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楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)  作者: 光闇居士


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第十四章 妻、京海

「――以上が、我々四名による、四ヶ月間にわたる日本での技術視察の報告です。結論として、日本の提案する統合生産システムは、現行のドイツ式プランに対し、あらゆる面で優位性を持つと判断します。その信憑性は、我々の目から見て、九割以上が適合していると確信しています。国家の未来のため、そしてこの金山プロジェクトの成功のため、私は、日本のシステムソリューションを全面的に採用することを、強く具申いたします」


三時間以上に及ぶ、熱のこもった報告を終えた時、張楡生の額には、びっしりと汗が滲んでいた。だが、その声には、疲労の色よりも、一つの大きな仕事を成し遂げたという、確かな自負と達成感がみなぎっていた。日本の工場で見た、塵一つない床、寸分の狂いもなく動くロボットアーム、そして何よりも、自らの仕事に誇りを持ち、絶えず「カイゼン」を追求する技術者たちの真摯な眼差し。その全てが、彼の魂を揺さぶり、このプロジェクトが進むべき道を、明確に指し示していた。彼は、自分の目で見た真実を、ありのままに、そして情熱の限りを尽くして語った。


会議室は、水を打ったように静まり返っていた。居並ぶプロジェクトの上層部の幹部たちは、腕を組み、難しい顔で黙り込んでいる。その視線は、もはや楡生ではなく、壇上で静かに座る、廠長の葛大偉に注がれていた。


「……ご苦労だった」


 葛は、重々しく口を開いた。その声には、以前のような腹の底からの響きが、どこか欠けているように感じられた。


「張工程師の報告は、実に詳細かつ有益なものだった。上層部で、慎重に検討させてもらう。……さて、お前は四ヶ月も家を空けていたんだ。さぞ疲れただろう。特別に、一週間の休暇をやろう。家族とゆっくり休んで、日本の土産話でもしてやれ」


その言葉は、労いの響きを持っていたが、楡生の耳には、どこか空々しく、そして巧妙な先延ばしのように聞こえた。なぜだ? なぜ、この場で即決しない? 国家的損失を、一日でも早く食い止めるべきではないのか?


だが、相手は、自分をここまで引き上げてくれた、絶対の信頼を寄せる葛大偉だ。彼には彼の考えがあるのだろう。楡生は、湧き上がる焦燥感を無理やり押し殺し、深く頭を下げた。


その週末、楡生は、山のような土産物を抱えて、上海の小さな我が家に戻った。


「義成、ただいま! 父さんだぞ!」


「父さん!」


 五歳になった息子は、見慣れぬ父親の姿に一瞬戸惑いながらも、すぐにその胸に飛び込んできた。楡生は、息子の体をきつく抱きしめた。この温もり、この重み。四ヶ月という時間が、どれほど長いものであったかを、改めて実感した。


 夜、家族三人、狭い部屋で身を寄せ合う。楡生は、アルバムを取り出し、日本で撮った写真を見せながら、旅の思い出を語り始めた。


「ほら、これを見ろ、奈良の鹿だ。こいつら、お辞儀をすると、せんべいをねだってきてな」


「これは、金閣寺。本当に、金色に光っているんだ。こっちは銀閣寺で……」


妻の京海には、資生堂の口紅と、SK-IIという名の、高価な化粧水。息子の義成には、スイッチを入れると「ワンワン」と可愛らしく鳴きながら歩く、ふわふわの毛並みをした犬のおもちゃ。父と母には、保温性の高い下着。妹の慧文と弟の滬生には、流行りのウォークマン。


楽しいはずの、団らんの時間。だが、楡生の心には、ぽっかりと、大きな穴が開いたような、奇妙な空虚感が漂っていた。なぜだろう。日本の素晴らしさを語れば語るほど、自分の言葉が、まるで空気を虚しく掻くだけのように感じられる。自分の「日本押し」が、この国の、この家族の中でさえ、どこかで拒絶されるのではないかという、根拠のない、しかし拭いがたい予感が、彼の心を蝕んでいた。心、ここに在らず。その状態を、妻の京海は見抜いていた。


