第十六章 天安門の銃声と決意
父の骨は、上海郊外の、まだ新しい霊園の一角に埋葬された。その小さな墓石の前で、楡生は、ただ茫然と立ち尽くしていた。父が死の床で語った、衝撃的な告白。それは、彼の脳内で、いまだに整理のつかない、巨大な情報の渦となってうず巻いていた。青木美佐子。青木信一。青木楡生。そして、あのロケットペンダント。自分の人生は、自分が知るものとは全く違う、もう一つの物語の上に、成り立っていたのだ。
すぐにでも、日本へ飛んで、まだ見ぬ実の母を探しに行きたい。心の底から、そう叫ぶ声が聞こえる。だが、その声は、冷酷な現実の壁に、虚しくこだまするだけだった。
現実は、厳しい。
東京での彼の身分は、かろうじて「求学生」という、細く、頼りない一本の糸で繋がっているに過ぎない。この糸は、進学という形で学費を払い続けなければ、いとも簡単に断ち切られてしまう。日本語学校の二年が終われば、専門学校へ。そこを卒業すれば、大学へ。そうやって、ビザを繋いでいく。それが、当時の中国人留学生たちが、日本に滞在し続けるための、唯一の道だった。成績が悪かったり、出席日数が足りなかったりすれば、容赦なくビザは更新されない。日本の入国管理局――通称「入管」は、決して話の通じる相手ではなかった。彼らは、留学生を、潜在的な不法就労者として、常に疑いの目で見ていた。
多くの仲間たちは、日本語学校二年、専門学校二年、大学四年、そして大学院へと進み、そうやって十年近い時間を稼ぎ、その間に永住権への道を探るというのが、暗黙のセオリーだった。だが、そのためには、莫大な学費と、生活費が必要になる。睡眠時間を削り、学業と、いくつものアルバイトを掛け持ちする。夫婦で日本にいる留学生たちは、そうやって、互いを支え合い、歯を食いしばって生きている。
そして、何よりも大きな問題は、息子の義成のことだった。今の彼はまだ小さすぎる。未成年の子供を「帯同家族」として一般留学生が呼び寄せることなど、聞いたこともない。もし、自分が日本での生活を続けるなら、幼い我が子と、夫を亡くしたばかりの老いた母を、この上海に置き去りにしていくことになる。それは、人として、許されることなのか。
父の葬儀を終え、初七日が終わる頃には、楡生の心は、引き裂かれそうになっていた。
「……京海、どうすればいいと思う?」
上海の家の、狭い部屋で、彼は、日本から急ぎ駆けつけてくれた妻に、途方に暮れて尋ねた。妻は、父の葬儀の間、気丈に、そして細やかに、嫁としての務めを果たし、憔悴しきった義母の珍蓮を、黙って支え続けていた。
その晩、楡生は、妻に、全てを話した。父の告白、自分の本当の出自、そして、あのロケットペンダントの秘密。彼は、妻が驚き、あるいは戸惑うだろうと覚悟していた。
だが、京海の反応は、彼の予想を超えていた。彼女は、静かに、じっと夫の話を聞き終えると、ふっと、溜め息のような、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……あなたとの人生は、本当に多彩で、退屈しないわね」
その一言に、楡生は救われた。この妻は、どんな時も、自分を丸ごと受け止めてくれる。
「確かに」京海は、続けた。「もし、その美佐子さんという方をすぐに見つけて、あなたが実の子として認知してもらえれば、話は全く変わってくるわ。日本人になれば、留学生を一番苦しめる、あの忌々しいビザの問題からは、完全に解放される。でも……」
彼女の言葉は、そこで鋭く現実へと切り込んだ。
「でも、どうやって探すの? 四十年前の、あの焼け野原の東京よ。その美佐子さんという方が、ご存命かどうかも分からない。手がかりは、名前と、あの一枚の写真だけ。あまりに、無謀だわ」
京海の言う通りだった。希望は、あまりに、あまりに細い。だが、楡生は思った。何も始めなければ、結果はゼロのままだ。
「学校に、相談してみようと思う。留学生を支援してくれるような、そういう組織があるかもしれない」
「……そうね。やってみる価値は、あるかもしれない」
そして、楡生は、最も言いにくい言葉を、口にした。
