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楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)  作者: 光闇居士


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エピローグ 二つの海へ

歳月は、寄せては返す波のように、静かに、しかし容赦なく、全てを洗い流していく。東京の喧騒も、上海の熱気も、福島の冷たい潮風さえも、今はもう、遠い記憶の彼方にある。

張楡生――いや、青木楡生と、戸籍の上ではなった彼も、今はもう七十歳を過ぎ、髪には白いものが目立つようになった。彼は、あの決断の日、福島へ向かう新幹線を途中下車し、自らのルーツを探す旅に、終止符を打った。

その後の彼の人生は、決して平坦ではなかった。日本社会に根を下ろすための、地道な戦いが続いた。だが、彼の隣には、常に妻の京海がいた。彼女の太陽のような明るさと、鋼のような芯の強さが、何度も、彼の折れそうな心を支えた。息子の義成もまた、両親の背中を見て育ち、二つの文化の狭間で悩みながらも、優しく、そしてたくましい青年に成長した。

三人は、小さな幸せを、一つ一つ、丁寧に拾い集めるようにして生きてきた。義成が大学を卒業し、日本の会社に就職した日。初めて、家族三人で、ささやかな温泉旅行へ行った日。そして、義成が、一人の日本人女性を「紹介したい人がいる」と、照れながら連れてきた日。その全てが、彼らにとって、かけがえのない宝物だった。

上海の育ての母、珍蓮は、数年前に、夫・洪正の後を追うように、静かに息を引き取った。「楡生、あんたは、幸せにおなり……」それが、彼女の最後の言葉だった。彼女の墓は、洪正の隣に、上海郊外の霊園に建てられている。

そして、あの日、新幹線の車内に置き去りにした、ロケットペンダント。

その行方は、彼も知らない。

だが、数年前、一通の、奇跡のような手紙が、彼のもとに届いた。差出人は、須藤翔太。あの日の、好青年だった。手紙には、祖母である美佐子が、ペンダントを見て全てを打ち明けたこと、しかし息子を捜すことをしなかったこと、そして、数年前に老衰で亡くなったことが、誠実な言葉で綴られていた。祖母は、遺言として、遺骨の半分を、海の向こうの「あの子のそばに」置いてほしい、と遺したという。

その手紙を手に、楡生は、妻の京海と、そしてすっかり大人になった息子の義成夫婦と共に、最後の旅に出た。


【東シナ海と太平洋】

最初の海は、上海の呉淞港。東シナ海へと続く、長江の河口。そこで、彼は、母・美佐子の遺骨の半分と、大切に持っていた父・洪正の遺髪を、風に乗せて、海へと還した。二つの魂が、二つの国を隔てる海に、溶け合っていく。

次の海は、福島県、相馬の、太平洋。母が、後半生を静かに生きた場所。そこで、残る半分の遺骨を、日本の、青く、雄大な海へと還した。息子夫婦が、静かに手を合わせる。「おばあちゃん、おかえりなさい」。その光景に、楡生の心は、ようやく、一つの区切りを得たように感じられた。

だが、彼の旅は、まだ、終わっていなかった。

彼が、最後に向かうべき、もう一つの海が、残されていた。

【南シナ海】

2018年、晩秋。

飛行機が、海南島の三亜鳳凰国際空港に着陸した時、生温かく、塩気と、甘い花の香りが混じり合った風が、楡生の頬を撫でた。七十数年前、彼がこの世に生を受けた土地の、変わらない空気だった。

彼の隣には、京海がいる。その後ろには、義成と、その妻の由紀、そして、彼らの腕には、まだ幼い、楡生の孫が抱かれていた。

四世代にわたる、長い旅。その終着点。

彼らは、一台の車をチャーターし、島を南へと向かった。目指すは、楡林港。全ての物語が始まった、あの場所へ。

車窓から見える風景は、すっかり様変わりしていた。かつての鄙びた漁村は、近代的なリゾート地へと姿を変え、高層ホテルが林立している。だが、空の青さ、木々の濃い緑、そして、人々の顔に浮かぶ、南国特有の屈託のない表情は、昔のままだった。

やがて、車は、小さな入り江を見下ろす、丘の上で停まった。

眼下に広がるのは、エメラルドグリーンに輝く、穏やかな海。南シナ海。それが、楡林港だった。

港の片隅に、一本の、ひときわ大きな、古い木が立っていた。その枝葉は、長い歳月を物語るように、複雑に絡み合いながら、空へと伸びている。

楡の木。

「父さんが、言っていた。俺の名前は、この木から取られたんだと」

楡生は、家族に、静かに語りかけた。

彼は、ゆっくりと、その木の下へと歩いていった。そして、木の根元に、そっと、掌を置いた。

木の肌は、ごつごつとして、温かかった。目を閉じると、遠い、遠い記憶が、蘇ってくるようだった。

まだ赤子だった自分を抱きしめる、若き日の、実の母の温もり。

そして、その母と、自分を、守ろうと必死だった、若き日の、育ての父の、哀しく、そして優しい眼差し。

二つの善意が、この木の下で、交錯した。その結果として、自分の命は、ここに、ある。

彼は、ポケットから、一枚の、古びた写真を取り出した。それは、ロケットの中にあった、母・美佐子の写真の、複製だった。

彼は、その写真を、木の根元に、そっと置いた。

「母さん、ただいま。七十年かかりましたが、ようやく、帰ってきましたよ」

そして、彼は、もう一つのものを、取り出した。それは、上海の父の墓から、少しだけ、もらってきた、一握りの土だった。

彼は、その土を、楡の木の根元に、静かに、撒いた。

「父さん、あなたも、帰りたかったでしょう。あなたが好きだった、あの人の、思い出の場所へ」

東シナ海に、父と母の魂の半分を。

太平洋に、母の魂の残り半分を。

そして、この南シナ海を見下ろす楡の木の下に、父と母の、思い出の欠片を。

三つの海が、一つの物語を、繋いだ。

二つの国、二つの家族、そして、数奇な運命に翻弄された、全ての人々の思いが、この始まりの場所で、ようやく、一つになった。

「おじいちゃん」

孫の、小さな手が、楡生のズボンを、きゅっと掴んだ。

楡生は、振り返り、孫を、そして、彼を愛おしそうに見つめる、息子夫婦と、妻の京海の顔を、見つめた。

彼らこそが、自分の、今の、そして未来の、全てだ。

潮騒が、優しく、足元を洗う。

遠くで、船の汽笛が、一声、長く、そして穏やかに鳴った。それは、かつて母と子を引き裂いた、悲しい汽笛ではなく、新しい旅立ちを祝福するような、希望の音色に聞こえた。

楡生は、家族と共に、ゆっくりと、丘を降り始めた。

彼の心は、どこまでも、晴れやかだった。

自分は、中国人でも、日本人でもない。

自分は、ただの、楡生だ。

二つの海を、その魂に抱いて、これからも、愛する者たちと共に、生きていく。

楡の葉が、風に揺れ、きらきらと、南国の陽光を反射していた。それはまるで、天国の父と母が、微笑んでいるかのようだった。


          

~END~


                     『路 金の星-京海物語』 へ

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