第二章 二つの善意
海南島の夜は、生温かい粘り気をもって肌にまとわりつく。塩気と、名も知らぬ熱帯の花々のむせ返るような甘い香りが混じり合った風が、青木美佐子の頬を撫でていく。夫、信一をこの島の土に還してから幾月が過ぎたか。日中の強烈な陽光が嘘のように、闇はすべてを深く、静かに飲み込んでいく。だが、美佐子の胸中だけは、嵐の前のように不穏な凪が続いていた。
腕の中には、すやすやと寝息を立てる息子の楡生がいる。この子の寝顔だけが、美佐子の唯一の光であり、同時に最も重い枷だった。日本は敗れた。この島に取り残された日本人を、かつて支配者であったというだけで、どのような運命が待ち受けているか知れない。夫の同僚やその家族は、引き揚げ船を求めて北へ向かったが、幼い楡生を抱えての旅はあまりに危険だった。
しかし、感傷に浸っていられる時間は終わった。生きねばならない。この子を、生かさねばならない。
美佐子の脳裏に浮かぶのは、一人の青年の姿だった。張洪正。上海から戦火を逃れ、広州を経てこの島に流れ着いた仕立屋の青年。夫の信一が生前、彼の腕の良さと誠実な人柄を褒め、よく仕事を頼んでいた。夫亡き後も、洪正は何かと理由をつけては、米や野菜を手にこの粗末な借家を訪ねてくれた。その実直な瞳の奥に、自分に向けられた熱い想いが宿っていることに、美佐子が気づかぬはずはなかった。
それは、憐憫や同情ではない。一人の男が、一人の女に向ける、純粋で、しかしどうしようもなく切実な恋心だった。若く、美しいとさえ言えるその顔に浮かぶ、自分を見る時の苦しげな喜び。美佐子はその視線を受けるたび、自身の品位ある未亡人という仮面の下で、女としての自分が疼くのを感じていた。だが、それは許されない感情だった。ましてや、日本人と中国人、支配者と被支配者であったという厳然たる事実が、二人の間に深い溝を刻んでいる。
だからこそ、美佐子は決断した。その恋心を利用するのだ。いや、利用という言葉は正しくない。彼の善意に、自分が唯一差し出せるもので応えるのだ。それは女としての最後の誇りであり、母としての究極の打算だった。
月が雲に隠れ、闇が一層深くなった頃、美佐子は楡生をそっと寝床に寝かせると、立ち上がった。いつもより丁寧に髪を梳き、亡き夫が唯一買ってくれた、藍色の地に白い小花を散らしたワンピースに着替える。それは、これから行おうとしている行為に対する、彼女なりの儀式だった。洪正に恋心などない。夫以外の男に身を委ねるなど、考えただけでも身がよじれるほどの屈辱だ。しかし、楡生の未来のためなら、どんな泥でも啜れる。美佐子は唇を固く結び、己にそう言い聞かせた。
洪正の住まいは、美佐子の家から目と鼻の先にある、仕立ての仕事場を兼ねた小さな家だった。窓から漏れるランプの光が、彼の真面目な仕事ぶりを物語っている。美佐子が戸口に立つと、規則正しいミシンの音がぴたりと止んだ。
「どなたです?」
緊張の滲む、少し高めの声。
「……青木です。夜分に申し訳ありません」
慌てたような物音のあと、扉が軋みながら開いた。ランプの光を背に受けた洪正が、驚きと喜びをない交ぜにした表情で立っている。
「美佐子さん……どうかなさったのですか? 楡生くんに何か?」
「いいえ、楡生は眠っております。あなたに、大切なお話があって参りました」
美佐子の毅然とした態度に、洪正は何かを察したように黙って彼女を中に招き入れた。部屋には、布の匂いと、彼の汗の匂いが混じり合って満ちている。壁には仕立てかけの洋服がいくつもかかり、彼の暮らしのすべてがここにあることを示していた。
椅子を勧められ、二人は小さなテーブルを挟んで向かい合った。沈黙が重い。先に口を開いたのは、美佐子だった。