「京海、相談があるんだ。俺のビザは、もうすぐ進学先を決めないと、延長ができなくなる。でも、君のビザは、まだ一年、猶予がある。今のこの状況で、義成と母さんを、ここに二人きりにはしておけない。だから……俺は、一旦、上海に留まりたいと思う。君は、先に、もう一年、東京で頑張ってくれないだろうか。俺は、ここで働きながら、二人を支える。葛廠長に頼めば、仕事には戻れるはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、京海の顔から、すっと表情が消えた。
「……私を、一人で、東京に残すって言うの?」
その声は、静かだったが、深い、深い悲しみがこもっていた。それは、夫への失望であり、自分たちの運命への、静かな抗議だった。
「いや、そうじゃない! そうじゃないんだ、京海!」
楡生は、慌てて否定した。だが、彼は、その時、初めて気づいた。自分がいかに残酷な提案をしているか、そして、今の自分には、彼女を納得させられる言葉が、もはや何一つないという事実に。彼の心は、家族への責任と、妻への愛情との間で、完全に引き裂かれていた。
翌朝、楡生が目を覚ますと、隣に妻の姿はなかった。枕元に、一枚のメモ書きが、そっと置かれていただけだった。
『わかりました。義成と、お義母さんのことを、お願いします。私は、もう一年、東京で、私自身の道を切り拓いてみます』
その短い、しかし決意に満ちた文章に、楡生は胸を締め付けられた。夫婦の間では、それ以上、多くの言葉は交わされなかった。
上海へ戻るまでの残り一ヶ月、楡生は、再び、妻と東京に戻り、必死で働き詰めた。そして、稼いだ金のほとんどを、妻の二年目の前期の学費として払い込み、残った全財産の三分の一だけを、上海へ持ち帰ることにした。それは、妻への、せめてもの贖罪の気持ちの表れだった。
上海に戻った楡生は、約束通り、葛大偉に連絡を取った。
「そうか、戻ってきたか。待っていたぞ」
電話の向こうの葛の声は、温かかった。聞けば、彼は今、金山の国有石化企業の、上海拠点の商社を任されているという。オフィスは、南京路の一等地、あの和平飯店の真横に歴史的な外見と、近代的な内装を備えるオフィスだ。
「お前の席も、用意してある。技術的な知識を持つ、お前のような人間が、これからの営業には必要なんだ。ぜひ、うちに来てくれ。給料は、基本給が月八百元。あとは、お前の働き次第で、歩合がつく。やればやるほど、稼げるぞ」
それは、破格の条件だった。不本意ながらも、楡生は、それが、今の自分が選べる、最善の道だと自分に言い聞かせた。そして、彼は、全く新しい世界へと、足を踏み入れることになった。
商社の営業。それは、技術者一筋でやってきた彼にとって、全てが新鮮な驚きに満ちていた。中国全土への出張。様々な地方の人間との出会い。そして、何よりも、改革開放の波に乗って、再びこの「東洋の魔都」上海に集まり始めた、外国人ビジネスマンたちとの、丁々発止の交渉。
彼の高い順応性と、技術的な裏付けのある的確な提案は、すぐに頭角を現した。彼は、出張の際、時には息子の義成を同行させ、父と子の時間を少しでも作ろうと努めた。日本人との交渉では、彼が日本で身につけた日本語能力と、日本人の気質への深い理解が、絶大な武器となった。
仕事は、面白かった。自分の能力が、正当に評価され、それが直接、収入という形で返ってくる。そのダイナミズムは、国有企業の歯車として働いていた頃には、決して味わえなかったものだった。彼は、知らず知らずのうちに、この新しい仕事の魅力に、取り憑かれ始めていた。
だが、その充実感は、常に、日本で一人奮闘する妻への罪悪感と、表裏一体だった。
京海との連絡は、週に一度の国際電話だけだった。受話器の向こうから聞こえる妻の声は、いつも明るく、気丈だった。
二年が過ぎようとしていた頃、彼女から、吉報が届いた。
「あなた、聞いて。学校が、新聞奨学生という制度を紹介してくれたの」
それは、毎朝、朝刊を、そして夕方、夕刊を配達することを条件に、どんな学校の学費も、新聞社が肩代わりしてくれるという制度だった。さらに、毎月十万円の生活費まで支給されるという。
「これで、学費の心配はなくなったわ。ビザも、専門学校に進学して、繋ぐことができた。だから、あなたは、もう、お金の心配はしないで。自分の仕事に、集中して」
