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第三章 楡の木の下で

あの甘美で罪深い一夜から、季節は熱帯の緩慢さの中で少しだけ動いた。青木美佐子の心には、あの日以来、奇妙な静けさが宿っていた。それは諦念とも、あるいは覚悟ともつかない、硬質な凪だった。日本へ帰る。そして、必ず楡生を迎えに来る。その二つの目的だけが、彼女をかろうじて立たせていた。

しかし、時代の奔流は、個人のささやかな決意など容赦なく飲み込んでいく。海南島の空から日の丸が降ろされ、代わりに青天白日満地紅旗が風に翻り始めた日、街の空気は決定的に変わった。国民党政府の役人や、仕立ての良い軍服に身を包んだ兵士たちが、島の新しい支配者として闊歩し始めたのだ。

昨日まで「奥様」と頭を下げていた市場の店主は、美佐子が差し出した僅かな金を見て、侮蔑の光を目に浮かべた。「足りねえな。日本人はもう金持ちじゃないんだろ?」と吐き捨てる。すれ違う人々が、かつての支配者を見る目に、隠そうともしない憎悪と嘲りを浮かべるようになった。立場は、一夜にして逆転した。

張洪正は、その変化を誰よりも敏感に感じ取っていた。彼はあの一夜以来、美佐子に対してより一層、献身的になった。それは恋情という熱い感情を超え、自らに課した聖なる責務のようだった。毎日のように食料を運び、市場への買い出しには必ず付き添った。彼の存在は、美佐子親子にとって唯一の盾だった。

「洪正さん、もういいのです。あなたの身が危うくなります」

ある日、市場で中国人の若者たちに「漢奸(売国奴)め!」と罵られ、突き飛ばされた洪正を見て、美佐子は悲痛な声を上げた。

「構いません」洪正は土で汚れた服を払いながら、穏やかに、しかし断固として言った。「俺は、先生にも、そしてあなたにも、大きな恩がある。それに……約束しましたから」

その言葉を聞くたび、美佐子の胸は締め付けられた。あの夜の、肌と肌を重ねた記憶が、罪の意識となって蘇る。彼は、あの契約に、命を懸けているのだ。

陳珍蓮は、そんな二人を複雑な思いで見つめていた。洪正の献身は、彼女の心を嫉妬の炎で焼いた。なぜ、あの日本人なのだ。なぜ、自分ではないのだ。洪正が美佐子を庇えば庇うほど、彼は周囲の中国人から敵意を向けられる。その危うさが、珍蓮の不安を掻き立てた。彼を守りたい。彼の妻になりたい。その願いが強ければ強いほど、美佐子親子の存在が憎らしく、そして邪魔に思えた。

だが、運命は珍蓮に、ただの嫉妬深い女でいることを許さなかった。

その日、美佐子は幼い楡生を抱きかかえて、配給の僅かな芋を受け取るために列に並んでいた。楡生は、家の近くにある大きな楡の木がいたく気に入っており、「楡の木、楡の木」とばかりに言葉でも繰り返しているようにご機嫌だった。夫の信一は以前、「楡の葉は、やがて大海を渡って故郷に還る。美佐子の膨らんだおなかを愛しく摩りながら、この子も、そんな強い子に育ってほしい」。その願いは、今や皮肉な響きを持っていた。

「見ろよ、日本鬼子だ」

誰かが言った。空気が、さっと変わる。人々がじりじりと二人を取り囲み始めた。

「旦那は疫病で死んだんだろ。ざまあみろ!」

「こいつら日本人が、俺たちの同胞をどれだけ殺したか!」

憎悪が渦を巻き、その矛先は赤子の楡生に向けられた。子供たちの一人が、はやし立てられ、泥のついた石を拾い上げる。

「小日本鬼子(日本のチビ悪魔)!」

石が投げられようとした、その瞬間だった。

「やめなーっ!」

野太い、広東訛りの強い怒声が響き渡った。人垣をかき分けるようにして現れたのは、陳珍蓮だった。彼女は泥まみれの手で石を投げようとした子供の腕をひっつかむと、鬼のような形相で言い放った。

「この子に何の罪があるんだい! あんたたちだって、戦争で苦しんだろ! 弱い者いじめして、何が楽しいんだ!」

群衆は、あっけにとられた。いつもは無口で、黙々と力仕事をしている珍蓮の、あまりの剣幕に度肝を抜かれたのだ。

「なんだと、珍蓮! お前も日本人にかぶれたのか!」

「うるさいね!」珍蓮は一歩も引かなかった。「この人たちは、洪正がお世話になった青木先生の奥さんと子供だよ! 洪正に何かあった時、あんたたち、知らんぷりするつもりかい!」

