第二十一章 青木楡生と張楡生
東京駅の東北新幹線のホームは、ビジネスマンや旅行客の喧騒でごった返していた。だが、その雑踏の中で、張楡生は、まるで分厚いガラスの中にいるかのように、周囲から隔絶された静寂と孤独を感じていた。これから向かうのは、福島県、相馬。まだ見ぬ母が、五十年の歳月を生きてきたかもしれない土地。彼の人生の、全ての謎の答えが、そこにあるはずだった。
ポケットの中の、冷たいロケットペンダントの感触だけが、唯一の現実感だった。それは、過去と未来を繋ぐ、重い、重い錨だった。
新幹線「やまびこ」の指定席に腰を下ろし、列車が滑るように動き出すと、車窓の風景が、猛烈な速さで後ろへと流れ始めた。ビル群が、住宅街に変わり、やがて広大な関東平野の田園風景が広がる。それは、彼がこれまで生きてきた、上海の密集した弄堂とも、東京のコンクリートジャングルとも違う、広々として、どこか物悲しい、見知らぬ日本の原風景だった。
自分は、本当に、この国の人間なのだろうか。
もし、あの時、母・美佐子が、自分を一緒に日本へ連れて帰っていたら。自分は、この車窓の風景を、当たり前の故郷の景色として、眺めていたのだろうか。「張楡生」としての、あの過酷な人生――大躍進の飢え、文化大革命の狂気、理不尽な階級の烙印、そして異国での苦学生としての戦い――その全てを知らずに済んだのだろうか。
青木楡生としての人生。それは、どんなものだっただろう。裕福とは言わずとも、愛情に満ちた家庭で、日本の美味しいものを食べ、日本の学校に通い、日本の友人たちと笑い合い、そして、日本人として、当たり前の青春を送っていたのかもしれない。苦労が絶えなかった「張楡生」の人生を捨てることができたら、どれほど幸せだっただろうか。
その甘美な、しかし毒を含んだ空想が、彼の心を蝕み始めていた。それは、育ての親である洪正と珍蓮への、裏切りにも等しい思考だった。
「すみません、ここ、僕の席だと思うんですけど……」
不意に、頭上から、若々しく、快活な声が降ってきた。はっと我に返ると、楡生は、自分が間違って隣の席に荷物を置いていたことに気づいた。
「あ、申し訳ない」
慌てて荷物をどけると、そこに、一人の好青年が「どうも」と会釈しながら腰を下ろした。歳の頃は、二十歳前後だろうか。日に焼けた健康的な肌、屈託のない笑顔。そして、なぜか、楡生は、その青年の目元や口元に、自分とどこか通じる、不思議な面影を感じ取った。
「どちらまで行かれるんですか?」
青年の方から、人懐っこく話しかけてきた。
「……福島です」
「へえ、僕もです! 福島の、相馬っていう田舎なんですけど。おばあちゃんに会いに」
相馬。その地名に、楡生の心臓が、大きく跳ねた。母がいると、住所が特定された、まさにその場所だった。
「そうですか……私も、人を探しに」
「人探し、ですか。大変ですね」
青年は、須藤翔太と名乗った。彼は、東京の大学に通っており、週末を利用して、母と離れて今はひとりで暮らす祖母の様子を見に帰るところだという。
「おばあちゃん、最近、少し足が弱ってきちゃって。心配なんですよ。頑固で、一人で大丈夫だって言い張るんですけどね」
そう語る翔太の横顔は、祖母を思う、優しい愛情に満ちていた。
その屈託のない優しさが、楡生の心を、鋭く抉った。
これが、日本の家族なのか。これが、日本で、当たり前に育った青年の姿なのか。自分にも、こんな未来が、あり得たのかもしれない。祖母の体を気遣い、故郷へ帰る。そんな、穏やかで、温かい人生が。
楡生は、翔太との当たり障りのない会話の中で、自分の人生を、根底から問い直していた。
人間性、社会性、文化性。自分を形成してきた、その全てが、「張楡生」として、中国という土壌で培われたものだ。共産党のイデオロギーに翻弄され、階級闘争の理不尽さに耐え、貧しさの中で、生きるための知恵を身につけた。それは、紛れもなく、自分自身の人生だった。
だが、もし、「青木楡生」として生きていたら?
日本の民主主義社会の中で、自由な思想を持ち、豊かな文化に触れ、安定した暮らしを送っていたかもしれない。言葉の壁に苦しむことも、差別の視線に心を痛めることもなく。
国とは、何だ。イデオロギーとは、何だ。
家族とは、何だ。血の繋がりとは、一体、何なのだ。
育ての親、洪正と珍蓮。彼らは、血の繋がりもない自分を、実の子以上に愛し、守ってくれた。父・洪正は、自分のために、プライドを捨てて香港のいとこに金の無心までしてくれた。彼の最後の願いは、自分が、本当の母に会うことだった。
では、実の母、美佐子は?