彼女にもまた、夫に話せない秘密があった。


楡生が日本へ旅立ってから、京海の人生もまた、大きな転機を迎えていた。彼女は、義成の子育てに奮闘しながらも、紡績工場での仕事に打ち込んだ。その真面目さと、天性のリーダーシップは、ここでもすぐに認められ、わずか三年足らずで、現場を取り仕切る副工場長へと異例の昇進を遂げたのだ。


 だが、喜びも束の間、彼女の前に、見えない壁が立ちはだかった。さらなる高みを目指そうと、党の幹部に相談した際、彼は、同情的な、しかし冷たい口調で言ったのだ。


「兪同志、君の能力と忠誠心は、誰もが認めるところだ。だが、残念ながら、これ以上の昇進は、望めないだろう」


「……なぜですか」


「分かるだろう。君の夫、張楡生君のことだ。彼の家柄、そして彼自身の政治的背景が、足枷となっている。君が彼と添い遂げる限り、党の核心に、これ以上近づくことはできない」


その言葉は、京海の心を、冷たい刃で抉った。夫の楡生も、これまで数回、共産党への入党申請を出していたが、そのたびに「小資産階級の出身」という、生まれ持った、決して消すことのできない烙印によって、退けられていた。


 二人とも、四十代を目前に控え、まさに人生の頂点へと駆け上がろうという、その絶頂期にいた。だが、その頭上には、決して打ち破ることのできない、分厚いガラスの天井が、無情にも存在していたのだ。


京海は、この事実を、夫に告げることができなかった。彼の誇りを、これ以上傷つけたくはなかった。だが、彼女は、心の底から感じ始めていた。自分たちが信じ、青春の全てを捧げてきた、この共産党という組織、そして社会主義という理念に対する、深い、深い矛盾と、欺瞞を。


楡生もまた、妻から言われるまでもなく、空気の変化を肌で感じ取っていた。


帰国して、金山の工場に戻ると、同僚たちの視線が、明らかに以前とは違っていた。そこには、称賛や羨望ではなく、憐憫と、そしてどこか距離を置こうとするような、不自然な色が混じっていた。


 そして何より、葛大偉の態度が、決定的に変わっていた。日本へ行く前の、あの燃えるような情熱は、もはや彼の瞳からは感じられない。楡生が日本のシステムの優位性を改めて力説しても、彼は「うむ」「そうか」と気のない返事をするだけで、どこか話を逸らそうとする。あしらわれている。その屈辱的な感覚が、楡生の全身を苛んだ。


やがて、彼は、あのドイツ出張チームの存在を知ることになる。候建駿と李鶴青が、三ヶ月かけてドイツのメーカーと交渉し、すでに報告を済ませていること。そして、上層部が、最終的に、日本の提案ではなく、ドイツのプランを、一部修正した上で採用する方向で内定しているという、信じがたい噂を耳にした。


 全てが、腑に落ちた。葛大偉の不可解な態度も、同僚たちの憐れむような視線も。自分は、ドイツとの交渉を有利に進めるための、ただの「当て馬」として、日本へ行かされたのだ。自分の四ヶ月間の奮闘は、情熱は、国家の未来を思った提言は、全てが、巨大な政治の取引の、小さな駒として利用されたに過ぎなかったのだ。


絶望が、彼の心を支配した。休暇の残りも待たず、土曜日の夕方、彼は金山の独身寮へと舞い戻った。部屋に閉じこもり、安物の白酒を、水のように煽った。アルコールが、脳を麻痺させ、思考を停止させる。だが、心の奥底で燃え盛る、屈辱と怒りの炎だけは、消すことができなかった。


翌朝、ひどい頭痛と吐き気で目を覚ました。日曜の朝。だが、彼は、じっとしていられなかった。無人の工場が、彼を呼んでいるような気がした。ふらつく足取りで、二期プロジェクトの巨大なプラントへと向かう。四ヶ月ぶりに見る、自分が心血を注いで設計した生産ライン。それは、まるで我が子のように愛おしく、そして今は、自分の裏切りを静かに詰っているかのようにも見えた。