洪正の名前が出ると、群衆の勢いはわずかに削がれた。彼の仕立ての腕は、この貧しい界隈では誰もが頼りにしている。珍蓮は、恐怖に震える美佐子の腕をぐいと掴むと、「さあ、行くよ!」と吐き捨て、人垣を無理やりこじ開けた。

家の近くまで戻ると、珍蓮は乱暴に美佐子の腕を離した。その目には、まだ怒りの炎が揺らめいていたが、同時に深い苦悩の色が浮かんでいた。

「……あんたのせいだよ」

珍蓮は、絞り出すように言った。「あんたたち親子がいるから、洪正は危ない目に遭うんだ。いっそのこと、あんたたちなんか……」

 言葉は、続かなかった。彼女の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。嫉妬と、罪悪感と、そして洪正を思うあまりの切なさがごちゃ混ぜになった、純粋な涙だった。

「……ごめんなさい」美佐子は、ただそう言うしかなかった。頭を深く、深く下げた。

この一件は、三人の関係に奇妙な変化をもたらした。「あの晩」以降から珍蓮はずっと美佐子にそっけなかったが、その視線には、ついこの間まで剥き出しの敵意は消えていた。彼女は、洪正が守ろうとするものを、自分も守らなければならないという、矛盾した宿命を受け入れ始めていたのだ。

だが、苦難は次々と押し寄せる。美佐子が中国人である洪正の庇護を受けているという噂は、追い詰められた日本人コミュニティにも広がった。

「青木さんの奥さん、中国人に体を売って生き延びているらしいわよ」

「日本人の誇りを捨てたのね……」

 陰口は、鋭い刃となって美佐子の心を切り刻んだ。かつて夫の同僚だった男の妻に道で会った時、彼女は侮蔑の目で美佐子を一瞥し、ぷいと顔をそむけた。味方は、どこにもいなかった。

さらに、武装解除され、帰国の目途も立たないまま放置された日本兵の一部が、島の治安を悪化させていた。彼らは生きるために徒党を組み、時には日本人から、時には中国人から略奪を働く、ならず者と化していた。

ある夜、美佐子の家の戸が激しく叩かれた。洪正かと思い扉を開けると、そこに立っていたのは酒臭い息を吐く、ボロの軍服を着た三人の日本兵だった。

「よお、奥さん。いい女じゃねえか。少し食い物を分けてくれや」

男たちの濁った目が、いやらしく美佐子の体を舐めまわす。美佐子は恐怖に凍り付いた。

「何も……ありません」

「嘘つくんじゃねえよ。中に入らせてもらうぜ」

男の一人が腕を掴んだその時、背後から疾風のように現れた影があった。

「離せ!」

 洪正だった。彼はどこからか手にした棍棒を握りしめ、兵士たちと美佐子の間に立ちはだかった。

「なんだ、てめえは。チャンコロか!」

「この人に手を出すなら、俺が相手になる」

 洪正の目は、静かな怒りに燃えていた。彼の鬼気迫る様子に、泥酔した兵士たちもたじろぐ。しばらく睨み合った後、兵士たちは「ちっ、覚えてやがれ」と悪態をつきながら去っていった。

美佐子は、その場にへなへなと座り込んだ。洪正は棍棒を捨て、黙って彼女のそばに屈んだ。

「……ありがとう」

「いいえ。俺の務めです」

その夜、洪正は美佐子の家の戸口に、朝まで座り込んでいた。

帰国の道は、あまりにも遠かった。金もなければ、頼るべきコネもない。引き揚げ船の情報は錯綜し、賄賂を払わなければ乗れないという噂まで流れていた。絶望が、じわじわと美佐子の心を蝕んでいく。

そんな折、一筋の光とも、あるいは新たな闇ともつかない出会いが訪れた。洪正が、彼の仕立ての腕を見込んだ国民党軍のグオ大尉という人物と懇意になったのだ。郭大尉は他の役人とは違い、理知的で、洪正の誠実な仕事ぶりを高く評価してくれた。洪正は、この繋がりを頼りに、美佐子の帰国の道を切り開けないかと画策していた。

しかし、運命はそう簡単には微笑まない。郭大尉の部下として出入りしていたワンという名の特務機関の役人が、美佐子の美貌に目をつけた。王は陰険な男で、郭大尉とは派閥が違い、常に対立していた。

「青木美佐子とやら、なかなかの上玉だな」

 王は洪正に聞こえよがしに言った。「日本人を帰国させる権限は、俺にもある。あの女が俺の言うことを聞くなら、船の一席くらい、融通してやってもいいがな」

その言葉には、汚らわしい欲望がねっとりと絡みついていた。

洪正は血の気が引くのを感じた。王は、裏でアヘンの密売に関わっているという黒い噂のある男だった。彼に逆らえば、どんな目に遭わされるか分からない。しかし、美佐子をその毒牙にかけさせるわけにはいかなかった。