「洪正さん。あなたに、死ぬほどのお願いがあって参りました」
美佐子の切羽詰まった声に、洪正は息を呑んだ。
「私は、まず一人で日本へ帰ろうと思います。女一人の身であれば、何とかして引き揚げ船にもぐりこめるかもしれません。ですが、楡生を連れては……。ですから、私が日本で暮らしの基盤を整え、必ず、必ずこの子を迎えに来ます。その時まで……ほんの数年になるか、分かりません。その時まで、どうか楡生を、あなたの子供として預かっていただけないでしょうか」
洪正は目を見開いたまま、動かなかった。彼の思考が、美佐子の言葉のあまりの突飛さに追いついていないようだった。
「……しかし、それは……俺は所詮、流れ者の仕立屋です。それに、どうして俺が……」
「あなただから、お願いしているのです。あなたの誠実さを、夫も、そして私も、よく知っていますから」
美佐子はすっと立ち上がると、彼の隣に膝をついた。そして、震える手で、彼の手に自分の手を重ねる。
「もちろん、ただでとは申しません。あなたのお気持ちは、分かっております。あなたの、私への……」
言葉を区切り、美佐子は彼の顔をまっすぐに見つめた。洪正の肩がびくりと震える。
「あなたのそのお心に、私がお応えできることは一つしかありません。私に、差し出せるものは、もう何もありません。ですが……もし、あなたが望んでくださるなら……今宵一夜、あなたのものに……」
声は、消え入りそうに小さかった。
洪正は、まるで雷に打たれたかのように硬直した。重ねられた美佐子の手の、そのか細さと冷たさに、彼の全身が震えた。彼の目に浮かんだのは、喜びではなかった。深い、深い悲しみと、絶望にも似た苦悩の色だった。
「……やめてください」
かろうじて、洪正が絞り出した声は掠れていた。
「美佐子さん、あなたは、俺をそんな男だと思っていたのですか。あなたの気高さに、美しさに……俺がどれほど焦がれていたか、あなたは知らない。それを、そんな……そんな交換条件のようなもので汚さないでください!」
彼の叫びは、悲痛な祈りのようだった。
「楡生くんのことは、俺が命に代えても守ります。見返りなど、何もいりません。だから、どうか……そんな悲しいことを言わないでください」
洪正の純粋な善意が、美佐子の用意した悲しい覚悟を打ち砕く。涙が、堰を切ったように頬を伝った。ああ、この人は、本当に優しい人なのだ。自分の汚れた打算が、この気高い魂を傷つけてしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、洪正さん……」
美佐子はただ、彼の手にすがって泣きじゃくるしかなかった。
その時、家の裏手で、かすかな物音がした。
陳珍蓮だった。彼女は、夜なべ仕事をする洪正のために、夜食の粥を持ってきていたのだ。広東の田舎から出てきた無学な娘だが、力仕事で洪正との暮らしを支え、彼に淡い恋心を抱き続けていた。洪正が、あの美しく気品のある日本人の未亡人に心を奪われていることにも、とうの昔に気づいていた。女の勘は、時としてどんな言葉よりも雄弁だ。
家の壁に身を寄せ、息を殺す。中の会話は断片的にしか聞こえない。だが、「楡生くんを」「日本へ帰る」「今宵一夜」……そして、すすり泣く女の声と、それを慰める男の苦しそうな声。珍蓮の中で、何かがぷっつりと切れた。ああ、やはり。あの女は、その美しさと儚さを武器に、洪正の心を完全に奪ってしまったのだ。粥の入った器を持つ手が、怒りと絶望に白く震える。彼女は音を立てぬよう、そっとその場を離れた。その背中は、打ち捨てられた獣のように小さく、孤独だった。
家の中では、洪正が泣き続ける美佐子を、どうすることもできずにいた。
「美佐子さん」
洪正は、静かに言った。「あなたの覚悟は、分かりました。俺は……あなたの気持ちを無にはしません」
