第二十章 五十年の歳月
昭和二十二年、夏。東京の空は、まだ、戦争の焦げ臭い記憶を、その大気に燻らせていた。錦糸町の、闇市上がりの雑踏の中に、青木美佐子はいた。海南島の熱い太陽に焼かれた肌は、日本の湿った空気の中で白さを取り戻しつつあったが、その心の奥底に刻まれた傷跡は、癒えるどころか、日増しに深く、そして鋭く、彼女を苛んでいた。
腕の中に、もう、あの温もりはない。
「おむん」と呼ぶ、愛しい声も聞こえない。
息子の楡生を、遠い南の島に、一人の若い中国人の腕の中に、置いてきてしまった。その事実が、毎晩、悪夢となって彼女を襲った。必ず迎えに行く。その誓いだけが、彼女をかろうじて立たせている、唯一の支えだった。
そして、その誓いを、彼女は決して忘れぬよう、一つの小さな品を、肌身離さず持ち続けていた。それは、亡き夫・信一が、生前、彼女に贈ってくれた、銀のロケットペンダントだった。中には、軍服姿で少しはにかんで笑う、若き日の信一の写真が収められている。そして、もう片方は、空っぽだった。そこには、いつか、この手に取り戻すはずの、息子・楡生の写真を収めるのだ。このロケットは、彼女にとって、過去の愛の証であると同時に、未来への、血の滲むような約束の象徴でもあった。
小さな飲食店「亀屋」での生活は、ささやかだが、温かかった。一人息子を南方の戦地で亡くした老夫婦は、美佐子の姿に、どこか娘の面影を重ねているようだった。彼女は、恩に報いるため、無我夢中で働いた。夜明け前に起き、店の前の打ち水をする。釜の火をおこし、山のような野菜を刻み、閉店後には、油で汚れた床を、膝をついて磨き上げた。その過酷な労働が、かえって彼女の心を、余計な感傷から守ってくれた。疲れて眠りに落ちる、その一瞬まで。
だが、彼女の心に、平穏が訪れることはなかった。
迎えに行かねばならない。一日も早く。そのためには、金が必要だった。安定した職と、そして、息子と二人で暮らせる、小さな家が。だが、敗戦直後のこの国で、身寄りもない一人の女が、それを手に入れることが、どれほど困難なことか。
そんなある日、亀屋に、一人の男が客として現れた。歳の頃は、四十代半ば。仕立ての良いスーツを着こなし、その物腰は柔らかいが、目の奥には、鋭い計算の光が宿っていた。男は、横井正一と名乗った。彼は、戦前、満州で貿易商を営んでいたが、敗戦と共に全てを失い、日本へ引き揚げてきたのだという。そして今、焼け跡の東京で、再び事業を興そうとしている、と語った。
「奥さん、あなたは、ここで皿洗いをしているような人じゃない」
横井は、美佐子の、どんなに身をやつしても隠しきれない気品と、その瞳の奥に宿る強い意志を見抜いていた。
「私の会社で、経理の仕事を手伝ってはくれませんか。必ず、相応の待遇を、お約束します」
その申し出は、美佐子にとって、抗いがたい魅力を持っていた。息子を迎えに行くための、第一歩になるかもしれない。
美佐子は、涙ながらに感謝する亀屋の老夫婦に別れを告げ、横井の、まだ事務所とも呼べない、バラック建ての小さな会社で働き始めた。仕事は、想像以上に過酷だった。横井は、商才には長けていたが、金に汚く、そして、女癖の悪い男だった。彼は、美佐子の美貌に、下心を持っていることを、隠そうともしなかった。会社の金庫には、常に闇市で儲けた、出所の分からない札束が積まれていた。そして、夜、残業をしていると、彼は、酒の匂いをぷんぷんさせながら、美佐子の体に、いやらしく触れようとした。
美佐子は、必死で抵抗した。そのたびに、横井は、舌打ちをし、「可愛げのない女だ」と吐き捨てた。だが、彼は、決して美佐子を解雇しようとはしなかった。彼女の、正確で、実直な仕事ぶりは、ずさんな彼の事業にとって、不可欠なものとなっていたからだ。美佐子は、屈辱に耐え、ただひたすら、金を貯めた。海南島へ渡る船賃、そして、洪正に渡すための、十分な謝礼。その金のことだけを、考え続けた。