数日後、王は単独で美佐子の家を訪れた。

「奥さん、日本に帰りたいだろう」

 王は、蛇のような目で美佐子を見つめながら言った。「俺が力になってやる。だが、分かるな? 世の中、タダのものはないんだよ」

 彼は美佐子の手を取り、その手の甲をいやらしく撫でた。「今夜、また来る。いい子で待っているんだな」

美佐子は、全身から血の気が引いていくのを感じた。これは、あの夜の再来だ。だが、洪正の時とは違う。そこには善意のかけらもない、ただの汚濁と暴力があるだけだ。死んだ方がましだ、とさえ思った。

その夜、洪正の仕事場に、珍蓮が駆け込んできた。彼女は昼間、王が美佐子の家に入っていくのを目撃し、その後の美佐子の絶望しきった顔を見て、全てを察していたのだ。

「洪正! どうするんだい! あの男が、美佐子さんのところに!」

洪正は、顔面蒼白でミシンの前に座り込んでいた。どうすることもできない。権力者の前で、自分はあまりにも無力だった。

「俺が……俺が、あの夜、美佐子さんを抱いたりしなければ……」

 彼は、初めて珍蓮の前で弱音を吐いた。あの契約が、かえって美佐子を追い詰めてしまったのではないかという罪悪感に苛まれていた。

その時、珍蓮の目に、強い光が宿った。

「……あんたは、黙ってここにいな」

 彼女はそう言うと、部屋を飛び出していった。向かった先は、郭大尉の宿舎だった。彼女は、王がアヘン密売に関わっているという噂を、市場で耳にしていた。確証はない。だが、賭けるしかなかった。

珍蓮は郭大尉に面会を求めると、涙ながらに訴えた。

「大尉! お願いです、洪正を助けてください! 洪正が、王様のことでひどく悩んでいます。王様が、何か悪いことに洪正を巻き込もうとしているようなんです。アヘンがどうとか……。もし洪正に何かあったら、大尉の軍服も……」

 それは、半分は真実で、半分は計算された芝居だった。自分の恋敵を救うための、命がけの嘘だった。

郭大尉の眉が、ぴくりと動いた。彼は王の素行を以前から疑っていたのだ。珍蓮の言葉は、その疑惑に火をつけた。

「……分かった。感謝する」

郭大尉は短く言うと、すぐさま部下を呼び、行動を開始した。

その夜、美佐子の家で王がまさに凶行に及ぼうとした瞬間、扉が蹴破られ、郭大尉の率いる兵士たちがなだれ込んできた。王は現行犯で逮捕され、彼の宿舎からは、密売のアヘンが発見された。すべては、珍蓮の機転と勇気がもたらした結果だった。

数日後。事件の嵐が過ぎ去り、街に再びいつもの、しかしどこか違う空気が流れていた。美佐子と楡生、洪正、そして珍蓮は、楡の木の下に立っていた。夕陽が、四人の影を地面に長く伸ばしている。

「珍蓮さん……洪正さん……」

美佐子の声は、震えていた。「なんとお礼を言ったらいいか……。あなたたちがいなければ、私とこの子は、もう……」

彼女は、二人の前で深く、深く頭を下げた。

洪正は、黙って珍蓮を見つめた。その眼差しには、もう嫉妬の対象を見る色はなかった。そこには、自分の命をも救ってくれた恩人への、そして、一人の女の強さと賢さへの、深い尊敬と感謝がこもっていた。彼は、おもむろに珍蓮の、泥と仕事で荒れた手をそっと握った。珍蓮は、驚いて目を見開いたが、その手を振り払うことはしなかった。

「美佐子さん」洪正は言った。「これで、分かりました。楡生くんは、俺たち二人が、必ず守ります。だから、あなたは安心して、日本へ帰る道だけを探してください。俺と……この人と、二人で」

憎悪と裏切りが渦巻く混沌とした世界の中で、楡の木の下に、確かに一つの共同体が生まれた。それは、日本人の母と、中国人の仕立屋と、彼を愛する無学な女、そして何も知らずに微笑む幼子という、奇妙で、しかし何よりも強い絆で結ばれた家族の姿だった。

美佐子は、涙で滲む目で、夕陽に輝く楡の葉を見上げた。大海を渡る日は、まだ遠い。だが、この葉が落ちる前に、きっと道は開ける。この、二つのあまりにも哀しく、そして尊い善意に守られて。彼女は、胸に込み上げる熱い思いと共に、そう固く誓った。

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