彼女は、五十年間、何を思い、生きてきたのか。自分を捨てたことを、悔やんだ日はあったのか。あるいは、新しい家族と共に、幸せに暮らし、自分のことなど、とうの昔に忘れてしまったのか。
もし、そうだとしたら。
今、自分の出現は、彼女の五十年の平穏を、根底から覆す、残酷な破壊行為になるのではないか。自分は、彼女にとって、過去の罪を思い出させる、忌まわしい亡霊でしかないのではないか。
全ての歯車が、彼の頭の中で、軋みを立てながら、複雑に絡み合っていく。
列車は、郡山の駅を過ぎ、車窓の風景は、より一層、寂寥感を増していた。
会いたい。一目でいいから、母の顔が見たい。そして、問いただしたい。なぜ、自分を捨てたのか、と。
だが、同時に、会うのが、恐ろしかった。真実を知ることが、恐ろしかった。自分の存在が、誰かを不幸にすることが、何よりも恐ろしかった。
ふと、隣を見ると、翔太が、窓の外を眺めながら、静かに何かを口ずさんでいた。それは、楡生が知らない、日本の古い歌のようだった。その穏やかな横顔を見ていると、楡生の心に、一つの、途方もない考えが、浮かび上がってきた。
もしかしたら、この青年こそが、「青木楡生」が歩んだかもしれない、もう一つの人生の姿なのではないか。自分は、この青年のように、健やかで、迷いなく、人を愛し、愛される人生を送ることができたのかもしれない。
そして、同時に、強い確信が、彼の心を貫いた。
もう、どちらの人生も、選ぶことはできない。自分は、「張楡生」であり、同時に「青木楡生」でもある。その二つを、引き裂かれたまま、抱えて生きていくしかないのだ。
だが、これ以上、過去を追い求めることは、今を生きる人々を、傷つけるだけではないのか。
上海で、自分の帰りを待つ、母・珍蓮。彼女は、夫の最後の願いを尊重しながらも、心のどこかでは、息子が、遠い世界へ行ってしまうことを、恐れているはずだ。
東京で、自分を信じ、支え続けてくれる、妻・京海と、息子・義成。彼らの人生は、自分の、この不安定なアイデンティティの上に、成り立っている。
そして、まだ見ぬ、母・美佐子。彼女にも、彼女自身の、五十年の歳月があったはずだ。その人生を、今更、自分が踏み荒らす権利など、あるのだろうか。
列車が、速度を落とし始めた。次の停車駅が、近づいている。
それは、本来の目的地である相馬よりも、ずっと手前の、小さな駅だった。
楡生は、決心した。
彼は、ポケットから、あのロケットペンダントを、そっと取り出した。父の、そして、おそらくは母の、五十年の思いが詰まった、重い、重いペンダント。
彼は、隣でうとうとと微睡み始めた翔太の、その無防備な寝顔を、一瞥した。
そして、まるで、自分の半身を切り離すかのように、そのロケットペンダントを、翔太が座席の網ポケットに無造作に突っ込んでいた雑誌の間に、そっと、滑り込ませた。
なぜ、そうしたのか、彼自身にも、うまく説明できなかった。ただ、この純粋な日本の青年に、自分の、このどうしようもない過去の象徴を、託したい、という衝動に駆られたのだ。それは、過去との決別であり、同時に、あり得たかもしれないもう一つの人生への、鎮魂の儀式のようでもあった。
このペンダントが、いつか、何らかの形で、巡り巡って、母の元へとたどり着くかもしれない。あるいは、このまま、永遠に、誰にも気づかれずに、終わるのかもしれない。どちらでも、よかった。自分は、もう、その結末を見届ける役目からは、降りるのだ。
「プシュー」という音と共に、列車のドアが開いた。
楡生は、静かに、席を立った。
彼は、眠っている翔太に、心の中で、別れを告げた。
(達者でな。君のような青年が、この国にいることを知れただけで、俺は、来た甲斐があったよ)
ホームに降り立つと、冷たい風が、彼の頬を打った。
走り去っていく新幹線の、赤いテールランプが、遠ざかっていく。あの列車は、彼が追い求めていた「過去」を乗せて、走り去っていくのだ。
母に会う、という「コール」を、彼は、自らの意思で、見送ったのだ。
ホームのベンチに、一人座り、彼は、空を見上げた。
心にぽっかりと開いていた穴は、まだ、そこにあった。だが、その穴の縁をなぞる、激しい痛みは、不思議と、和らいでいるようだった。
自分は、青木楡生であるべきか、張楡生で居続けるべきか。
その問いに、答えは出なかった。
だが、彼は、一つの、重い、重い決心を、固めていた。
自分は、ただの「楡生」として、生きていこう、と。
育ての親への、深い感謝と愛情を胸に。まだ見ぬ母の、幸せを、遠くから祈りながら。そして、何よりも、東京で自分を待つ、妻と子のために。
「張楡生」が背負ってきた、全ての過去を引き受けた上で、彼は、生きていくのだ。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、東京方面へ向かう、上り列車のホームへと、足を向けた。
その足取りは、来た時よりも、わずかに、しかし、確かに、軽くなっていた。
彼の、長く、苦しい、心情の旅は、一つの、哀しく、そして気高い決断によって、終わりを告げた。
これから始まるのは、過去を乗り越え、未来を築くための、新たな戦いだった。