そんな彼女の、ささやかな希望を、運命は、またしても打ち砕いた。
昭和二十五年、朝鮮戦争が勃発したのだ。
日本は、戦争特需に沸いた。横井の会社も、その波に乗り、急激に業績を伸ばした。だが、その一方で、中国大陸との航路は、完全に、そして絶望的に、閉ざされてしまった。共産主義国家となった中国は、もはや、自由に行き来できる国ではなくなっていた。
美佐子の、息子を迎えに行くという計画は、実現不可能な、遠い夢と化した。
絶望が、彼女の心を、黒く塗りつぶした。
何のために、生きているのか。何のために、屈辱に耐えているのか。
その夜、彼女は、会社の金庫から、有り金を全て掴み出すと、闇の中に、飛び出した。あてもなく、ただ、彷徨い歩いた。隅田川の、汚く濁った水面を見つめながら、このまま、身を投げてしまおうか、と、何度も思った。
だが、そのたびに、胸元で冷たく光る、あの銀のロケットの存在が、彼女を引き止めた。これを、川底に沈めるわけにはいかない。これは、信一と、そして楡生との、唯一の繋がりなのだ。このロケットの、空っぽの片側に、息子の写真を収めるまでは、死ぬことさえ許されない。
美佐子は、生きることを、選んだ。
だが、それは、希望に満ちた生ではなかった。彼女は、貯めた金を使い果たし、自暴自棄な生活を送った。時には、見知らぬ男と、一夜を共にすることもあった。その行為は、彼女の心を、さらに深く傷つけたが、肉体的な痛みだけが、心の痛みを、ほんの一瞬、忘れさせてくれるような気がした。
そんな荒んだ生活を送っていた彼女を、見つけ出したのは、横井正一だった。
彼は、驚くほど冷静だった。
「……馬鹿な真似は、よせ」彼は、そう言うと、無理やり、彼女を自分の会社へと連れ戻した。「金なら、くれてやる。だが、お前の才能を、こんなところで、腐らせるな」
そして、その夜、彼は、初めて、美佐子を、力ずくで、自分のものにした。
美佐子は、抵抗しなかった。もはや、抵抗する気力も、残っていなかった。その時、彼女は、無意識のうちに、胸元のロケットペンダントを、固く、固く、握りしめていた。まるで、それが、汚されていく自分の中に残された、最後の聖域であるかのように。
その日から、二人の、奇妙な関係が始まった。
横井は、美佐子を、愛人として、自分のそばに置いた。彼は、彼女に、小さなアパートを買い与え、生活の面倒を見た。だが、それは、決して、愛情からではなかった。彼は、美佐子の、決して自分に靡かない、その気高い魂を、所有し、支配することに、歪んだ喜びを見出していたのだ。
美佐子もまた、その生活を、甘んじて受け入れた。彼女は、全ての感情を、心の奥底に封印した。ただ、生きるためだけに、生きる。ロケットペンダントだけは、決して人目に触れぬよう、衣服の奥深くに隠し、眠る時も、肌身離さず身に着けていた。
そんなある日、彼女の体に、異変が起きた。
妊娠していたのだ。横井の、子供だった。
絶望が、再び、彼女を襲った。楡生。遠い島に残してきた、我が子の顔が、脳裏をよぎる。その子を迎えに行けぬまま、別の男の子供を、身ごもってしまった。自分は、母親失格だ。いや、人間失格だ。
彼女は、闇の医者を訪ね、子供を堕ろそうとした。
だが、それを、間一髪で、横井が突き止めた。彼は、鬼のような形相で、美佐子を、アパートへ連れ戻した。
「俺の子供を、殺す気か!」
「……あなたの子など、産みたくありません」
「やかましい! 産め! これは、命令だ!」