美佐子が顔を上げる。その涙に濡れた瞳は、夜の海のように暗く、深く澄んでいた。
「俺は、あなたを女として、心からお慕いしています。それは、紛れもない事実です。だから……あなたが、ただの犠牲としてではなく、ほんの少しでも……俺という男を受け入れてくれるというのなら……俺は、あなたのすべてを受け止めたい」
それは、取引ではなかった。二つの行き場のない想いが、時代の荒波の中で寄り添うための、唯一の儀式だった。
美佐子は、ゆっくりと頷いた。もう言葉はなかった。
洪正は、仕立て仕事で節くれだった、しかし優しい手つきで、美佐子の頬の涙を拭った。そして、そっと彼女を抱き寄せる。夫以外の男の腕に抱かれるのは、初めてだった。彼の胸は、若々しく、固く、そして驚くほど熱かった。
ランプの光が落とされ、部屋は完全な闇に包まれた。ヤモリの鳴き声と、遠くで聞こえる波の音だけが、二人の世界のすべてだった。
洪正の唇が、美佐子のそれに触れた時、彼女の体は一度こわばった。夫のものではない、若く、少し不器用な熱っぽさ。しかし、彼の動きはどこまでも優しく、壊れ物を扱うように、慈しみに満ちていた。それは、欲望の激しさというよりも、長年抱き続けた想いを確かめるような、敬虔な祈りに似ていた。ためらいがちに触れ合った唇は、やがてどちらからともなく深く求め合い、美佐子の口中に彼の切ない吐息が流れ込んできた。
藍色のワンピースのボタンに、洪正の震える指がかかる。美佐子は目を固く閉じた。羞恥と罪悪感に身が縮む一方で、彼女の体の奥底では、忘れかけていた女としての熱が、ゆっくりと目覚め始めていた。それは、信一への裏切りであり、母であることからの逃避であり、そして、目の前の青年の純粋な情熱に対する、抗いがたい反応でもあった。
一つ、また一つとボタンが外され、海南島の熱い空気に、美佐子の白い肌が晒されていく。仕立屋である彼の指先は、布地の上を滑るように慣れているはずなのに、彼女の肌に触れるたびに、びくりと震え、ためらった。そのぎこちなさが、かえって美佐子の心を揺さぶる。ワンピースが肩から滑り落ち、肌着一枚になった彼女を、洪正は言葉もなく見つめていた。闇の中、彼の荒い息遣いだけが聞こえる。
彼がその肌着に手をかけた時、美佐子は無意識にその手首を掴んでいた。
「……待って」
か細い声。それは拒絶ではなく、心の準備を乞うための祈りだった。
洪正は、その小さな抵抗を、恭しく受け入れた。彼は美佐子の手をとり、その指の一本一本に、まるで聖遺物に触れるかのように口づけた。その敬虔な仕草に、美佐子の最後の抵抗が溶けていく。
やがて二人は、裸のまま、シーツの上に横たわっていた。彼の若く引き締まった肉体と、子を産んだ経験のある、しなやかで柔らかな自分の肉体。その対比が生々しく、美佐子の意識を酩酊させた。洪正の手が、彼女の髪を梳き、頬を撫で、そしてゆっくりと胸の膨らみに触れる。びくり、と震える彼女の乳房の頂点を、彼はためらいながら指先でなぞった。美佐子の口から、思わず小さな喘ぎが漏れる。それは快楽の音ではなく、自分の体が夫以外の男に反応してしまったことへの、驚愕と絶望の声だった。
「ごめんなさい……」
洪正が、苦しそうに囁いた。
「いえ……」
美佐子は首を振った。もう、後戻りはできない。これは、契約なのだ。
洪正は、彼女の体を隅々まで慈しむように唇で辿った。首筋、鎖骨、そして腹部へと。そのたびに、美佐子の体は弓なりにしなり、抗うことのできない痺れが全身を駆け巡る。信一との睦み合いとは違う、未知の感覚。罪の意識が深まれば深まるほど、皮肉にも体は熱を帯びていく。
そして、彼が二人の体を一つに重ねようとした時、美佐子は彼の胸を押し返した。
