に生まれた子として、おそらく一生、奇異の目で見られ続けるだろう。新しい共産党政権が、彼のような存在をどう扱うか、誰にも分からない。だが、父の言う通り、上海に行き、正式な「張楡生」として戸籍を得れば、彼は新しい中国の光の中で、堂々と生きていけるのかもしれない。学校、仕事、そして結婚。父親として、息子の幸せな未来を願わないはずがない。
「どうしたんだい、眠れないのかい」
背後から、珍蓮の優しい声がした。彼女は、夫の苦悩に気づいていた。
洪正は、黙って父の手紙を彼女に渡した。珍蓮は、読み書きはできない。洪正は、一言一句、ゆっくりと手紙の内容を読んで聞かせた。
全てを聞き終えた珍蓮は、しばらく黙っていた。そして、眠っている楡生の寝顔に、慈しむような視線を送った。
「……あんたの気持ちは、痛いほど分かるよ」静かに、しかしはっきりとした口調で彼女は言った。「美佐子さんとの約束は、あたしたちの命みたいなもんだ。それを破るなんて、考えられないだろうね」
彼女は一度言葉を切り、洪正の目をまっすぐに見つめた。
「だけどね、洪正。あたしは、この子の母親だよ。この子のことを考えたら……。上海に行けば、この子はお日様の下を、胸を張って歩けるようになるのかもしれない。学校にも行ける。友達もたくさん作れる。あたしたちは、あの子から、その機会を奪ってもいいのかい?」
彼女の言葉は、洪正の心の一番柔らかい部分を、的確に射抜いた。
「美佐子さんだって……もし彼女がここにいたら、きっと同じことを言うよ。『私のことはいいから、この子の未来を』って。あの人は、そういう人じゃないか」
珍蓮の言葉は、まるで天啓のように、洪正の迷いを吹き払った。そうだ。美佐子なら、きっとそう言うだろう。彼女は、我が子の未来のために、自分の体さえ差し出した母親なのだから。俺たちが守るべきは、「場所」という約束ではなく、「楡生の幸せ」という、もっと本質的な約束なのだ。
洪正の目に、涙が滲んだ。彼は、目の前の妻を、改めて尊敬の念で見つめた。無学だと、自分を卑下するこの女は、誰よりも物事の本質を見抜く、賢く、そして強い魂を持っていた。
「珍蓮……ありがとう」
彼は、珍蓮の仕事で荒れた手を、両手で包み込んだ。
「行こう。上海へ。俺たちの息子を、大きな世界で育てるために」
決断は、彼らをすぐに行動へと駆り立てた。
上海への旅は、簡単なものではない。だが、新しい時代の幕開けは、人々の移動をいくらか活発にさせていた。洪正は、仕立ての仕事を続けながら、旅の準備を始めた。長年愛用したミシン、布地、裁縫道具。人生の全てを、大きな木箱に詰めていく。家財道具のほとんどは、近所の人々に分け与えた。
そして、彼にはもう一つ、果たさねばならない最後の務めがあった。
彼は、近所に住む、物静かな日本人の老夫婦を訪ねた。戦前は学校の教師をしていたというその夫婦は、帰国の機会を逃し、ここで静かに余生を送っていた。彼らは、洪正たち家族に、常に温かい眼差しを向けてくれていた。
「奥田先生」洪正は、深々と頭を下げた。「実は、我々は故郷の上海へ帰ることになりました。つきましては、万死に値するお願いがございます」
彼は、懐から一つの封筒を取り出した。中には、彼が蓄えたけっして多くはない金と、一枚の便箋が入っていた。
「もし……もし、楡生の母である青木美佐子さんが、この島にお戻りになるようなことがあれば……これを、お渡しいただけないでしょうか」
便箋には、洪正が震える手で書いた、短い言葉が記されていた。
『美佐子様
我々は、楡生の未来を思い、故郷の上海へ帰る決心をいたしました。あなた様との約束を破る非礼、幾重にもお詫び申し上げます。ですが、これがあの子にとって最良の道だと信じております。
私たちの上海での住所は、上海市虹口区……。必ず、いつか、便りをお待ちしております。
張洪正』
「必ず、お渡ししますよ」奥田老人は、静かに頷き、固く封筒を受け取った。「張さん、あなた方の決断は、正しい。お子さんの未来が、一番です。道中、お気をつけて」
旅立ちの日。空は、抜けるように青かった。
三人は、最後にあの大きな楡の木の下を訪れた。楡の葉は、南国の強い日差しを浴びて、力強く輝いている。
「楡生、この木を、よく覚えておくんだよ」洪正は、息子を肩車しながら言った。「これは、お前のお母さんが、お前の名前に込めた、大切な願いの木だ。お前が大きくなるのを、ずっと見守ってくれる」
楡生は、父の言葉の意味は分からなかったが、大きく広がる枝葉を見上げ、嬉しそうに手を叩いた。
港から出る船は、人でごった返していた。新しい中国へ、新しい生活を求めて旅立つ人々。その誰もが、不安と、それ以上の大きな期待に顔を輝かせていた。
船が、ゆっくりと岸壁を離れる。遠ざかる海南島の緑が、目に焼き付くようだった。洪正と珍蓮は、甲板の隅で、その光景を黙って見つめていた。一つの人生が終わり、また新しい人生が始まる。
船が大海原へ出た翌朝。水平線の彼方から、燃えるような朝日が昇った。その光は、空を、海を、そして船上の人々を、鮮やかな紅色に染め上げていく。それは、新しい国の象徴である、紅い星の色にも似ていた。
洪正は、隣で朝日を見つめる珍蓮の肩を抱き寄せた。腕の中では、楡生がすやすやと寝息を立てている。
「始まるな」洪正は、呟いた。
「うん、始まるね」珍蓮は、力強く頷いた。
張家の息子たち――父の期待を背負う息子・洪正と、彼の息子として新しい時代を生きる楡生。彼らを乗せた船は、激動の未来が待つ大陸の中心、上海へと、確かな針路を取っていた。それは、悲しみと別れの上に築かれた、希望への新たな船出だった。




