第四部 再会と新生 ― 桜の国へ 第十七章 見知らぬ祖国
第四部 再会と新生 ― 桜の国へ (1990年代~)
第十七章 見知らぬ祖国
1989年の秋風は、天安門の銃声が残した火薬の匂いを、いまだに大陸の隅々まで運び続けていた。動乱の熱は公式には鎮圧されたことになっていたが、人々の心に刻まれた不信と恐怖の亀裂は、日増しに深くなるばかりだった。張楡生は、あの忌まわしい事件の後、妻の京海と交わした電話での約束を、心の羅針盤としていた。この国を出る。そして、日本で、本当の自分の人生を始めるのだ。
だが、熱に浮かされたような決意も、上海の現実の空気に触れると、次第に冷静さを取り戻していった。そうだ、準備が必要だ。あまりに唐突すぎる。彼は、再び日本で一人戦う妻に、次の電話でこう告げた。「京海、少し時間をくれ。半年後、必ず行く。それまで、準備をさせてほしい」。
その準備とは、母・珍蓮と、息子・義成の生活基盤を固めること、そして何よりも、日本へ渡るための、正当な理由とビザを手に入れることだった。彼は、葛大偉の元で働きながら、水面下で、母・美佐子を探すための情報を集め、そして、日本大使館に「探親(親族訪問)」ビザの申請を粘り強く続けた。妻と離れ離れの日々は二年以上立とうとした彼の申請は、数ヶ月後、奇跡的にも受理された。三ヶ月間の滞在が許可されたのだ。
1989年11月末日。その日は、息子の義成が、十二歳の誕生日を迎える日だった。
前日の夜、楡生は、東京にいる妻と、いつものように国際電話で話していた。
「明日、義成の誕生日だな。俺は、来月、ようやく日本へ行けることになった。三ヶ月のビザが下りたんだ。この間に、必ず、母さんを探し出す」
「……そう。よかったわね」
受話器の向こうの京海の声は、どこか疲れていた。息子の成長を、一番そばで見てやれない。その悔しさが、彼女の言葉の端々から滲み出ていた。
「義成に、お誕生日おめでとうと伝えて。母さんも、あなたを待っているわ。体に気をつけて……」
それが、日常会話の延長線上にある、いつもと変わらない、夫婦の会話だった。
翌日、11月30日。誕生日当日。
昼休み、楡生は、南京路にある老舗のデパート「第一百貨商店」へ、予約していたバースデーケーキを受け取りに向かった。バタークリームの薔薇が飾られた、少し不格好だが、この国では最高級のケーキ。息子の喜ぶ顔が目に浮かび、彼の口元は自然と緩んだ。
その時だった。
腰に付けたポケットベル――BB機が、けたたましい振動と共に、数字の羅列を表示した。会社の電話番号だ。緊急の呼び出しに違いない。胸騒ぎを覚えながら、彼はケーキの箱を抱え、急いでオフィスへと向かった。
オフィスは、和平飯店の真横にある欧州式のレンガビルの一室にあった。彼がドアを開けると、同僚の若い女性事務員が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「張さん! 大変! 日本から、国際電話です! あなたを名指しで……奥さんが、何か……」
「何だって?」
「十二時半に、またかけ直す、と……」
壁の時計を見ると、針は十二時二十五分を指していた。あと、五分。楡生の心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始めた。一体、何が? 京海の身に、何かあったのか?
ちょうどその時、昼食から戻ってきた葛大偉が、楡生のただならぬ様子に気づいた。
「どうした、楡生。顔色が悪いぞ」
「いえ、日本から、妻のことで……」
彼が言い終えるか終えないかのうちに、オフィスの電話が、けたたましく鳴り響いた。
全ての視線が、その電話機に集中する。楡生は、一瞬、ためらった。その受話器を取ることが、恐ろしかった。
葛が、無言で、顎をしゃくった。取れ、と。
楡生は、震える手で、受話器を取った。
「……もしもし」
電話の向こうから聞こえてきたのは、早口で、切羽詰まった日本語だった。
「張楡生さんでいらっしゃいますか! こちらは、日本の警視庁です! 落ち着いて聞いてください。奥様の兪京海さんが、今朝六時ごろ……」
その後の言葉は、楡生の耳には、まるで遠い国の、意味のない音の羅列のようにしか聞こえなかった。
――奥様が、自転車で、交差点を横断中、右折してきた大型トラックにはねられました。
――現在、意識不明の重体です。
――すぐに救急搬送され、救命救急センターで、応急措置を施しております。
――ですが、予断を許さない状況が、今も……
楡生は、壁の時計を見上げた。日本との時差は、一時間。今、上海は十二時半。つまり、東京は、午後一時半。事故から、既に七時間半が過ぎようとしている。
「……京海に、電話を、代わってもらえませんか」
それが、楡生が、かろうじて絞り出した、唯一の言葉だった。
「旦那さん! 聞こえますか! 奥様は意識不明です! 電話に出られる状態ではありません!」
電話の向こうの声が、苛立ったように大きくなる。
「検査の結果、頭部に深刻な損傷が見られます! 危険な状態ですが、このままでは生命の保証ができません! 我々としては、緊急手術に踏み切りたい! そのための、ご家族の許可をいただきたいのです!」警察官の隣で大きい声で医者と思われる人物が発声した。
手術。許可。意識不明。
