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楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)  作者: 光闇居士


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第十九章 母をさがして

時は、静かに、しかし着実に流れていった。東京の空の下、張家の三人は、互いを支え、まるで一つの生命体のように、この異国の地で必死に生きていた。彼らを結びつけていたのは、血の繋がり以上に強い、「家族」という、誇らしく、そして温かい共同体意識だった。

妻・京海の事故は、悲劇であったが、同時に、彼らに日本の社会の、もう一つの顔を見せてくれた。

事故の原因は、トラック運転手の、完全な信号無視と前方不注意だった。警察での調べではブレーキを一切踏むことなく、交差点に突っ込んでくるトラックの姿が、生々しく語る目撃者がいた。これがもし、法の整備されていない国であったなら、あるいは、運転手がその場から逃げてしまっていたなら。京海の命は、助からなかったかもしれない。

だが、ここは日本だった。警察は迅速に動き、当本人の運転手はすぐ救急車を呼んでくれた。そして、日本の医療チームは、彼らの持てる最高の技術と、驚くほどの献身をもって、京海の命を救ってくれた。何度も繰り返された、十時間を超える大手術。その全てを、彼らは一度も諦めることなく、戦い抜いてくれたのだ。莫大な医療費は、すべて、相手の保険会社が支払うことになった。楡生は、この国の、目に見えない巨大なシステムの、その公正さと精緻さに、深い感銘と、そして畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

義成にとって、母が長く病床にいることは、いつしか、当たり前の日常となっていた。彼は、学校が終わると、病院へ直行し、母のベッドの横で宿題をこなし、たわいない話をして聞かせるのが日課だった。母の笑顔が、彼の何よりの喜びだった。彼は、この不自由な生活の中に、父と母と、三人だけで過ごせる、かけがえのない幸福を見出していた。

楡生にとっても、この期間は、ある意味で、精神的な猶予期間となった。最初の「特例」ビザは、とっくに切れていた。だが、重傷を負った妻を看護するという、人道的な理由から、彼と、そして息子の義成には、「家族滞在」という、特別なビザが発給された。それは、彼が、焦って進学先を探す必要も、ビザの期限に怯える必要もない、二年間という、貴重な時間を与えてくれた。彼は、ひたすら働いた。昼は建設現場、夜は居酒屋。そして、その合間に、病院へ通い、妻の看病を続けた。その生活は、肉体的には過酷だったが、目的は明確だった。家族を守る。ただ、それだけだった。

やがて、京海は、驚異的な回復力を見せた。事故から二年ほどしてから、彼女は、ついにベッドから降り、松葉杖をつきながらも、自らの足で歩けるようになったのだ。リハビリは、想像を絶する苦痛を伴ったが、彼女は、決して弱音を吐かなかった。その強い意志は、夫と息子の存在が、支えていた。

京海が歩けるようになったことで、家族の生活は、新たなステージへと移行した。もはや、楡生に「家族滞在」ビザは下りない。彼は、再び、留学生という身分に戻らねばならなかった。彼は、妻と同じ道を選んだ。経理の専門学校に入学し、新聞奨学生として、自らの学費と生活費を稼ぐ道を選んだ。

夜明け前の、凍てつくような暗闇の中、重い新聞の束を自転車に積み、担当区域の家々へと配って回る。その過酷な労働は、かつて妻が味わった苦労を、彼に追体験させた。そして、その苦労を知るからこそ、彼は、妻への感謝と尊敬の念を、より一層、深くした。

高校生になった義成もまた、家族の一員として、その責任を果たそうとしていた。彼は、学校の許可を取り、放課後や週末に、近所のスーパーで品出しのアルバイトを始めた。初めて稼いだ給料で、彼は、母に温かい靴下を、そして父に、少しだけ良い銘柄のインスタントコーヒーを買って帰った。その夜、三人は、狭いアパートで、インスタントコーヒーを啜りながら、互いの労をねぎらい、静かに笑い合った。貧しく、厳しい生活。だが、そこには、確かな幸福があった。

しかし。

楡生の心の奥底には、常に、一つの、満たされることのない渇きがあった。それは、果たせていない、たった一つの願い。

母を、さがすこと。

京海が回復し、義成も成長し、家族の生活が、ようやく軌道に乗り始めた今、彼は、再び、その中断していた旅を、再開する決意を固めた。

東京近郊での捜索は、行き詰まっていた。父が亡くなった後、珍蓮が話し始めた母は東北の「福島県」の出身という、唯一の手がかり。彼は、今度こそ、その蜘蛛の糸を、本格的に手繰り寄せてみようと思った。彼は、これまでの捜索で知り合った、残留孤児支援団体の、初老の女性職員、高橋さんに連絡を取った。

「高橋さん、ご無沙汰しております。張です」

「あら、張さん! 奥様の具合は、いかがです?」

高橋さんは、いつも、母親のように、楡生たちのことを気にかけてくれていた。

楡生は、福島県という手がかりについて話した。そして、何か、知恵を貸してもらえないかと、懇願した。

「……福島、ですか。範囲が広すぎますね……。ですが、一つ、方法がないわけではありません」

高橋さんは、しばらく考えた後、言った。

「昔、満州からの引揚者の方々が、互いに連絡を取り合うために作っていた、『交友会』というものが、各地にありました。福島の、その交友会の名簿が、もしかしたら、うちの資料室のどこかに、眠っているかもしれません。ただ、何十年も前の、膨大な資料です。見つけ出すのは、容易ではありませんが……」

「お願いします! どんなことでもします!」

その日から、楡生の、新たな戦いが始まった。彼は、アルバイトの合間を縫って、支援団体の、埃っぽい地下資料室に通い詰めた。そこには、戦後の混乱期に記録された、手書きの、あるいは質の悪いガリ版刷りの名簿が、ダンボール箱に、何百箱と、無造作に積まれていた。