横井にとって、子供は、自分の事業を継がせるための、道具でしかなかった。彼は、無理やり、美佐子を、自分の戸籍に入れた。横井美佐子。彼女は、青木の名を、捨てた。
昭和二十七年、春。美佐子は、一人の女の子を産んだ。
その子を、初めて腕に抱いた時、彼女の、凍てついていた心に、何かが、音を立てて、溶け出した。
温かい。柔らかい。小さな、命。
この子には、罪はない。この子だけは、私が、守らなければ。
彼女は、娘に、幸子と名付けた。
娘の存在は、美佐子の人生を、大きく変えた。彼女は、再び、生きる意味を見出した。幸子を、立派に育て上げること。それが、彼女の、新しい目標となった。
横井は、娘の誕生を喜んだが、彼の、美佐子への態度は、変わらなかった。彼は、家庭を顧みず、外に、何人もの愛人を作った。そして、事業が上手くいかないことがあると、その鬱憤を、美佐子に、暴力という形でぶつけた。
美佐子は、耐えた。娘のために。幸子の前では、決して、涙を見せなかった。彼女は、完璧な、優しい母親を、演じ続けた。夜、幸子が寝静まった後、彼女は、一人、古いロケットを握りしめ、声も立てずに泣いた。中の信一の写真に、そして、空っぽのままの片側に、許しを乞うように。
そんな彼女に、ある日、一通の手紙が届いた。
差出人は、竹久保良太。海南島で、夫・信一の、ただ一人の友人だった、あの軍医からだった。
手紙には、彼が、戦後、ずっと、美佐子たちのことを案じていたこと、そして、もし困っているなら、力になりたい、と書かれていた。
美佐子は、その手紙を、何度も、何度も、読み返した。そして、悩んだ末、一度だけ、彼に会いに行くことにした。
本郷にある、竹久保医院。再会した竹久保は、すっかり、落ち着いた町の開業医となっていた。
「美佐子さん……よく、ご無事で」
竹久保の、心からの労いの言葉に、美佐子の、固く閉ざしていた心の扉が、少しだけ、開いた。彼女は、自分の、これまでの過酷な人生を、断片的に、語った。
だが、楡生のことは、どうしても、話せなかった。中国人の男に、我が子を託してきた、などと、どうして言えようか。それは、彼女の、最大の罪であり、誰にも触れられたくない、聖域だった。
そして、彼女は、夫の実家である、青木本家のことも、尋ねた。
「あの家とは、関わらない方がいい」竹久保は、苦い顔で言った。「特に、鶴子姉上は、君のことを、決して、快くは思っていない。信一君の死後、あの家は、財産を巡って、骨肉の争いを続けている。君たちが、巻き込まれるだけだ」
その言葉で、美佐子は、全てを悟った。自分には、もはや、帰るべき場所など、どこにもないのだ、と。
彼女は、竹久保に、今の住所を告げず、「どうか、私のことは、忘れてください」とだけ言い残し、その場を、立ち去った。それが、彼女なりの、過去との決別だった。
歳月は、流れた。
娘の幸子は、すくすくと、美しい少女へと成長していった。彼女は、母に似て、聡明で、そして、芯の強い子だった。
だが、家庭環境は、最悪だった。父・横井の事業は、浮き沈みが激しく、彼の暴力は、ますます、エスカレートしていった。幸子は、そんな父を、心の底から、軽蔑していた。そして、全てに耐え続ける母の姿に、歯がゆさと、そして深い同情を感じていた。
昭和四十五年、幸子が、十八歳になった年。事件は、起こった。
事業に失敗し、多額の借金を抱えた横井が、その腹いせに、美佐子に、いつにも増して、激しい暴力を振るったのだ。そのはずみで、美佐子が肌身離さず身に着けていたロケットペンダントの鎖が、ブチリと音を立てて切れた。床に転がったロケットを、横井が踏みつけようとした、その瞬間。
「やめてっ!」
幸子が、絶叫した。彼女は、母が、そのペンダントを、どれほど大切にしているかを知っていた。彼女は、台所から、包丁を持ち出すと、父の前に、立ちはだかった。