「私を……ただの女として見ないで。私は……楡生の、母親です」
涙声で、そう告げた。それは、最後の尊厳を守るための叫びだった。
「わかっています」
洪正は、彼女の涙に濡れた目元に口づけた。「あなたは、気高い人だ。だからこそ……俺は……」
彼は、静かに、しかし抗いがたい力で彼女の体を受け入れた。美佐子の体に走った鋭い痛みと、異物が入ってくる感覚。彼女は奥歯を噛みしめ、シーツを固く握りしめた。これは罰だ。夫を裏切る罰。息子のために己を売る罰。だが、その痛みに混じって、体の芯からじわりと熱が広がっていく。
洪正の動きは、次第に激しさを増していった。それはもはや、ためらいや優しさだけではない。長年抑え込んできた恋情と、決して結ばれることのない運命への絶望、そして目の前の女を自分のものにしているという、どうしようもない歓喜が入り混じった、獣のような喘ぎだった。
「みさこさん……みさこさん……」
彼は、とうとう彼女の名を呼んだ。その声は熱に浮かされ、懇願するようにも、呪うようにも聞こえた。
美佐子の心は、激しく揺れ動いていた。信一、ごめんなさい。楡生、これであなたは生きられる。洪正さん、あなたも、なんて哀しい人……。断片的な思いが、彼の突き上げる律動に合わせて脳裏を駆け巡る。涙が止めどなく流れた。悲しみの涙か、罪悪感の涙か、あるいは、このどうしようもない運命の中で、確かに感じてしまった一瞬の慰めと悦びの涙だったのか。
やがて、二人の体の奥で、何かが弾けた。洪正は、獣の咆哮のような呻き声を上げて彼女の上に崩れ落ち、美佐子もまた、意思とは無関係に訪れた体の痙攣に、なすすべもなく身を委ねた。それは解放であると同時に、悲しい契約が完了した瞬間だった。
夜が明け、東の空が白み始める頃、二人の間に言葉はなかった。ただ、やり遂げたという奇妙な疲労感と、汗と体液の匂いに混じった深い哀しみが部屋に満ちていた。美佐子は静かに身を起こし、乱れた衣服を整えた。その仕草には、昨夜の激情の跡は微塵も感じられず、ただ凛とした決意だけが漂っていた。
「……洪正さん。楡生を、よろしくお願いいたします」
それは、昨夜の提案とは全く違う、互いの肉体と魂に刻み込まれた、確かな重みを持った言葉だった。
「……はい。必ず」
洪正もまた、力強く頷いた。
美佐子は、一度も振り返ることなく、彼の家をあとにした。自分の家に戻ると、楡生が目を覚まし、「うんま」と小さな手を伸ばしてきた。美佐子は、その体をきつく、きつく抱きしめた。もう涙は出なかった。母は、強かった。
戸口に一人残された洪正は、昇り始めた朝日に照らされながら、美佐子が消えていった道をじっと見つめていた。部屋にはまだ、彼女の残り香が甘く漂っている。夢のような、しかし悪夢でもあった一夜。彼は、愛する女の尊厳を守り、その息子を未来へ繋ぐという約束を交わした。その代償として、彼の恋は、永遠に手の届かぬ聖域へと葬り去られたのだ。
そして、その全てを、少し離れた場所から見つめるもう一つの瞳があった。陳珍蓮は、夜明けの光の中に立つ洪正の、あまりにも孤独な後ろ姿を見ていた。彼の背負ったものの重さを思い、自分の叶わぬ恋の痛みを噛みしめる。彼女の心にもまた、一つの悲しい善意が芽生え始めていた。この孤独な人を、自分が支えなければならない。たとえ、その心が永遠に自分のものではなくても。
楡の葉が、朝露に濡れてきらめいていた。やがてこの葉が芽吹き、茂り、そして大海を渡る日を夢見て、人々はそれぞれの悲しみを胸に、新しい一日を生き始める。二つの善意が交錯した一夜は、誰にも知られることなく、海南島の熱い記憶の底へと沈んでいった。しかし、それは確かに、三人の男女の運命を決定的に変えたのだった。