彼は、一枚、一枚、その黄ばんだ紙を、めくっていった。無数の、名前、名前、名前。その一つ一つに、戦争に翻弄された、それぞれの人生があった。彼は、自分の母親を探しながら、同時に、自分と同じように、あるいはそれ以上に、過酷な運命を生きてきた、無数の人々の、声なき声を聞いているような気がした。

数ヶ月が過ぎた。季節は、春から夏へと移ろいでいた。成果は、まだ、なかった。焦りが、再び、彼の心を支配し始めていた。

そんなある日、楡生は、資料室の隅で、一人の老人と出会った。

老人は、楡生と同じように、古い名簿を、熱心にめくっていた。その背中は、深く曲がり、その顔には、深い年輪が刻まれていた。

「……あんたも、人を探してるのかね」

老人が、不意に、楡生に話しかけてきた。

「ええ……まあ」

「そうか。わしもだ。満州で、生き別れになった、妹をな。もう、五十年に、なるかのう」

老人は、遠い目をして、そう言った。

二人は、自然と、身の上話を交わすようになった。老人の名は、佐藤といった。彼は、満州で生まれ育ち、敗戦の混乱の中、家族と離れ離れになり、一人で日本へ引き揚げてきたのだという。

楡生は、自分の境遇を、正直に話した。中国で生まれ、中国人として育ったこと。そして、日本の、顔も知らぬ母を探していること。

「そうか……そうか……」佐藤老人は、楡生の話を、何度も頷きながら、聞いてくれた。「あんたも、わしらと、同じだな。戦争の、落とし子だ」

それから、二人は、良き友となった。彼らは、互いに励まし合いながら、黙々と、名簿をめくり続けた。佐藤老人は、楡生に、多くのことを教えてくれた。当時の引揚者たちが、どのような苦労をして、日本社会に根付いていったか。そして、彼らが、どのような思いで、大陸に残してきた家族を、思い続けていたか。

楡生は、佐藤老人の話を聞きながら、これまで自分が抱いていた、母への、一方的な怒りのような感情が、少しずつ、変化していくのを感じていた。母もまた、この国で、一人、孤独に、戦ってきたのかもしれない。自分と同じように、あるいはそれ以上に、深い苦悩を、抱えて生きてきたのかもしれない。

そして、運命の日は、突然、訪れた。

その日、佐藤老人は、一つの、ぼろぼろになった、手書きの名簿の束を、楡生の前に差し出した。

「張さん、これを見てみんか。福島県の、相馬地方の、引揚者交友会の、初期の名簿だ。近しい名前が乗ってないかのう」

楡生は、祈るような気持ちで、そのページをめくった。

そして、彼の目は、ある一点に、釘付けになった。

『横井美佐子(旧姓 青木)』昭和三十八年登録更新

心臓が、鷲掴みにされたように、激しく脈打った。

住所、そして、引揚日。海南島から、昭和二十一年。全てが、符合する。

「……あった……」

声が、震えた。

「あったぞ……佐藤さん……!」

佐藤老人は、そのページを覗き込むと、我がことのように、目を細めた。

「よかった……本当によかったな、張さん……」

その皺だらけの目から、一筋の、温かい涙が、こぼれ落ちた。

人と人との出会いが、奇跡を呼んだ。もし、高橋さんがいなければ。もし、佐藤老人が、この名簿を見つけてくれなければ。この広大な時の海の中で、母の痕跡を見つけ出すことなど、決してできなかっただろう。

だが、喜びも束の間、楡生は、新たな壁にぶつかった。名簿に書かれていた住所は、古く、現在の地図には、もはや存在しなかった。市町村合併や、区画整理によって、地名は、すっかり変わってしまっていたのだ。

彼は、再び、途方に暮れた。

その時、彼を救ったのは、息子の義成だった。

事情を聞いた義成は、高校の地理の教師に、その古い地名について、尋ねてくれたのだ。教師は、郷土史に詳しい人物で、古い地図と、現在の地図を、何時間もかけて照らし合わせ、ついに、その場所を特定してくれた。

それは、福島県相馬郡の、海を見下ろす、小さな、丘の上だった。

全ての準備は、整った。

楡生は、旅立つ前夜、妻と息子に、改めて、自分の決意を語った。

「明日、俺は、母さんに、会いに行く」

京海は、夫の手を、固く握った。

「ええ。行ってらっしゃい。どんな結果になっても、私と義成は、あなたの家族よ。それだけは、忘れないで」

義成もまた、少し大人びた顔つきで、言った。

「父さん、頑張って。僕も、父さんの息子として、恥じないように、頑張るから」

家族の絆が、彼の背中を押していた。

翌朝、楡生は、一人、東北へと向かう、新幹線に乗り込んだ。

車窓を流れる、見知らぬ、しかし、どこか懐かしい日本の風景。それは、彼の、本当の故郷へと続く、道だった。

父・洪正の、最後の願い。

支援団体の、高橋さんの、温かい励まし。

佐藤老人との、奇跡的な出会い。

そして、妻と息子の、揺るぎない愛。

たくさんの人々の思いが、彼の旅を、支えていた。

母をさがす。

その、あまりに長く、そして孤独だった旅は、今、ようやく、終わりの時を、迎えようとしていた。

彼が、その先に、何を見出すのか。それは、まだ、誰にも分からない。

だが、彼は、もう、恐れてはいなかった。

どんな真実であろうと、それを受け止め、乗り越えていく力が、今の彼には、確かに、宿っていたからだ。

新幹線の白い車体は、未来へと向かう、一筋の光のように、北へ、北へと、ひた走っていた。

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