彼は、誰に言われるでもなく、設備の点検を始めた。バルブの圧力、配管の繋ぎ目、制御盤の計器。一つ一つ、指で触れ、目で確かめていく。その無心な作業だけが、彼の心の痛みを、わずかに和らげてくれた。


そんな時だった。


ふと、鼻をついたのは、化学物質の焦げる、異様な匂い。そして、視界の端に、ゆらりと立ち上る、黒い煙が見えた。


「……まさか!」


楡生は、弾かれたように顔を上げた。煙は、隣接する一期プロジェクトの、石油化学プラントの方角から上がっている!


全身の血が、凍りついた。あそこには、高圧の可燃性ガスや、揮発性の高い化学薬品の貯蔵タンクが、無数に並んでいる。もし、あそこに火が燃え移ったら……この金山コンビナート全体が、火の海と化す。それは、国家的な大惨事になる。


もはや、思考する余裕はなかった。彼の体は、総設計者としての本能だけで動いていた。彼は、近くにあった緊急連絡用の電話に飛びつくと、消防署と、葛大偉の自宅へ、狂ったようにダイヤルを回した。そして、受話器を叩きつけると、火元へと全力で疾走した。


現場は、地獄の様相を呈していた。一つの反応釜から火の手が上がり、周囲の配管に巻き付いた断熱材に、勢いよく燃え移っている。休日出勤していた数人の作業員が、なすすべもなく、消火器を右往左往させているだけだった。


「馬鹿者! そこじゃない! まず延焼を防ぐんだ!」


楡生は、雷のような大声で怒鳴った。


「主配管の緊急遮断バルブを閉めろ! 予備冷却システムを起動させろ! 可燃性ガスのタンクに、水をかけ続けろ!」


 彼の頭脳は、極限状態の中で、驚異的な速度で回転していた。プラントの全ての配管、全てのバルブの位置、全ての緊急時対応マニュアルが、彼の頭の中には、完璧な三次元の地図としてインプットされていた。彼の指示は、的確で、迅速で、一切の無駄がなかった。


 現場の作業員たちは、突然現れた彼の鬼気迫る様子に圧倒され、催眠術にかかったように、その指示に従い始めた。


だが、火の勢いは、それを上回っていた。


「駄目だ! 主バルブが、熱で変形して閉まらない!」


作業員の一人が、絶望的な声を上げた。


このままでは、数分以内に、火は隣の巨大なナフサタンクに到達する。そうなれば、万事休すだ。


「……俺が行く」


楡生は、呟くと、近くにあった濡れた麻袋を頭から被り、炎の中に飛び込もうとした。


「張工程師! 無茶です!」


誰かが、その腕を掴んだ。振り返ると、そこには、同じく休日にもかかわらず、現場に居合わせた、ライバルの候建駿がいた。彼の額にも、熱風による軽い火傷ができていた。


「一人では無理だ! 俺も行く!」


二人の間には、もはやライバル意識などなかった。ただ、この危機を乗り越えるという、技術者としての共通の使命感があるだけだった。


楡生と候は、濡れ麻袋を盾に、灼熱地獄の中へと突っ込んでいった。皮膚を焼く熱波、息を詰まらせる有毒な煙。主バルブは、すぐそこに見える。だが、その数メートルが、果てしなく遠い。


楡生は、腕に巻き付けた麻布が、じりじりと焦げ付いていくのを感じながら、渾身の力で、巨大なハンドルに手をかけた。熱い! 皮膚が焼け爛れるような激痛が走る。だが、彼は、歯を食いしばり、全身の体重をかけて、ハンドルを回した。びくともしない。


「くそっ!」


その時、候建駿が、横からそのハンドルに掴みかかった。


「一、二の、三!」


二人の力が、一つになった。ギ、ギギギ……。嫌な金属音を立てて、固着していたバルブが、ほんの少しだけ、動いた。


「いけるぞ!」


希望が見えた、その瞬間だった。


頭上の配管が、熱で耐えきれず、轟音と共に崩れ落ちてきた。


「危ない!」


候建駿が、楡生を突き飛ばした。楡生は、数メートル吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。意識が、遠のいていく。薄れゆく視界の中で、彼が最後に見たのは、崩れ落ちてきた鉄骨の下敷きになりながらも、最後までバルブを回し続けようとしていた、候建駿の姿だった。