「お母さんを、いじめるのは、やめて! 次に、手を出したら、私、お父さんを、殺すから!」
その、鬼気迫る娘の姿に、横井は、初めて、怯んだ。
その夜、幸子は、切れた鎖のロケットを拾い上げ、母の手に握らせると、その手を引き、家を飛び出した。二人は、着の身着のまま、新しい人生を、始めることを決意したのだ。
それは、再び、どん底からの出発だった。
美佐子は、昼も夜も、働いた。工場の流れ作業、飲食店の皿洗い、ビルの清掃。どんな仕事でも、厭わなかった。幸子もまた、大学へ行くことを諦め、小さな商社で、事務員として働き始めた。
二人は、都心の、古いアパートで、肩を寄せ合って、暮らした。貧しかったが、そこには、横井の支配から逃れた、自由と、そして、母と娘の、温かい絆があった。美佐子は、切れたロケットを、小さな布袋に入れ、お守りのように、大切に持ち続けた。
そんな母娘の人生に、ささやかな、しかし確かな光が差し込んだのは、幸子が、一人の男性と出会ったことだった。
相手は、誠実で、優しい、小学校の教師だった。彼は、幸子の、そして美佐子の、過酷な人生を、全て、受け入れてくれた。
二人は、結婚した。そして、美佐子は、娘夫婦と共に、暮らすことになった。
場所は、福島県。奇しくも、美佐子の、生まれ故郷の海辺の町だった。
そこで、美佐子は、日本に帰ってから初めて、穏やかな日々を、手に入れた。
孫が生まれた。男の子だった。美佐子は、その赤子を腕に抱きながら、遠い、遠い昔の、海南島の記憶を、思い出していた。
楡生。私の、最初の子供。あの子は、今、どうしているだろうか。
その思いは、彼女の心の、一番深い場所に、決して癒えることのない、小さな傷として、ずっと、残り続けていた。
だが、平穏は、またしても、長くは続かなかった。
娘の夫が、若くして、交通事故で、この世を去ってしまったのだ。
幸子は、絶望の淵に突き落とされた。だが、彼女は、母と、そして、幼い息子のために、再び、立ち上がった。彼女は、夫の遺志を継ぎ、自らも、教師になることを決意した。
それから、十数年。
美佐子は、娘の幸子と、孫の三人で、福島の、あの海辺の家で、静かに、暮らしていた。
幸子は、立派な教師となった。そして孫も、たくましい青年に成長した。東京の大学行くことが決まっている。
美佐子の人生は、ようやく、穏やかな、夕暮れの時を、迎えたように、見えた。
彼女は、箪笥の奥に、大切にしまい込んでいた、あの小さな布袋を取り出した。中には、古びた、銀のロケット。開けると、若き日の信一が、変わらぬ笑顔で、こちらを見つめている。そして、空っぽのままの、片側。
もう、ここが埋まることは、ないのだろう。
彼女は、静かに、ロケットを閉じた。
だが、彼女は、知らなかった。
運命の歯車が、再び、大きく、動き出そうとしていることを。
遠い中国大陸で、彼女が残してきた息子が、父の遺言と、もう一つの、対となるべきロケットを胸に、彼女を探す旅を、始めようとしていることを。
そして、その旅が、やがて、この、福島の、静かな海辺の町へと、たどり着くことを。
五十年の歳月。
それは、一人の女性から、若さを、美しさを、そして、多くのものを、奪っていった。
だが、その歳月は、彼女から、決して、奪えないものも、残していた。
それは、我が子を思う、母としての、深く、そして消えることのない、愛情だった。
その愛情が、再び、奇跡を呼び起こすことを、彼女自身も、まだ、知らずにいた。
福島の、灰色の空の下で、彼女は、ただ、静かに、寄せては返す、波の音を、聞いていた。それは、遠い過去と、まだ見ぬ未来を繋ぐ、潮騒の調べのようだった。