その言葉に、楡生は、安堵すると同時に、胸が痛んだ。極寒の冬の朝、暗い中、重い新聞の束を抱えて自転車を漕ぐ妻の姿を想像すると、たまらない気持ちになった。彼女は、居酒屋のアルバイトを辞め、早朝のビル清掃の仕事だけを残して、学業と新聞配達に打ち込む妻に、ただ、言葉で「頑張れ」と励ますことしかできなかった。
夫婦の心は、物理的な距離以上に、少しずつ、すれ違い始めていたのかもしれない。互いを思いやり、気遣っているつもりでも、それぞれの置かれた過酷な現実が、二人の間に、見えない溝を作り出していた。楡生は、新しい仕事の成功に、ある種の逃避を見出し、京海は、日本での自立という、孤独な戦いに、その全精力を傾けていた。
そして、その溝を、決定的に引き裂く、歴史的な事件が起こった。
1989年6月4日。
その日、楡生は、いつものように、工場がある上海近郊の金山への出張から、上海のオフィスに戻ってきた。オフィスは、不気味なほどの静けさに包まれていた。誰もが、ラジオやテレビのニュースに、固唾をのんで耳を傾けている。北京で、学生たちの民主化を求めるデモが、武力によって鎮圧された、と。
だが、国内の報道は、あまりに曖昧で、統制されていた。「反革命暴乱を、人民解放軍が鎮圧した」と、繰り返すばかり。
その夜、深夜。日本の妻からの、切羽詰まった国際電話が、彼の家の電話を鳴らした。
「あなた! テレビのニュースを聞いて! 日本のニュースを!」
受話器の向こうの京海の声は、恐怖と怒りで、震えていた。
「天安門広場で、大変なことが起きている! 戦車が…! 戦車が、学生たちを…! 人民解放軍が、自国の民を、撃っているのよ!」
彼女は、日本のテレビが映し出す、衝撃的な映像を、一つ一つ、絶叫するように、楡生に伝えた。無数の学生や市民が、広場に集結し、民主化を訴える姿。そして、そこに突入していく、装甲車の列。響き渡る、断続的な銃声。炎上する車両。血を流して倒れる、若者たち。
「嘘だ……」楡生は、呟いた。「人民解放軍が、人民を撃つなんて、そんなこと、あるはずがない……」
「嘘じゃないわ! 今、この目で見ているのよ! 世界中が、この光景を見ているの! 私たちが信じてきたものは、何だったの? 人民のための党? 人民の軍隊? 全部、全部、嘘っぱちじゃないの!」
京海は、泣き叫んでいた。それは、彼女の、純粋な愛国心と、社会主義への信頼が、根底から、完全に打ち砕かれた瞬間の、魂の慟哭だった。
楡生は、受話器を握りしめたまま、全身から血の気が引いていくのを感じた。心底から、冷え切っていく。
この国は、狂っている。
自分の父親を、罪人として吊し上げ、家族を破壊した、あの文化大革命。
自分の才能と努力を、「家柄」という、たったそれだけの理由で、踏みにじった、この党の体制。
そして今、未来を担うべき若者たちの、ささやかな要求を、戦車と銃弾で踏み潰す、この国家の暴力。
もう、駄目だ。この国に、希望はない。
父を亡くしてから、彼を取り巻いていた、全ての矛盾。新しい仕事への魅力と、妻への罪悪感。日本への憧れと、家族への責任。その全てが、この天安門の銃声によって、一つの、明確な結論へと、収束していった。
逃げ出さなければならない。この国から。
妻と、息子を、この狂った国から、救い出さなければならない。
そのためなら、どんなことでもする。どんな手段を使ってでも。
彼の脳裏に、あのロケットペンダントが、鮮やかに蘇った。
そうだ。道は、一つしかない。
まだ見ぬ、実の母、青木美佐子を探し出すのだ。それが、自分と、家族が、この絶望から抜け出すための、唯一の、そして最後の光なのだ。
楡生は、受話機の向こうで、まだ泣き続けている妻に、静かに、しかし、鋼のような決意を込めて言った。
「京海、聞いてくれ。俺は、決めた。もう一度、日本へ行く。そして、今度こそ、必ず、母さんを……青木美佐子さんを、探し出す」
それは、もはや、感傷や好奇心からではなかった。
愛する家族を守るための、一人の男の、退路を断った、最後の戦いの始まりを告げる、宣誓だった。
天安門の銃声は、多くのものを破壊し、多くの命を奪った。
だが、その絶望の響きは、皮肉にも、張楡生の心に、揺るぎない一つの決意を、打ち立てたのだ。
第四部へと続く、彼の新たな、そして最も過酷な旅が、今、始まろうとしていた。