……気がついた時、彼は、工場の医務室のベッドの上にいた。


両腕には、包帯が分厚く巻かれ、焼けるような痛みが走っていた。


「楡生!気がついたか!」


ベッドの脇には、上海から駆けつけた、蒼白な顔の葛大偉が立っていた。


火は、楡生の初期対応と、消防隊の懸命な活動によって、最悪の事態に至る前に、鎮火されたという。だが、一人の犠牲者が出た、と。


「候建駿は……」


「……即死だった」葛の声は、震えていた。「だが、彼は、最後の力で、バルブを完全に閉めきった。彼が、この金山を、いや、国を救ったんだ」


楡生の目から、熱い涙が溢れ出した。


数週間後、金山プロジェクトの講堂で、表彰式が開かれた。


故人となった候建駿工程師は、国家の英雄として、最高の栄誉を追贈された。


そして、両腕に痛々しい火傷の痕が残る張楡生は、国有財産を守ったとして、「一等功」を授与された。彼は、英雄として、壇上に立たされた。だが、彼の心は、晴れることがなかった。


授賞式の裏舞台。リハーサルのため、次に二等功で表彰される、額に軽い火傷を負った李環と並んで座って待っていた時だった。壁の向こうから、あの陰湿な李鶴青が、後輩の若いエンジニアに話している声が、聞こえてきた。


「まあ、張楡生も、これで少しは箔がついたかもしれんがな。しょせん、あいつはここまでだ。あいつの家柄のせいで、党の上層部からは、『只能利用、不能重用(利用はするが、重用はすべからず)』っていう、お墨付きをもらっているんだ。いずれ、第一線からは外される、使い捨ての駒だよ」


その言葉は、冷たい毒矢のように、楡生の心の、一番柔らかい部分に突き刺さった。英雄? 一等功? 全てが、茶番に思えた。どれだけ努力しても、どれだけ成果を上げても、命を懸けて国のために尽くしても、生まれ持った家柄という、自分ではどうすることもできない鎖からは、決して逃れられないのだ。


心の穴は、もはや、絶望という名の暗黒で、完全に満たされていた。


彼は、表彰で与えられた、公傷補助金の六十元を、ただ握りしめた。そして、その足で、上海の妻の元へと帰った。


ドアを開けると、京海が、心配そうな顔で立っていた。彼女は、夫の、死人のような顔色を見て、全てを察した。


楡生は、妻の顔を見た瞬間、これまで心の奥底に押し殺してきた、全ての感情の堰が、一気に決壊した。


「……京海」


彼は、子供のように、その声を発した。そして、妻の胸に顔をうずめると、声を上げて、泣き出した。


「悔しい……悔しいんだ……! 俺は、一体、何のために……!」


ワン、ワンと、まるで傷ついた獣のように、彼は泣きじゃくった。それは、英雄でも、天才技術者でもない、ただの、傷つき、打ちのめされた、一人の男の、声なき魂の叫びだった。


京海は、何も言わなかった。彼女はただ、泣き崩れる夫の体を、その細い、しかし強い腕で、力いっぱい抱きしめた。彼女の目からも、大粒の涙が、止めどなく溢れ、夫の髪を濡らした。


彼女にも、分かっていた。この国が、いかに理不尽で、矛盾に満ちているか。そして、自分たちが、どれほど無力であるか。


だが、それでも。


この腕の中にある温もりだけは、誰にも奪わせはしない。この人の魂の叫びを、受け止められるのは、世界で自分しかいない。


二人は、狭い部屋の真ん中で、一つの塊のように、ただ抱き合って泣き続けた。窓の外では、改革開放の新しい風が、強く、そして虚しく、吹き抜けていった。成功の頂点から突き落とされた夫婦の心に、これから、どんな変化が訪れるのか。それは、まだ、誰にも分からなかった。

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