単語だけが、彼の脳内で、意味もなく反響する。彼は、放心状態だった。立っているのか、座っているのかさえ、分からない。世界が、白く、遠くなっていく。
周りの同僚たちが、ただ事ではないと気づき、楡生を囲む。その時、葛大偉の、雷のような声が響いた。
「小林! 小林はいるか!」
たまたま事務所に来ていた、日本語通訳の林健偉が、慌てて駆け寄る。
「楡生は、もう駄目だ。小林、お前が代われ! 相手の言うことを、一言一句、正確に書き留めろ! いいな!」
小林は、こわばった顔で頷くと、楡生の手から、力なく垂れ下がっていた受話器を、そっと引き取った。彼は、流暢な日本語で、冷静に、淡々と相手の話を聞き、メモを取っていく。
その、機械的なやり取りの途中で、楡生が、はっと我に返った。彼は、まるで亡霊のように立ち上がると、小林から、再び受話器をひったくった。
「もしもし!」
電話の相手は、変わっていた。今度は、警察でも、お医者先生でもなく、京海が働いていた、新聞販売店の社長だという、人の良さそうな声の男性だった。
「旦那さん! 大変なことになって……。本当に、申し訳ない……。奥さんは、うちで一番の頑張り屋で……」
その社長は、言葉を詰まらせながら、状況を説明した。そして、信じられない言葉を続けた。
「今朝、病院からの連絡を受け、すぐに、私の方で調べまして、日本の外務省に掛け合いました。事情が事情ですので、特例として、あなたと、お子様に対する、緊急の査証が、たった今、発給されました! こちらから、そちらの日本大使館、もしくは領事館に、許可書を至急、ファクシミリで送ります! ファックス番号は、ありますか! とにかく、一刻も早く、日本へ来てください!」
その言葉は、地獄の底で見た、一筋の光だった。
楡生は、一旦、気持ちを落ち着かせ、葛大偉の方を向いた。何かを言おうとしたが、言葉にならない。
だが、葛は、全てを察していた。彼は、楡生の肩を、力強く掴んだ。
「何も言うな。このオフィスの、全ての資源を、お前のために使え」
その声には、いつもの豪胆さが戻っていた。
「今後のことなど、今は気にするな。まず、息子さんを連れて、奥さんのそばへ行ってやれ。それが、お前の、今やるべき、唯一の仕事だ。パスポートは、あるな?」
「……はい」
「よし! 小李! すぐに会社の車を回せ! 楡生の家の鍵を預かり、着替えと、息子さんのパスポートを取ってこい! それから、林! お前は、大使館と連絡を取り、ファックスの受け取りと、ビザの発行手続きを、最優先で進めろ! いいな、これは、命令だ!」
葛の、淀みない指示が、混乱していたオフィスに、一本の筋を通した。同僚たちが、一斉に動き出す。
楡生は、葛の目を、まっすぐに見つめた。そして、深く、深く、頷いた。感謝の言葉は、もはや不要だった。
そこからの数時間は、まるで戦争のようだった。
会社の専属ドライバーである小李が、信じられないほどのスピードで、楡生の家とオフィスを往復する。林は、大使館の担当者と、電話で粘り強く交渉を続ける。そして、ついに、日本の外務省から送られてきた、一枚のファックスが、ガガガ、と音を立てて、オフィスに吐き出された。
その紙切れ一枚が、楡生と義成の運命を、切り開いた。
楡生は、その足で、義成が通う小学校へと向かった。授業中の教室のドアを、ためらいもなく開ける。驚く教師と、生徒たちの視線が、一斉に彼に突き刺さる。
彼は、クラス担任の教師にだけ、緊急事態であることを簡潔に告げると、当分学校へは来られないことを伝え、呆然とする義成の手を引いて、教室を後にした。
「父さん、どうしたの? ケーキは?」
「……義成、よく聞け。母さんが、日本で、少しだけ、怪我をした。だから、今から、父さんと一緒に、飛行機に乗って、お見舞いに行くんだ」
不安がる息子を、必死で慰めながら、彼は、そう説明した。
家に戻り、妹の慧文に電話をかけ、母・珍蓮のことを託した。事情を聞いた珍蓮は、電話口で泣き崩れたが、最後には「早く、行ってやりなさい!」と、息子の背中を押してくれた。
航空チケットの手配も、葛が懇意にしている旅行代理店が、総力を挙げて動いてくれた。最短で、翌朝十時、上海虹橋発、東京行きの直行便。その最後の二席を、確保することができた。
ごった返す空港の中を、楡生は、義成の手を固く握りしめ、ひたすら歩いた。パスポートに押された、仮のビザのインクが、まだ生々しい。
飛行機が、離陸する。眼下に広がる上海の街が、急速に遠ざかっていく。
隣の席で、義成が、不安げに、父の顔を見上げている。
「父さん、母さん、大丈夫だよね……?」
「……ああ、大丈夫だ。絶対に、大丈夫だ」
楡生は、そう答えながら、心の中で、叫んでいた。
京海、死なないでくれ。俺が行くまで、待っていてくれ。お前と、義成と、三人で、まだ始まってもいない、俺たちの人生を、これから、始めなければならないんだ。
見知らぬ祖国、日本。
それは、彼にとって、もはや、母を探すための場所ではなかった。
愛する妻の命を繋ぎ止め、家族の未来を取り戻すための、決戦の地へと、変わっていた。
予期せぬ悲劇は、しかし、皮肉にも、彼を、そして彼の家族を、新たな次元へと、力づく押し出そうとしていた。人々の善意と協力が、絶望的な状況の中に、確かに、温かい光を灯していた。その光を頼りに、楡生は、人生最大の試練へと、立ち向かっていく。




